第八話 プロヴァンスの町へ
アキラ一行がフォンテンブローの町を発つ日が来た。
「世話になったな、ガストン」
「うむ、達者でな、フィルマン」
伯爵と前侯爵、親友同士の別れはあっさりしたものだった。
言葉を飾らずとも想いは伝わる、そんな友情を、アキラは少し羨ましいと思っていた。
「アキラ殿、新名物へのヒント、感謝する」
「いえ。それよりも、稲作と醤油・味噌醸造の保護、よろしくお願いいたします」
「うむ、任せておきたまえ」
フォンテンブロー伯爵は、昨日アキラが作ってみせた『せんべい』を町の名産にするべく尽力し、延いては稲作、醤油・味噌生産の振興を約束してくれたのである。
アキラへの見返りは、向こう5年間、米・醤油・味噌を一定量無償で得られるというものであった。
「アキラ様、本当にありがとうございます!」
その3つを実家で生産しているティボーは手放しで喜び、アキラに最敬礼していた。
「いや、俺も大きな利益があるからな。それにしても、米、醤油、味噌の使い方が伝授されていなかったのには驚いたよ」
譲り受けた『手記』をみると、『異邦人』であったティボーの曽祖父は、醤油の製造法を確立する直前に没したようなのだ。
応用法についての伝授がなされなかったのも無理はない。
せいぜいが煮物への調味料として醤油・味噌が使われたようだが、洋風の味付けとは今ひとつ馴染まなかったようである。
米もまた、リゾットにして食べるくらいしか用途がなく、大麦の味に慣れた人々には受けが悪かったようだった。
それが、『茶菓子』として新たな分野を拓いてくれそうなので、領主としてのフォンテンブロー伯爵や、作り手であるティボーの実家は大喜びなのであった。
「それに、『米の炊き方』な、あれも料理長に研究させよう。『味噌汁』も、だ」
「よろしくおねがいします」
そう、アキラは『せんべい』だけでなく、『ご飯の炊き方』と『味噌汁』についても料理長にレシピを伝えておいたのである。
さすがに1度で全てを教えきることはできなかったので、あとは料理長任せとなる。
せんべいはせんべいで、『醤油』『味噌』『塩』などのバリエーションも教えたので、いずれはいろいろな味が楽しめるようになるはずであった。
「ミチアさん、しっかりね」
「はい、いろいろとありがとうございました」
伯爵夫人とミチアは思いの外仲よくなっていた。
それもそのはず、セヴリーヌ・ロラ・ド・フォンテンブロー伯爵夫人は、実は後妻なのである。
年齢は27歳で、ミチアの先輩と言っていい年齢であり、しかも元は平民……大商家の出ではあるが……なのであった。
だからこそ、貴族の血を引くとはいっても侍女生活の長かったミチアに対し、親身になってくれたのである。
* * *
心のこもった別れ、そして出発。
一行は再び北へ続く街道を進み始めた。
次はプロヴァンスの町、『バスチアン・バジル・ド・ノアール伯爵領』である。
「あそこには大浴場があるんだよな」
アキラは、隣に座るミチアに話し掛けた。
ボイラーが、アキラよりずっと前にやって来た『異邦人』による設計だと知って驚き、見せてもらったことはいい思い出である。
「閣下が倒れられたこともあったっけな」
「あの時は本当にびっくりしましたね」
結局、大したことはなかったが、血圧の自己管理について指導したことは、前侯爵1人に限らず、周りへの波及効果もあったと思っている。
「お、雪が残ってるな」
アキラがふと窓の外を見ると、日陰に凍った雪の塊が残っているのが見えた。
「だんだん北に向かっていますからね」
「そうだな。……『ド・ラマーク領』も北だよな?」
「はい。気候的には『蔦屋敷』のあたりとそう変わらないと聞いています」
「蔦屋敷のずっと東にあるんだったよな」
「はい」
アキラは、領主として何ができるのか、何をするべきなのか考えてみたが、まったく見当がつかない。
それをミチアに言うと、
「ふふ、そうでしょうね。私もわかりません。でも、『代官』の方が1年か2年残ってくれて引き継ぎをしてくれるはずです」
「そう聞いてる。でも1年で覚えられるかな?」
おそらく蚕の飼育をしながらになるだろうから、覚えきれるかどうかが心配なアキラであった。
「この道中で文官を見つけられるといいんだがな」
「そうですね」
ティボーも文官候補であるが、執政系ではなく会計方面で役立ってもらいたいと考えているのだ。
「ケヴィンの妹も、帳簿付けとか出納係みたいな役をしてもらうつもりだしな」
人材を見つけるのは難しいな、とぼやいたアキラに、
「その代官の人をそのまま雇えないか聞いてみるのも手ですよ」
とミチアは可能性を述べた。
「ああ、そういうのもありか。……給金とか待遇とかの交渉も必要だな」
「そうですね。でも最低1年の期間がありますし、人柄も見極めないといけませんし」
「それもそうだな」
汚職をするような人物ではないとしても、人と人との関係は難しい。
『馬が合わない』ということもあるので、当てにしすぎるのもよくないな、とアキラは考え、やはり道中で人材を見つけたいものだ、と思い直すのであった。
* * *
「……また雨か」
夕方になって、暖かい雨が降り始めた。
「前回王都に行ったときの往路でも雨に降られた気がする」
「そうでしたね」
アキラの記憶では、あの時は冷たい雨だった気がするが、今回は春の雨で、霧のように煙っている。
馬車も馬もしっとりと濡れそぼった頃、目的地であるプロヴァンスの町に着いた。
「ようこそ、閣下」
領主であるバスチアン・バジル・ド・ロアール伯爵が町の入口まで迎えに出てくれていた。
「生憎の雨になりましたな」
「なんの、春雨じゃ」
聞いているアキラがなんとなく『濡れていこう』と続けたくなるようなセリフを言いながら、伯爵の先導で一行は領主の館へと到着した。
「さあさあ、温まってください」
春雨とはいえ濡れれば寒い。
伯爵邸では暖炉に火が焚かれ、従者までが温まることができた。なによりのご馳走である。
予定ではこの町にも2泊することになっている。
その間に文官を見つけられたらいいな、と思うアキラであった。
……あてはまったくないのであるが。
それはそれとして、その日の夜は、領主バスチアン・バジル・ド・ロアール伯爵の心づくしのもてなしに身も心も温まった一行であった。
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次回更新は12月12日(土)10:00の予定です。
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20201206 修正
(誤)それもそはず、セヴリーヌ・ロラ・ド・フォンテンブロー伯爵夫人は、実は後妻なのである。
(正)それもそのはず、セヴリーヌ・ロラ・ド・フォンテンブロー伯爵夫人は、実は後妻なのである。
(誤)引いては稲作、醤油・味噌生産の振興を約束してくれたのである。
(正)延いては稲作、醤油・味噌生産の振興を約束してくれたのである。
(誤)夕方になって、暖かい雨が振り始めた。
(正)夕方になって、暖かい雨が降り始めた。
(誤)「前回王都に行ったときの往路でも雨に振られた気がする」
(正)「前回王都に行ったときの往路でも雨に降られた気がする」