第十一話 あと少し
絹製品の普及についての話し合いは続いていた。
「取り扱いが難しい点については、専用の用具を作るというのはどうだろう?」
ハルトヴィヒが案を出した。
「ああ、それはいいかもな」
アキラがまず思いついたのは専用のアイロンである。
毛織物よりも絹は熱に弱いのだ。
「高温にならないアイロンを作ったほうがいいかも」
「温度調整ができるようにするのもいいぞ」
『エアコン』で温度管理をしているのだから、アイロンの温度調整もできるだろうとハルトヴィヒは言った。
「うん、それはいいな。麻に比べたら毛織物も熱には弱いはずだから、調整が利くというのはいいかもしれない」
「それに、専用の洗剤もいいんじゃないかしら?」
リーゼロッテが思いつきを口にした。
絹はタンパク質であるから、アルカリ性の洗剤だと傷んでしまうおそれがある。
皮脂による汚れは弱アルカリ性の洗剤で洗いたいところだが、それはできるだけ避けたかった。
「ドライクリーニング、というのもあったんだよな」
「ドライ? 乾いた状態で洗うの?」
リーゼロッテは首を傾げながら尋ねた。
「あ、いや、そうじゃなくて、確か『水を使わない』から『ドライ』と言っていた気がする……」
「ふうん?」
「水じゃなかったら、何を使うんだい? お湯?」
ハルトヴィヒはそう口にしてから、
「あ、お湯も水のうちか」
と、自らそれを否定した。
「じゃあ何だろう? 油……のわけはないし」
そこでアキラが答えを言う。
「有機溶剤だったと思う」
「ゆうきようざい?」
「『他の物質を溶かす性質を持つ有機化合物の総称』と『携通』には書かれていましたね」
ミチアが言う。
「つい最近その部分を書写しました」
「……でもさっぱりわからないんだけど」
リーゼロッテが首を傾げた。
「まあなんだ、汗とか油を溶かす液体……と思ってくれ。あ、アルコールの仲間といってもいいかもしれない」
「アルコール……お酒の成分だったわね」
「そうだ」
酒を何度も蒸留することで、アルコール度数が高められる。
無水アルコールは無理だが、消毒用アルコール(エタノール)くらいは作れるはずだ。
無論、使い方を間違えば、アルコールであっても絹製品は傷んでしまう。
「それも候補だな」
しみ抜きには使えそうだ、とアキラは思っている。やり方は……実践したことがないのでこれから突き詰めていくことになるだろう。
「それに……」
「だったら……」
絹の改良についての話し合いは夜遅くまで続いたが、そう簡単に結論が出るはずもなく、深夜前には一旦切り上げて眠ることにしたアキラたちであった。
* * *
「……朝か」
やや睡眠不足の朝を迎えたアキラたち。
口をすすぎ顔を洗って食堂へ。
朝食は焼きたてのパンを中心として、スクランブルエッグ、野菜のスープ、フルーツジュースというものだった。
どうやら、昨夜遅くまで飲み明かしていたフィルマン前侯爵とフォンテンブロー伯爵のためらしい。2人とも、少し気怠げだったのだ。
一方アキラたちは、やや睡眠不足ではあるが食欲は旺盛で、前侯爵と伯爵がもそもそ食べている間に全部平らげてしまっていた。
そして、食事後。
フォンテンブロー伯爵が、皆の前で話を始めた。特にアキラに向かって、である。
「諸君らもいよいよ王都へ向けて出発だな。その前に、私からアキラ殿に礼を述べたい。……そう、『鉛毒』についてご教示いただいたことについてだ」
あれ以降領内に急性中毒の症状の1つである『激しい腹痛』を起す者がいなくなった、と伯爵。
「これまではワインを飲んで腹痛を起す者がいたのだが、鉛容器を禁止してから、そういった症状は皆無になった、と報告があった」
「それはよろしかったですね」
「そこでだ。忠告をくれたアキラ殿に、私から礼を述べるとともに、礼物を贈りたい」
そこに、フィルマン前侯爵からも補足説明が入る。
「アキラ殿、ぜひ受けてくれたまえ。きっと王都で役に立つであろうから」
フォンテンブロー伯爵が、家宰に命じて『贈り物』をアキラに渡した。
「これは……?」
それは儀仗用の剣。この世界では『儀仗剣』と呼ばれるものだった。
刀身は銀などの貴金属でできており、殺傷能力は低い(刺すことはできるが切ることはできない)。
鞘や柄は貴金属や小さな宝石、貴石で飾り付けられている。
これは、貴族が国王や領主などが行う式典のときに身につける正装の1つなのだ。
長さや装飾により、おおよその身分がわかる。
アキラに贈られたそれは、だいたい男爵位に相当するものであった。
「……というわけだ。前回は『異邦人』としての謁見だったが、今回は同時に『シルクマスター』としての立場もある。私が用意しようと思っていたのだが、昨夜話していて、ガストンがちょうど贈ろうと思っていたというので、この運びとなったのだ」
フィルマン前侯爵の説明で、アキラも納得した。
「わかりました。ありがたく頂戴いたします」
アキラはその剣を押しいただいたのであった。
この剣は、今回の王都訪問でアキラが少なくとも名誉貴族位を受けるだろうというフィルマン前侯爵の予想に基づいた贈り物であり、今後アキラの宝物となっていく。
が、それはもっと先の話。
* * *
フォンテンブロー伯爵家を出発した一行は、なにごともなく進んでいく。
「今回の道中も平穏無事だったな……」
小さくため息を吐いたアキラに、ミチアが尋ねる。
「アキラさんの世界では、旅行って危険なものだったんですか?」
アキラは否定した。
「いや、そうじゃない。……ただ、道中賊に襲われなくてよかったなあって」
「ふふ、ガーリア国内は治安がいいですからね。特に街道で賊が出たなんていう話はほとんど聞いたことがありませんよ」
「それならよかった」
そういえば、あまりそういった話ってしたことがなかったな、とアキラは思った。
「大規模な盗賊団なんて、討伐対象ですからね。出てもせいぜいがこそ泥みたいな輩ですよ」
「なるほどな」
治安がいいことは、国内がよく治まっているということでもある。
「あ、砦が見えてきましたよ」
そして、そのための施設の一つ、『北の剣砦』に一行は到着したのであった。
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次回更新は4月11日(土)10:00の予定です。
20200404 修正
(誤)無論、使い方を間違えば、アルコールであったも絹製品は傷んでしまう。
(正)無論、使い方を間違えば、アルコールであっても絹製品は傷んでしまう。
(誤)小さくため息を付いたアキラに、ミチアが尋ねる。
(正)小さくため息を吐いたアキラに、ミチアが尋ねる。
20230619 修正
(誤)麻に比べたら毛織物も熱には弱いはずだから、調整が効くというのはいいかもしれない」
(正)麻に比べたら毛織物も熱には弱いはずだから、調整が利くというのはいいかもしれない」
(誤)フィルマン前公爵の説明で、アキラも納得した。
(正)フィルマン前侯爵の説明で、アキラも納得した。