第十六話 藍染めと保存庫
蚕室に、蚕が桑を食べる音が木霊する夏の終り。
『絹屋敷』に、アキラたちの苦労が報われる日が来た。
「アキラ、ついにやったわ!」
まず、リーゼロッテが執務室のドアを壊さんばかりの勢いで飛び込んできた。
「落ち着いてくれ。いったい何をやったって?」
「これを見てよ!」
リーゼロッテは手に持っていた絹のハンカチを差し出した。
それは秋の青空のように深く、鮮やかな青色をしていたのである。
「綺麗だ……ついにできたんだな?」
「ええ。苦労したけど、『藍染め』の技法を確立したわ!」
藍染め。
それは植物名『タデアイ』を使って行う染色である。
現代日本で一般に行われている『藍染め』は、『すくも』と呼ばれる、藍の葉を加工した物を使っている。
ただし、この『すくも』をつくるのが非常に困難で、なおかつ還元剤がないとあの鮮やかな青が出ないのである。
また、還元剤としてのハイドロサルファイト(化学物質名亜ジチオン酸ナトリウム、化学式Na2S2O4)の合成もできずにいた。
『すくも』と『還元剤』。
この2つがなくとも絹を染められる『生葉染め』をリーゼロッテは研究していたのだ。
生のタデアイの葉を使う場合、染めたい絹の倍の重さの量を用意する。
倍量くらいの水を加え、葉をすり潰すと緑色の染色液ができる。ここに絹糸や絹織物を浸けて染めるのだ。
この時、絹に水分を含ませておくと染まりやすい。
最初は緑色だが、空気に晒すと酸化してだんだん青くなってくる。
これが『生葉染め』である。
これの欠点は、綿や麻は染められないこと、生の葉がある時期でないとできないという2点だ。
「桑の葉の保存と同じようにして、タデアイの葉も保存できそうよ」
「それは朗報だな!」
桑の葉は春から秋にかけてしか採れず、しかも春先は芽吹いたばかりで収穫量も少ないため、どうしても『春蚕』の飼育数が少なくなってしまう。
そこでアキラは、ハルトヴィヒとリーゼロッテに『保存庫』の開発を依頼していた。
ベースは『冷蔵庫』。
そこに魔法の効果を付与して、最低でも1年程度、生ものが保存できるようなものを研究してもらっているのだ。
これができれば、食品の保存もより楽になる。
「傷む、腐るということは、『細菌』のせいだから『《ザウバー》』で滅菌するわけ」
「なるほど」
「もちろん低温も必要ね。それから『酸化』よ!」
「酸化?」
「ええ。『藍染め』の研究をしていたから、少し酸化と還元に詳しくなったわ。……で、酸素がなければ生ものは劣化しにくいのよ」
「確かにな」
「だから保管庫の中の酸素を抜いたの」
「理屈はわかる」
「で、最後に『《スタビライズ》』の魔法ね」
リーゼロッテによれば、『《スタビライズ》』は化学変化を起こしにくくする魔法だそうで、これらを組み合わせたところ、少なくとも半年は鮮度を保ったまま保存できたという。
「春先に収穫した新芽が、8月の終わりになっても新鮮なままだったわ」
「おお、すごい! リーゼ、ありがとう! ハルトにも感謝を伝えてくれ!」
保存方法の革命だ、とアキラは思った。
これを王都へ持っていって発表したら、技術料も相当なものになりそうである。
「次の王都行きで発表しよう。2人とも、歴史に名が残るぞ、きっと」
「あたしたちだけの手柄じゃないわ。アキラの『携通』がなかったら作れなかったわよ。だから名誉は3人のものね」
「はは、ありがとう」
とは言っても『携通』の情報なので、アキラ自身は何もしていないと思っているが。
「よーし、それじゃあ、まずはタデアイと桑の葉を半年分くらい入れておける大きさの『保存庫』を作ってくれ。予算は任せろ」
「わかったわ。そうね、秋になる前にはできると思う。で、さらに改良もするからね!」
「頼んだ」
来た時と同じような勢いで、リーゼロッテは研究室へと戻っていったのである。
* * *
この『保存庫』ができたことは、絹製品にとっても大きな出来事である。
というのも、これまでの『青』は『ツユクサ』の花から採った染料を使っていたからだ。
この染料は、明るく鮮やかな青が染まるものの、非常に耐候性が悪いという大きな欠点があった。
つまり、日光で色褪せを起こし、また水洗いしても色が落ちてしまうのだ。
しかし『藍染め』は違う。
『藍』の染料は元々水に不溶性なので、一旦青く染まった布を洗っても、色は落ちにくい。
しかも耐候性がツユクサの青とは桁違いにいい。
実用的な『青』を染められるわけだ。
欠点は生葉のない時期には染められないことで、これまでは養蚕の閑散期である冬にはできなかったのである。
それが、この『保存庫』があれば、冬でも『生葉染め』ができるわけだ。
もちろん、生鮮食品の保存もできるので、用途は広い。
また、食料の長期保存ができるということは、豊作の年には食料を貯蔵し、不作に備えるということもより一層容易になるというわけだ。
領主としてのアキラが喜ばないわけがなかった。
「ワサビの栽培も順調だし、来年からは『い草』も栽培するしな。それに砂糖も……」
書類に目を通しながらも、アキラは将来に明るいものを感じ始めていた。
そして。
「アキラ様、今年の稲作はまずまずの豊作になりそうだと報告が来ております。野菜類も豊作で、総じてこの秋は豊作ですね」
「お、そうか」
領主補佐のアルフレッド・モンタンが、報告書を読み上げてくれた。
「豊作ならよかった」
「はい。これもアキラ様が肥料のご指導をなさったおかげです」
「だといいなあ」
肥料という概念がなく、せいぜいが『灰を撒く』くらいしか行われていなかった土壌改良を、『携通』にあった情報を元に、昨年秋から進めていたのだ。
いきなり全部の畑で行うのはリスクが高いので、全体の3分の1の畑で行ったのだが、これが大当たり。
肥料を撒かない畑の1.5倍近い収穫量があったという。
肥料を撒かない畑はほぼ平年並みなので、トータルでは『やや豊作』となっている。
「来年からはすべての畑で行いますから、増収が期待できますね」
「そうだな。領民の暮らしが上向けばいいんだが」
「大丈夫ですよ、アキラ様」
モンタンは、アキラの努力は必ず実を結ぶ、と言って励ますのだった。
お読みいただきありがとうございます。
次回更新は6月5日(土)10:00の予定です。
20210529 修正
(誤)生ものが保存できるようなものを研究をしてもらっているのだ。
(正)生ものが保存できるようなものを研究してもらっているのだ。
(誤)費用を撒かない畑はほぼ平年並みなので、
(正)肥料を撒かない畑はほぼ平年並みなので、




