第七話 忙しさの中で
今回は蚕は出てきません
アキラ、ハルトヴィヒ、リーゼロッテの3人は、『公衆衛生』の第一歩として、汚水処理についての打ち合わせを夢中になって行っていたが、
「あの……皆さん、もう夕食のお時間ですが」
というミチアの声に我に返った。気が付けばもう真っ暗である。
しかも少し冷えてきている。
「うー……寒っ!」
我に返ると、冷気が身に染みてきてアキラは思わず呟いてしまった。
「はは、アキラは寒がりだな」
ハルトヴィヒはそんなアキラを笑ったが、
「はくしゅっ!」
と、自分も盛大にくしゃみをした。
「うふふ、ハルも人のことは言えないわね。……へくちっ!」
最後にリーゼロッテも可愛らしいくしゃみをしたので、
「……アキラの部屋にもエアコンを付けよう」
「うん、賛成」
と、ハルトヴィヒとリーゼロッテの意見は一致した。
打ち合わせを母屋である屋敷ですればよさそうなものであるが、そこはそれ、『異邦人』との話し合いなので、余人に聞かせたくないというのがゲルマニス出身の2人の一致した意向だったのである。
それはそれとして、アキラたち3人は、ミチアに急かされて屋敷の食堂へと向かった。
この日は、フィルマン・アレオン・ド・ルミエ前侯爵が食事をしながら進捗状況などを聞きたいと言っていたのである。パトロンの意向なので否やは言えなかった。
「……それで、どうかね?」
こうした『懇談会』と銘打った食事会の時は、食事中の会話はマナー違反にはならない。ただし、口の中に食べ物がある状態で話をするのは厳禁だ。
「はい、非常に有意義です」
答えたのはハルトヴィヒ。
「『異邦人』であるアキラ殿とのやり取りは、とても面白く、ためになります」
「同じく、とても楽しいです!」
リーゼロッテも言葉を添えた。
「ふむ、私としては嬉しいが、『契約』は違えてくれるなよ?」
「はい、もちろんです」
「……契約?」
その単語が引っ掛かったので、アキラはそのまま疑問を口にした。
「ああ、アキラ殿が気にする必要はないぞ。契約というのはだな、ゲルマニス出身のお二人がこのガーリア王国でこうした仕事をする上での約束事だ」
要は、定められた期間内は、本国……この場合はゲルマニス帝国に、無断で帰国したり『異邦人』のことを言いふらしたりしてはいけないというような契約を取り交わしているということだ。
確かに、アキラとは直接関係ないが、気にならないと言えば嘘になる。
だが、当のハルトヴィヒとリーゼロッテが、
「アキラ、君が気にする必要はない。僕は、君との仕事が気に入っている。他の仕事なんかする気もないよ」
「そうよ! あんな家なんて一生帰らなくたってかまわないわ。研究があたしの人生なんだから」
と断言してくれたので、かなり気は楽になった。自分と関わりを持ったせいで、祖国に帰れなくなったのではないか、と思ったのだ。
帰りたくても帰れない辛さは、アキラ自身が身に染みて知っているのだから。
「それで、この前アキラ殿が言っていた『公衆衛生』についてはどうなったんだね?」
そんなアキラの内心を知ってか知らずか、フィルマン前侯爵は話題を変えた。
「はい、まずは『汚水の処理』について検討を進めているところです。これによって……」
「ふんふん」
このようにして、懇談会は2時間ほど続いた。
「いや、なかなか有意義であった。また話を聞かせてもらいたいものだな」
「もちろんです」
フィルマン前侯爵は、こうした懇談会を月に2〜3度行いたい、と言ってその夜はお開きとなったのである。
* * *
「……ふう、疲れた」
アキラは背伸びをした。固まっていた背骨がポキポキと小さな音をたてる。
今、アキラは『離れ』でノートに日記を付けていたところだ。
荷物の中にあった大学ノートに、その日の出来事を簡単にまとめて記録する。それを彼はほぼ毎日続けていた。
たまに仕事が忙しくて書けなかった日もあるが、そのようなときは翌日に書くようにしている。
「今日はこんなものか」
アキラはボールペンを机に置いた。
そういえば、鉛筆を作れないだろうか、などとぼんやりと考えていると、離れのドアがノックされた。
「はい。……あ、ミチア?」
「ええと、明かりが点いていたので、まだお仕事されているのかと思いまして」
その手にはトレーがあり、その上にはカップとポットが置かれていた。
「……一服なさいませんか?」
「ありがとう。さ、入ってくれ」
アキラはミチアを招き入れた。
「ありがとうございます。ここ、暖かいですね」
「ああ。さっきハルトが試作の『エアコン』を持ってきてくれたんだ」
蚕に使う前、とりあえず試作したものがあったので、それを運び込んで設置したのである。湿度の調整はできないが、十分助かっている。
「これから寒くなりますからありがたいですね。暖炉は火を絶やさないようにするのが大変ですから」
そう、暖炉には燃料としての薪をくべなければならないのだが、それが意外と面倒なのだ。
まして、電気で動くエアコンに慣れ親しんだアキラには、少々ハードルが高かった。
なので、ハルトヴィヒが作ってくれた魔法道具としてのエアコンは、非常にありがたかったのである。
ところで、こうした魔法道具は非常に高価ではあるが、その大半は『技術料』だ。
つまり、『考案した』『魔法を付与した』『作り上げた』ことへの対価である。相場はおよそ原価(材料費)の100〜200倍。
ということは、もっとも単純なエアコンが5万フロンとするなら、原価は250〜500フロン、おおざっぱに勘定して18万円前後と考えられる。
この場合、作ったのはハルトヴィヒなので原価で据え付けができることになり、そのくらいなら経費で賄える……ということになるわけだ。
実際のところハルトヴィヒの動機としては、一番入り浸っているこの離れの居心地をよくするため、というのが大きいのだが。
ミチアはカップをアキラが書き物をしていた机ではなく、部屋中央のテーブルの上に置き、お茶を注いでくれた。
持ってきたポットの中身は桑の葉茶だった。ノンカフェインなので、就寝前に飲んでも大丈夫だ。むしろリラックス効果があるといわれている。
「ありがとう」
アキラは桑の葉茶を一口。優しい味が口の中に広がる。
ミチアはそんなアキラの横に立ち、お茶を美味しそうに飲むアキラを見つめ、
「アイヒベルガー様は、有能なお方のようですね。それにゾンネンタール様も……」
と呟いた。
「いやいや、ミチアも凄いよ。あの5人、なんとか九九を覚えたようだし、文字も大分覚えたようじゃないか」
「私はそんなことしかできませんから」
そんなミチアの言葉に、アキラは首を振った。
「『そんなこと』なんかじゃないさ。絹の普及という遠大な計画の第一歩、今はその基礎を作っているところなんだ。だから、この計画に携わった人が力を合わせないとうまくいかないよ」
それぞれできること、得意なことを生かし、計画を進めていかなければならない、とアキラは熱っぽく語った。
「それに……」
「それに?」
急に口ごもったアキラに、ミチアが尋ね返した。
「……この前は、ミチアに救われたから……さ」
「この前? ……あ」
アキラの言わんとすることに気が付いたミチアは頬を赤らめた。
「あ、あれは……その……」
口ごもるミチアにアキラは、
「うまく言えないけれど、あれで吹っ切れた気がするんだ。だからお礼を言わせてほしい」
と告げる。
「お礼なんて……。アキラさんの気持ち、少しですがわかる気がしたんです。私も……家族……両親に……会いたくても会えないので」
なぜ会えないのか、ミチアはその理由までは言わなかった。
だが、アキラの中で、これまで以上にミチアの存在が大きくなったようだった。
お読みいただきありがとうございます。
3月25日(日)も更新します。午前10時予定です。
※24日(土)早朝から25日(日)昼過ぎまで実家に帰省中です。その間レスできませんのでご了承ください。
20180325 修正
(誤)この日は、フィルマン・アレオン・ド・ルミエ前侯爵が食事をしながら慎重状況などを聞きたいと言っていたのである。
(正)この日は、フィルマン・アレオン・ド・ルミエ前侯爵が食事をしながら進捗状況などを聞きたいと言っていたのである。