第十七話 染め(二)
虫の苦手な方はご注意ください
季節は確実に冬に向かっていたが、『エアコン』により、蚕室は快適な気温・湿度に保たれている。
5人の『幹部候補生』たちが飼っている蚕たちは桑の葉を食べることをやめ、熟蚕となっていた。
「お、これならいいぞ」
視察に来たアキラは喜んで、ハルトヴィヒが先日完成させた『回転蔟』を使ってみることにした。
「はあ、なるほど、蚕が集まって重くなったらひっくり返るんでやすね」
通算3度目の飼育になる5人は、蔟が回転する意味をきちんと理解してくれていた。
「そういうことだ。今回からこれを使っていく。不具合がないか気をつけていてくれ」
「わかりやした」
『幹部候補生』の5人は誠実で、養蚕に対して熱意が感じられるのでアキラもいい人材が来てくれた、と喜んでいる。
「俺も毎日見に来るが、何かあったらすぐに知らせてくれよ」
「へい」
* * *
養蚕の産業化に向けての歩みは、遅々としてはいるものの確実に前進していることが感じられ、アキラもやり甲斐を感じている。
そして今、その先にあるもの——製品化への取り組みも始まっていた。
そう、『染色』である。
2日前からリーゼロッテが中心となって、試しに『繭』を染めてみようと試行錯誤しているのだ。
「どうだい、調子は?」
アキラが訪ねたのはリーゼロッテの工房……というより研究室だ。
薬品を扱うこともあるので、庭の北側、最も離れた納屋を改造して使っている。
元は納屋とはいえ、侯爵家の納屋であるから、6坪くらいの広さがあり、しかも煉瓦造りであった。『エアコン』も備え付けられ、居心地は悪くない。
アキラはここに、最低でも朝昼夕と3度顔を出している。
「うーん、なかなか難しいわね」
リーゼロッテの前には、乾燥した草や木の葉が並べられていた。
「季節的に難しいのよね」
「そうだろうな……」
この世界では、いわゆる『草木染め』が主流であるから、冬になったばかりの今は、新鮮な材料が手に入らないのである。
「今手に入るのはこんなものなのよね」
リーゼロッテが指し示したのは小さな松笠のような実、枯れた草の束、タマネギ、それに紅茶。
「どれも茶色系しか染まらないのよ」
あの艶やかな絹なら、赤、青、黄色。鮮やかな色に染めてみたいと思うのは人情だろう。
「うーん、でも『黒』という選択肢もあるぞ」
アキラは、伝統芸能の際に着る『和服』に、黒いものが多いことを知っていた。
「黒、ねえ……茶色ならここにあるんだけど」
リーゼロッテは残念そうな顔をした。
「うーん、俺もよくはわからないんだが、茶色って多分タンニンの色だから、鉄と反応させれば黒になるんじゃないのか?」
紅茶の茶葉があったので、お茶にはタンニンが含まれている、という知識のあったアキラは何気なく口にする。
「え? 鉄と反応? 何それ?」
だが、リーゼロッテは知らなかったらしく、アキラに飛びかからんばかりの顔をした。こういう時の知識欲はものすごい。
「え、ええと、確かタンニンと鉄が反応……つまり混じると『タンニン鉄』になると黒くなるってことしか知らない」
「ふうん……ちょっと試してみようかしら」
リーゼロッテは、小さな松笠のような実を、ガラスの鍋に入れて水で煮始めた。
「これは『アルダー』の実よ。毛糸や毛織物を茶色に染めるのに使うの。……そういえば、染めに鉄鍋は絶対使っちゃいけないって言われてるわね……」
「ああ、きっとそれだ。染めをやっている人は、経験的に鉄と染め液が反応すると色が変わってしまうことを知っているんだよ」
「なるほどね……」
だが、まだ化学が未発達なため、『鉄媒染』を行うのに適した化学物質が得られず、積極的な利用がされていないのであった。
「うーん、何かいい化合物はないかな……」
アキラはなけなしの化学知識を探っていく。
「塩化鉄……塩化第二鉄……駄目だ……あとは……酸化鉄……って赤錆だっけ……それから……酢酸……鉄……うん?」
酢酸鉄、という単語を思い出したアキラ。
「酢酸はつまり酢だ。酢に鉄を漬ければいけるんじゃないかな?」
その言葉を聞いていたリーゼロッテは、
「うん、それ採用。やるだけやってみるわ。ありがと、アキラ」
と、1人納得して材料準備を始めたのである。
「えーっと、じゃあ、頼んだ」
それ以上そこにいても、役に立てそうもないので、アキラはリーゼロッテの研究室を出たのであった。
* * *
「お、アキラ」
「ハルト」
リーゼロッテの研究室を出たアキラは、ハルトヴィヒとばったり出会った。
「回転蔟、そろそろ出番だろう?」
「ああ、そうだな。今朝、指示を出してきた」
「お、それならいよいよか。ちゃんと役に立つか、気になるよ」
歩きながらそんな会話を交わす2人。
そこにミチアが加わった。
「あ、アキラさん、ハルトヴィヒさん。……そろそろお昼ご飯の時間ですよ」
「うん、わかった」
「私はこのままリーゼロッテさんを呼んできますね」
ミチアは足早に立ち去った。その息が白い。
手も少し赤くなっていたな、とアキラは思った。
* * *
「ミチア、蜜蝋ってあるかな?」
昼食後、アキラはミチア本人に尋ねてみる。
「蜜蝋ですか? ミツバチの巣から採れる蝋ですよね? ありますよ」
「封蝋に使われているぞ」
と、ハルトヴィヒも口を添えた。
「少し……いや、一瓶くらい手に入るかな?」
「大丈夫だと思います。この辺……というか、大旦那様の領地に養蜂が盛んな村がありまして、蜂蜜と一緒に送られてきますので」
ちなみに養蜂も『異邦人』が伝えたそうだ。
「そうか、それはよかった。あとは……あまり癖の強くない油って何があるかな?」
「大豆油かヒマワリ油……でしょうか」
ここで、それまで黙って聞いていたリーゼロッテが口を開いた。
「ねえアキラ君、いったい何を作ろうとしているの?」
それは薬師として当然の疑問だろう。
「ああごめん。ええと、『ハンドクリーム』を作ろうと思ってね」
「はんどくりーむ?」
「はんどくりーむ……ですか?」
リーゼロッテもミチアも聞いたことはないようだ。
「手に塗るクリームで、ひびやあかぎれの予防になるんだよ。ミチア、手が荒れているだろう? これからもっと寒くなると辛くなるだろうと思って」
「えっ……」
その言葉を聞いて、ミチアは頬を染めた。そんな彼女を見て、リーゼロッテがはやし立てる。
「あー、ミチア、想われてるわねー」
「え、ええと……ありがとうございます?」
そんな2人を見てアキラは、
「そういうことだからリーゼ、手伝ってくれるよな?」
と決定事項的に話しかける。
「ええと、いいわよ? ミチアだけじゃなく、メイドたちみんなが助かるでしょうしね」
「そういうことだな。それに、もう一つ理由がある」
「それは?」
アキラは、『染め』を行うと、必然的に水を扱うため手が荒れやすくなるし、あらかじめハンドクリームを塗っておくことで手に色が移りにくくなる、と説明した。
「ああ、確かに染めものをしている人って手が染まっているわね」
ということで、アキラとリーゼロッテはミチアたちメイドのためにハンドクリームを作ることにしたのである。
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次回更新は4月29日(日)10:00の予定です。
20190612 修正
(誤)回転蔟
(正)回転蔟
2箇所修正。




