第二十話 冬将軍
ド・ラマーク領に、本格的な冬がやってきた。
淡雪は根雪となり、深雪となる。
それでもこの冬は暖房に力を入れたため、『絹屋敷』の中は暖かである。
それもこれも、身重のミチアとリーゼロッテにアキラが配慮したからであった。
補修を繰り返したため、壁や床は引っ越してきた時に比べて格段にしっかりしている。
歩いてもきしむことはないし、隙間風も皆無だ。
「引っ越してきた時は大変だったよなあ」
居間で桑の葉茶を飲みながらアキラが呟いた。
「ほんとうですね。虫は入ってくるしネズミは出るし」
虫も嫌だがネズミは養蚕にとって大敵なので、『絹屋敷』と『蚕室』の周囲は徹底的な駆除を行った。
おかげで貯蔵庫の穀物が食われることもなくなった。
それは衛生的にもよいことなので、はっきりとした数字には現れないが、領民の健康状態の向上にも役に立っているはずである。
「来年は網戸の普及も進めたいな」
「あれは素晴らしいですね」
『絹屋敷』と『蚕室』、そして2割くらいの家々には『網戸』を取り付けた。
これは麻糸で編んだ目の粗い網で、蚊やハエ、蛾などの侵入を防いでくれる。
これまた衛生的な生活には欠かせないものだ。
同時に『蝿帳』(はえちょうとも)も作ったので、作りおきの料理に虫が集ることも防いでくれた。
……冬となった今では出番がないが。
「網戸と蝿帳も、来年の王都行で紹介しようかな」
「それがいいですわ」
派手な発明品だけでなく、こうした地味な、しかし生活を改善してくれる小さな改良も大事です、とミチアは言った。
「そうだな。……さて」
湯呑の桑の葉茶を飲み干し、アキラは立ち上がって執務室へと向かった。
ティータイムは終わりである。
* * *
「さて、今年の税収は……」
領主としての仕事。
「昨年より4割ほどアップしたか。これは嬉しいな」
アキラが行ってきた様々な方策が実を結び始めた証拠である。
「だけどまだまだこれからだな。非常時用の財源の確保とか、飢饉のときの食料とか、まだまだ備えるべきことは多いし」
多少の独り言を呟きながら書類に目を通し、サインをしていく。
「……そうだ、簡単な書類には『印鑑』で済むようにしたいものだな」
現代日本において、元養蚕が盛んだった山梨県はまた、水晶の産地でもあったことから、1837年(天保八年)、甲府近郊に水晶の加工工場が設立された。
以来数多くの加工業者・加工技術が生まれ、彫刻技術が発展したことにより、水晶だけでなく、ツゲ(木材)や水牛の角などの印材も加えて今日に至る、という。
役所などの書類手続きでハンコ文化が批判されている昨今であるが、それは使い方次第。
サインの煩雑さを改善し、効率化を図るためにも『印鑑』の利用を進めたいと思ったアキラである。
ちなみにこの世界では、それに近い技術として『封蝋』が使われてはいる。
これは手紙に封をする際にロウソクの蝋を垂らし、それが固まる前に指輪や専門の『シーリングスタンプ』を押し付けて真似のしにくい『型』を付け、途中での開封を防ぐ技術である。
「朱肉の開発が必要かな」
黒もしくはブルーブラックのインクで書かれた書類に、朱色の印が押してあるのは目立つだろうなとアキラは考えた。
「だけど朱は水銀を使うって聞いたこともあるしな……身重のリーゼに頼むのはまずいか」
『携通』からミチアが起こした資料集で見ると、朱は水銀朱だけでなく鉛丹とよばれる鉛の化合物もあるようだ。
だが、どちらも有毒である。
「ベンガラ(酸化鉄)は比較的安全だが色がいまひとつ鮮やかじゃないなあ」
普及の第一歩のため、目にも鮮やかな赤もしくは朱色にしたいとアキラは考えているのである。
そのために必要なのは赤系統の『顔料』。
染めに使っている赤は『染料』であり、色は鮮やかであるが隠蔽力や耐候性において『顔料』に劣る。
『染料』と『顔料』の違い。それは『粒子の大きさ』である。
『染料』は小さく、『顔料』は大きい。
ゆえに『顔料』は下地の色を覆い隠す『隠蔽力』が大きい。
そのため、絵の具やペンキに使われているのは『顔料』、インクに使われているのは主に『染料』である(顔料インクもあることはある)。
「絵の具にも使われているのか……あとで聞いてみよう」
ということにしたアキラであった。
* * *
「印鑑を使ってサインの手間を減らす、ねえ……面白そうじゃない」
夕食の後リーゼロッテに相談すると、手応えのある返事がなされた。
「確かに『印』を押す、ということはあるにはあるな」
ハルトヴィヒも口を開いた。
「でも、黒いインクで押すから、アキラのいう『朱肉』は新しい試みだと思う」
「そうね。そうすると、インクと同じく消えにくいものにしないといけないわね」
やる気を見せるリーゼロッテだが、
「でも、今は大事な時だから、薬品類を扱うのはやめておいてくれよ?」
とアキラは念を押す。
だがリーゼロッテは笑って答えた。
「大丈夫よ。赤い絵の具なら心当たりがあるから」
既存の絵の具を使って『朱肉』を作るなら健康を害することもない、とリーゼロッテ。
アキラもそれなら、と安心する。
「それもそうだな。でも、油断はするなよ」
「ええ。ありがとう」
「ハルト、君の方でも気を付けていてやってくれよ?」
「もちろんさ。僕の奥さんなんだからね」
ハルトヴィヒもまた、そう言って笑ったのだった。
* * *
窓の外では雪が降りしきっている。
窓から漏れる明かりで、降る雪がぼんやりと見えているのだ。
「また雪が深くなるな」
「ええ」
アキラとミチアはソファに並んで座り、肩を寄せ合いながら外を眺めていた。
「スキーも作りたかったな」
スキーがあれば、深い雪の上でも行動することができるからだ。
「ふふ、でもあれもこれも、いっぺんには無理ですよ」
「そうだけどな」
「この数年で、あなたは多大な恩恵をもたらしてくださいましたよ」
「そうだといいけどな」
「あまり焦らないでください」
ミチアはアキラに身を寄せながら諭すように言った。
「うん……そうだな」
「人の身で、できることは限られていますもの」
「そうなんだろうな。だから、今本当にやらなきゃいけないことをやらないとな」
そう言ってアキラはミチアの肩にそっと手を回し、抱き寄せたのであった。
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次回更新は2月19日(土)10:00の予定です。




