第十九話 蚕時雨(こしぐれ)と勾配(こうばい)
北国にも春が来た。
蚕たちも5齢となり、その食事量はものすごいことになっている。
次の脱皮後、蛹になるため、もりもり食べているのだ。
「お蚕さんが食べる桑の葉は1匹あたり100グラムくらいといわれている。その88パーセントを5齢で食べるんだ。ちなみに4齢の時は9パーセント、1齢から3齢の間で3パーセント」
「す、凄い差ですね……」
「だろう? だからこの時期は忙しいんだよ」
蚕に桑の葉を与えながらアキラが説明する。
「ちょうど桑畑も桑の葉が伸び始める頃で、タイミングもぴったりだ。お蚕さんは夜も眠らないで桑の葉を食べるからな」
「ははあ……」
5齢の蚕はおよそ7センチくらいまで大きくなる。生まれたばかりの時は2.5ミリくらいなので30倍近い。
若い桑の葉はシャクシャクショリショリ、少し固くなってきた桑の葉だとパリパリ。
……というが、それは数が少ないときの話。
数百匹の蚕が桑の葉を食べる音は、ザーッと聞こえる。
「なんだか、雨の音みたいですね」
紅一点のベルナデットがそう言うと、アキラは頷いた。
「やっぱりそう聞こえるか。俺の国では『蚕時雨』といって、小雨が降る音に例えているよ」
「風情のある言葉ですね」
ひととおり桑の葉を与え終わったアキラたちは、しばし『蚕時雨』に耳を澄ますのだった。
* * *
さて、ハルトヴィヒである。
茶色いガラスを作り出した彼は、試薬ビンを検討していた。
一番の目的は、愛妻リーゼロッテのためである。
彼女は『魔法薬師』。要するにこの世界における化学者。
試薬をいろいろと所有しており、その保管に気を使っているのだ。
「コルクで栓をするのもいいが、劇薬はなあ……」
コルクを侵す薬品も多々あるのだ。
例えば硫酸などの酸の保存には不向きだろうと思われた。
「と、なるとこれだな」
『携通』に載っていた『摺合栓』である。
その名のとおり『摺り合わせる栓』だ。
ビンも蓋もガラス製。
オス側が栓、メス側がビンの口。それぞれにごく弱いテーパーが付いているので、ぴったり嵌り合う。
試薬を入れる際には、その試薬で摺り合わせ面を若干濡らしておくと気密が保たれる。
断面が真円になるように旋盤を使って研磨するが、難しいのはテーパーの量だ。
テーパー、つまり『先細り』になるようにするのだが、この『度合い』を決めておかないと、『面』で接触せず『線』でしか接触しなくなってしまう。
当然、気密は保ちにくくなるわけだ。
ゆえに『規格』が必要となる。
今回は、おそらくこの世界で初めての試みなので、ハルトヴィヒが決めなければならない。
「角度……での管理は無理だろうな」
テーパーの度合いを表す方法は幾つかある。
1つは平行に対しての角度。先端角何度、というような表し方だ。
もう1つは『勾配』。何ミリの長さに対し何ミリ細くなるか、ということだ。
鉄道ではこちらが使われ、進んだ距離に対し登った高さで表す。
かつての信越本線碓氷峠は勾配が66.7パーミル(1パーミルは1000分の1)という急勾配で(水平距離約9.2キロに対して高低差が553メートル)、一時『アプト式』といって線路の中央にラック(平歯車)を敷設して機関車側の歯車と噛み合わせることでスリップを防止したこともあるほど。
あるいは家屋の屋根。
日本では屋根勾配を『何寸勾配』と表記していた(今も一部では踏襲している)。
水平寸法10寸に対し立ち上がり寸法が6寸のとき、これを『6寸勾配』という。つまり三角関数でいう『タンジェント』だ。
蛇足ながら、大工道具の鉋の刃も『何分勾配』と呼ぶ。こちらは1寸(10分)に対しての立ち上がりを同じく『分』で表したものだ。
閑話休題。
ハルトヴィヒは角度ではなく『勾配』で規格を決めようと考えた。
そこで、『携通』に載っている『摺合栓』のカタログを確認。
それほどたくさんの品物が載っているわけではないため、参考になる値はすぐに見つけることができた。
「12:20:10か……」
これは、太い側が直径12ミリ、長さが20ミリで細い側が直径10ミリ、という意味である。
「つまり20ミリあたり1ミリの勾配だな」
その他にも15:25:13、24:30:21、45:50:40などという値もあった。
「これを参考にしてジグを作ればいいだろう」
旋盤に取り付け、バイト(刃物)をスライドさせる際に、平行ではなくこうした勾配を付けて移動させることでテーパーの付いた製品を仕上げることができる。
「相手がガラスだから、刃物というよりヤスリだな」
ガラスの場合、切削というよりも『研削』になる。
その場合、ダイヤモンドヤスリを使うと効率がよい。
「水を掛けながら削るのか……」
『携通』に載っていた絵では、削る際に水を掛けている。
これは、ダイヤモンドという物質が熱に弱いからと思われた。
「ダイヤモンド研削用の旋盤を作る必要があるな……アキラに相談してみよう」
新たな旋盤を作る必要がありそうなので、予算についてアキラと相談しようとハルトヴィヒはすぐ隣りにある『絹屋敷』へ向かった。
* * *
「なるほど、いわば『研削旋盤』だな」
「そういうことになるか」
「将来的にガラス細工もできるようなものを設計してもらいたいな」
「なるほど、その方がいいな」
アキラとしては色ガラスを使って『切子細工』や『カットグラス』を作れたらいいかもしれない、と考えていた。
ゆえにハルトヴィヒの提案で、それが少し具体性を帯びてきたのだ。
「慌てることはないから、いいものを作ってくれ」
「わかった。やってみるよ。……ところで、前侯爵閣下に頼んでいたガラス細工の職人はどうなったんだ?」
まもなくやって来るという話だったはずとハルトヴィヒは言った。
「ああ。そのことなんだが、なんでも予定していた職人が都合が悪くなって来られなくなったそうだ。だからまだしばらく掛かりそうだな」
「待つしかないな。まあ、僕は自分のできることをするよ」
「頼むよ、ハルト」
こうして、ガラス加工のための機械が検討されることになったのである。
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次回更新は8月27日(土)10:00の予定です。
20220820 修正
(旧)
「わかった。やってみるよ。……ところで、溶かして形を作る方のガラス細工は前侯爵閣下に職人の紹介を頼んでいるんだろう?」
「ああ。でもまだ返答がないんだ。辺境だからなあ。なかなか来手がないんだろう」
(新)
「わかった。やってみるよ。……ところで、前侯爵閣下に頼んでいたガラス細工の職人はどうなったんだ?」
まもなくやって来るという話だったはずとハルトヴィヒは言った。
「ああ。そのことなんだが、なんでも予定していた職人が都合が悪くなって来られなくなったそうだ。だからまだしばらく掛かりそうだな」
(誤)大工道具の鉋の刃も『何分勾配』と呼、こちらは1寸(10分)に対しての立ち上がりを同じく『分』(1寸の10分の1)で表したものだ。
(正)大工道具の鉋の刃も『何分勾配』と呼ぶ。こちらは1寸(10分)に対しての立ち上がりを同じく『分』で表したものだ。
20250923 修正
(旧)「つまり20ミリで1ミリ、ということだな」
(新)「つまり20ミリあたり1ミリの勾配だな」




