第十五話 一息ついて
アキラたちはフィルマン前侯爵から方位磁石の実用化を依頼されたが、一朝一夕にできるものではない。
まず、どんな形の『方位磁石』を作るか考えることにした。
『方位磁石』には大雑把に言って『乾式』と『湿式』がある。
『乾式』は丸いケースの中に磁針が自由に回転するように収めたもので、安価なものが多い。
『湿式』は密封されたケースの中に磁針を収め、機械油で満たしたもの。
磁針の揺れがオイルの粘性によって減衰され、停止までの時間が短くなり、より正確に方位を読み取れるのだ。
この『湿式』が最終目標である。
「なるほど。そうなると、封入するケースは透明な方がいいな?」
アキラの書いた絵を見て、ハルトヴィヒが確認するように尋ねた。
「そうだな。水晶か? ガラスか? そういったものになるだろう。あるいは上半分だけが透明でもいいと思う」
また、リーゼロッテは、
「オイル……油よね。あまりねばねばしたものは駄目ね。さらさらした油か……オリーブ油かしら」
アキラは、こちらの世界にあるオリーブ油が不乾性油かどうかは知らなかった。
「うーん、どうだろう? それも実験していかないと駄目だな。あと、できるなら鉱物性の油を使いたいな」
だが。
「鉱物性?」
どうやらこの世界では、石油はまだ一般的ではないようだった。
「先は長いな」
アキラは深呼吸をすると、
「焦らず、着実に、じっくりいこう」
と、自分に言い聞かせるように宣言した。
「そうだな。今やりかけの仕事は、蚕の飼育法確立、繭から糸を取り出す道具、その糸から布を織る織機。それに加えて発電機、方位磁石。やり甲斐はあるが、道を見失わないようにしないとな」
「そ、そうね」
ハルトヴィヒはアキラの意見にすぐ賛成し、リーゼロッテも熱くなった頭を冷やすように2、3度振ってから頷いたのであった。
* * *
「ミチア、あの5人はどうしている?」
一息ついたアキラは、『幹部候補生』の様子をミチアに尋ねた。彼女は1日の半分を彼らの教育に充ててくれているのだ。
「はい、もう簡単な読み書きはだいたいできます。計算も足し算引き算はなんとか」
「お、それならそろそろマニュアルも読んでくれそうだな」
「ええ、大丈夫でしょう」
それから、とミチアは一息置いて、
「蚕の方は3齢になって、多分もうすぐ『眠』に入ります」
「そうか、順調だな」
「みん、ってなに?」
ミチアと話していたアキラに、リーゼロッテが質問する。
「リーゼは知らなかったっけ。蚕の幼虫って、脱皮を繰り返して成長するんだけど、皮を脱ぐ前に桑の葉を食べなくなってじっとしている期間があるんだよ。眠っているように見えるので『眠』っていうのさ」
「へえ、そうなの。……というか、私も蚕の育て方を一とおり覚えなきゃいけないのよね」
最近は横道に逸れてばかりなので忘れがちだが、元々が養蚕を産業化するという目的のために雇われたハルトヴィヒとリーゼロッテなのである。
「あとで様子を見に行ってこようっと」
「うん、そうしてくれ」
アキラも、そんなリーゼロッテの様子にほっこりするのであった。
「あと、セヴランさんがやらせている挿し木なんですけど、なかなかうまくつかないそうです」
「うーん、そうか……」
桑の木は成長が早いので、挿し木で苗を増やそうとしているのだが、あまりうまくはいっていないようだ。
「……確か、挿し木のコツがあった気がするんだよな」
そういった資料は『携帯汎用通信機』、通称『携通(K2)』の中にデータとして保存されているはずなのだ。
「古い枝の方がよかった、という気もする」
今のアキラの記憶ではここ止まりである。
「それでは、セヴランさんにそのことだけでもお伝えしておきます」
「ああ、頼んだ」
通常の挿し木は若い枝の方が活着しやすいものが多いので、セヴランも今年伸びた枝を剪って挿し木をしていたようなのだ。
「やっぱり早く発電機を作らないとなあ……」
* * *
アキラたちは、あらためてやるべきことを見直しはじめた。
「とにかく発電機は、銅線に塗る絶縁塗料が届かないともうこれ以上進まないな」
鉄心やローターなどはハルトヴィヒによって完成していた。
織機については、参考用として一般に流通しているものを発注してあるが、届くまでにまだ数日掛かるだろうと思われた。
繭から糸を取り出す道具は、アキラにもどうするか見当がついていない。やり方はわかっているので、もう少し繭の数が増えたらハルトヴィヒと共に取り掛かりたいと考えている。
「こうしてみると、どれも中途半端だが……方位磁石を一応の完成型に仕上げてしまおうか」
方位磁石は鉱物油が問題だが、アキラは『乾式』を完成させてしまうことにした。
「よしきた」
ということでアキラは、きちんとした形の『磁針』をハルトヴィヒに用意してもらうことから始める。
「それじゃあ、こういう形のものを作りたいと思う」
アキラはラフスケッチを描いてみせる。ハルトヴィヒはそれを見て、おおよその構想を脳裏に完成させた。
「よし、任しておけ」
物が小さいので、製作時間も短いとハルトヴィヒは請け合い、1人工房へと向かった。
残されたのはアキラとリーゼロッテ。
「相変わらずよね、ハルは」
ハルトヴィヒが出て行ったドアを見つめながらリーゼロッテは微笑んだ。
「アキラ、『鉱物油』っていったわよね? それについてもう少し詳しく教えてくれない?」
「うん、もちろんだ。……だいたいは石油、っていって、地面から湧く油を精製して作るんだ」
アキラにもそれほど知識があるわけではないが、この説明だけでリーゼロッテは何かに思い当たったらしい。
「地面……油……聞いたことはある気がするわ。もっと南の方の国で、井戸を掘ったら黒い水のような油が湧いたとか何とか」
「それだ! それが石油だよ」
「そうなの? でも粘っこいし臭いし、毒性もあるらしくて、その井戸は封印されたっていうけど」
「その油、手に入らないかな?」
「無理でしょうね……海の向こうの国の話だし、私だって又聞きだから正確じゃないでしょうし」
アキラは溜め息をついた。まだまだこの世界で石油が使われるようになるのは先らしい。
「ねえ、水じゃ駄目なの?」
水に縫い針を浮かべたのだから、油の代わりにならないかとリーゼロッテは思ったらしい。
「あー、磁針はどうしても鉄製になるだろう? だから錆びるんだよ……」
「あ、そっか」
ケースは錆びない材質を使うことができても、磁針は鉄製なので、水に漬けていてはどうしても錆が発生する。
「だから油なのね」
「うん。固まらない油で、さらさらしているものがあれば鉱物油でなくてもいいんだがな」
そんなアキラの出した条件に、リーゼロッテは首を振った。
「植物油はさらさらしているけど、固まるのが多いわね……」
「そうか」
新しいものを作り出すのは何ごとにせよ大変なことだ、とアキラはしみじみ感じたのであった。
ということで、アキラたちはとりあえず『乾式』の方位磁石を完成させた。
直径5センチ、厚さ1センチほどのものだ。
真鍮製のケースに入れ、ガラスの覆いがしてある。
方位の目盛りは16方位、つまり東西南北とその中間の北東・南東・南西・北西、さらにその中間の北北東・東北東・東南東・南南東・南南西・西南西・西北西・北北西とした。
「おお、これは素晴らしい」
試作第1号はフィルマン前侯爵に献上された。
その時、いずれ『湿式』という、より性能のよいものも作りたいと言ったら、
「まずはこの形式のものでよいから10個ほど作ってくれ」
と言われ、翌日には10個を納品した。
それで当面、『方位磁石』については放免され、本来の『養蚕』に取り掛かるように、と言われたのである。
お読みいただきありがとうございます。
4月21日(土)早朝から22日(日)昼過ぎまで帰省してまいりますのでその間レスできません。ご了承ください。
20180422 修正
(誤)……だいたいは石油、っていって、地面から湧く油を生成して作るんだ」
(正)……だいたいは石油、っていって、地面から湧く油を精製して作るんだ」




