第五話 部下たち
湿地問題の見通しが少しだけ明るくなったので、アキラはホッと一息ついていた。
そして『携通』に保存してある『い草』の情報に目を通しておくことにする。
「ふむ……へえ……」
その中には、なかなか興味深いことが書かれていた。
なんと、い草は健康食品であり、薬草でもあったのだ。
「食べるのか……」
『携通』によると、江戸時代まではい草を薬草として使用していたようで、『本草綱目啓蒙』などに『い草を細かくすりおろして灯心部分だけを取り出し、これを煎じて飲むことにより感染による炎症を抑え、水腫改善に効果がある』と書かれているというのだ。
「全く同じ植物とは限らないから、口に入れるのはやめておいたほうがよさそうだな……」
とはいえ抗菌作用があることは定説となっており、白癬菌にも効果があるという報告がなされているようだ。
い草の粉末を混ぜた寒天培地では白癬菌の増殖が見られなかった、というのである。
そんな理屈を全部抜きにしても、アキラは畳が欲しかったのだが。
* * *
「あとは、湿地を田んぼにできるといいんだが……」
稲を栽培する上で、大きな問題が1つ。
それは、この地方が寒いことである。
元々、稲は南方の植物で、暖かい地方のほうが栽培しやすいのである。
それが、温度差が大きい地方の方が米の味がよくなること、また冷害対策の意味もあり、比較的冷涼な地方向けの品種改良が進んだため、現代日本ではほぼ全国で稲作が進められているのである。
しかしこの世界では、まだまだそこまでの品種改良は行われていなかった。
しかも『早生』品種でもないため、ド・ラマーク領での大規模な栽培は困難だったのである。
「品種改良はじっくりだな」
今のところ、品種改良の手段としては、『選別』くらいしかやりようがなかった。
つまり、無差別に育てた稲の中で、比較的寒さに強い個体の種籾を育て、そこからまた寒さに強い個体を選別し……という方法である。
この方法をとった場合、『先祖返り』つまり何代か前の個体の性質を持つ稲ができることもあるので注意が必要だ。
ゆえに焦らずじっくり行う必要があった。
* * *
「予算か……」
アキラは、経理の大半を任せているシェリーを呼んだ。
彼女は元王城兵士で現警備隊長であるケヴィンの妹である。ケヴィンとよく似た茶色の髪をポニーテールにまとめた小柄な女性だ。
元々利発な質で、代官から領主補佐となったアルフレッド・モンタンにみっちり仕込まれたおかげで、ド・ラマーク領の経理主任を任せられるようになったのだ。
まあ、主任といっても経理は彼女1人なのであるが……。
「はい、アキラ様、お呼びですか?」
「ああ、呼び出してすまない。昨日前侯爵閣下にお願いして、出資してもらえることになったから、伝えておこうと思ってな」
「あ、そうなんですね。わかりました。それで、金額、利率、返却期限、担保などはどうなっていますか?」
「それはこの書類に」
アキラは前侯爵と交わした誓約書を手渡した。
「拝見します」
シェリーはそれを受け取り、確認を行う。
「金額は100万フロン(約1億円)、利率は複利で年5パーセント、期限は10年ですか。担保は……なし!?」
「ああ。そこは前侯爵の厚意と、俺を信用してくれているからだろうな」
「そうですね。……これだけあれば、工事費用も一息つけます」
「それはよかった。で、新事業も展開するから」
「はい、お伺いします」
アキラはシェリーに『い草』事業について説明した。
「ははあ、そういうことですか。それも『異邦人』様の知恵と文化なんですね。無担保なのも納得できます。管理はお任せください」
「頼んだ」
シェリーは今年20歳であるが、しっかり者で、こうした予算管理を安心して任せておけるのだ。
警備隊長の妹ということで身元がはっきりしているということもある。
もちろん領主補佐のアルフレッドもチェックしてくれているので、アキラもより安心できている。
「さて、工事に関してはこれでいいとして……」
本業(?)である養蚕について、アキラは確認することにした。
村人から希望者を5人募り、昨年1年間みっちりと仕込んだので、信頼できる養蚕技術者になってくれた。
今年はその彼らに指導をさせ、更に技術者・職人を増やす予定だ。
この点において、『養蚕』という産業は既に王国に認められているので、初めての村人たちにも忌避されることなく受け入れられた。
いやむしろ『国家事業』に携われるというので、希望者も多く、選定するのに少し苦労したほどである。
* * *
さて季節的に『春蚕』(4月から育てた蚕)が繭を作り始める頃である。
敷地だけは広大な『絹屋敷』。その庭に建てられた3つの養蚕小屋では、終齢幼虫が『回転蔟』に這い上がりだしていた。
「あと数日で繭になるな」
そうなったら忙しくなる。
アキラは頭の中で予定を組んでいくのだった。
「あ、アキラ様」
5人の養蚕技術者のリーダー、ジェロームがアキラに気づいた。
「順調そうだな」
「はい、今のところこの小屋のお蚕さんが一番早そうです」
「そのようだな」
3つある小屋のうち、最も南に建てた小屋の蚕が最も早く繭になるよう、孵化を調整したのだが、概ねうまくいっているようだ。
いっぺんに繭になられると、手が足りなくなるからである。
できるだけ仕事量の変動が少なくなるように管理しているアキラなのであった。
「桑の葉はどうだ?」
「はい、今のところ不足はしていません」
「そうか。もし不足しそうなときは早めに言ってくれ」
「はい」
桑畑を作り始めたのは去年からなので、それが育つまではどうしても桑の葉が不足する。
その不足分はこれもやはり前侯爵領から融通してもらうしかないのである。
まあ桑の葉に関しては、『国家事業』である『養蚕振興』のため、貸し借りではなく、無償で譲ってもらえることになっているのが救いではあった。
「あと、ネズミはどうだ?」
ネズミの害は養蚕にとって天敵と言える。蚕やその繭を食べられてしまうからだ。
「それなんですが……」
ジェロームはアキラに報告を行った……。
お読みいただきありがとうございます。
次回更新は3月20日(土)10:00の予定です。
20210313 修正
(誤)『い草を細かくすりおろして灯心部分だけを取り出し,これを煎じて飲むことにより 感染による炎症を抑え,水腫改善に効果がある』
(正)『い草を細かくすりおろして灯心部分だけを取り出し、これを煎じて飲むことにより感染による炎症を抑え、水腫改善に効果がある』