第五話 恒温瓶
「ほほう、これはいいな」
試作の『飾り箱』をフィルマン前侯爵に見せたところ、なかなかの好評だった。
「普段使いとして手頃だ」
宝石をちりばめたような高価な箱は、宝物や大事な書簡をしまっておくのに使うが、このくらいの箱になると、もう少し気軽に物をしまっておけると前侯爵は言った。
「値段は低めでも、その分、数が出るだろう」
薄利多売、というほど利益が少ないわけではないが、たくさん売れるということはいいことだ、とアキラは思った。
この箱は、この地方の農民の冬の稼ぎにしたいのだから。
「うむ、いいと思うぞ。……春になったら、今来ている技術者たちを王都まで送っていくことになるからな。その際、これも宣伝できるだろう」
もちろんアキラも行くことになる、と前侯爵に念を押されてしまい、『ああ、やっぱり……』と覚悟を決めたアキラであった。
「それにこれは……『魔法瓶』といったか」
「はい。試してみましたが、熱湯を入れて室温に放置した場合、夜になってもまだかなり熱いままでした」
「ほほう……。特に冬に役立つな」
ハルトヴィヒに試作してもらった魔法瓶は、充分実用に耐えるものだった。
「しかし、なぜ『魔法瓶』なのだ? 魔法は使っていないのだろう?」
との前侯爵の問いに、
「私の世界では、魔法は書物の中だけのものでした。で、これはまるで魔法が掛かっているようだという感嘆を込めて『魔法瓶』というのだと思います」
「なるほどな。だが、こっちの世界ではその名称では広まらないだろう。何か、そう……『保温瓶』などの名称を考える必要があるだろう」
アキラはなるほど、と思った。『魔法瓶』では、『看板に偽りあり』と言われかねないのだ。
「では『恒温瓶』というのはどうでしょうか?」
「ふむ、熱を一定(恒温)に保つからだな。いいだろう」
現代日本及び世界では、『サーモス(Thermos)』と呼ばれているのは『商標名』である。
これはギリシャ語で『熱』を意味する“Therme”に由来する。
元々はドイツのベルリンで誕生したのでドイツ語読みで『テルモス』と呼ばれていたが、今は英語読みの『サーモス』が主流のようだ。
古い(?)山屋(登山家)はいまだにテルモスと呼んだりする……らしい。
そんなわけで、この世界初の魔法瓶は、この先『恒温瓶』と呼ばれることになる。
* * *
「また、一気に積もったなあ……」
フィルマン前侯爵らが心配していたように、1メートルほども大雪が降った。
アキラが朝起きて、
「いやに暗いなあ……」
と思っていたら、窓の上まで雪が積もっていたために暗かったのだ。
屋根からの落雪もあって、ドアを開けて外に出ようとしたら2メートルはありそうな雪の壁。
ここまでの大雪は経験したことがなかったので、アキラは途方に暮れてしまった。
そもそも、ここまで積もった雪をどかすためには、作業スペースと雪の捨て場所が必要になる。
例えは悪いが、『15パズル』とか『24パズル』のように、1駒分スペースがないと、非常に作業しにくいのだ。
「とにかく何とかしないとな……」
スコップは用意していなかった。
「……これしかないか」
アキラは、ちりとりを手にして雪の壁に立ち向かっていった。
ちりとりですくい取った雪を、できるだけ遠くへ投げ捨てる。
それを30分ほどくり返すと、なんとか1メートル四方ほどのスペースができた。
「これで少しは作業性が上がったかな?」
いっぺんに雪をどかそうとするのは無理なので、まずは1メートルの半分くらいを掻き落として踏み固める。
これでようやく、『離れ』の周りを見渡すことができるようになった。
やはり、積雪は1メートルほど。
だが、建物の周囲は屋根からの落雪が積もり重なって2メートルほどになっている。
『蔦屋敷』の方でも、使用人総出で雪かきをしていた。
「おーい!」
アキラが大声で呼ぶと、彼らも気が付いたようで、
「もう少し待っていてください!!」
との声がミチアから掛けられた。
「頼むよー!」
情けないが、アキラとしてもここは慣れた者に任せるしかなかった。
それでも、少しでも掘り進めようと、ちりとりを手に奮闘したアキラであったが、
「うああ……手が……凍りそうだ……」
手袋に付いた雪が体温で溶け、ぐしょぐしょになってしまったのだ。
それが雪で冷やされたため、手の感覚がなくなってしまったのである。
仕方なくアキラは『離れ』に戻り、かじかんだ手を暖炉で温め始めた。
「……皮や毛糸の手袋にゴムを塗布すればいいんだが……グッタペルカは硬いんだよな」
人工皮革の代わりになるくらいには、グッタペルカのゴムは硬い。手袋には使えないだろうと、アキラは肩を落とした。
「本来のゴムの樹液が手に入るとしてもこの冬じゃないだろうし、蜜ロウも駄目だしな……」
紙や布に含浸させて雨具を作ることには使えても、激しい作業を行う手袋は難しそうだった。
他に防水に使えそうな素材はないかと考えるアキラ。
革の手袋に保革油をたっぷりしみ込ませれば、雪かきには充分なのだが、そこには思い至っていないのだった。
* * *
「アキラさーん、ご無事ですか!?」
1時間後、ついに母屋の『蔦屋敷』からアキラの『離れ』までの道が開通した。
「ミチア! 助かったよ……」
ミチアはいつもの侍女服ではなく、オーバーオール、あるいはツナギのようにも見える出で立ちで、ゴム長靴を履いていた。
「この靴、いいですね! 足が全然冷たくなりません!」
靴底もブロックパターンなのでスリップしにくい。その上完全防水だ。雨や雪の時には重宝する。
手にしているのはスコップ。
スコップとシャベル(ショベル)について、JIS(日本工業規格)の記述や、東日本と西日本での違い、また慣例的な呼び方でそれぞれ違いがある。
アキラは一応JIS準拠で呼ぶことにしていた。
つまり、掘る際に足を掛けて使える、つまり上部が平らなものをシャベル(ショベル)、上部が曲線で足を掛けられないものをスコップ。
ミチアが持っているのは雪かき用のスコップで、全体的に大きめ。
これで砂利や砂を掘ろうとすると重すぎて使いづらいだろうが、雪にはちょうどいいのだろう。
「お疲れさん、とりあえず、ちょっと休んでくれ」
アキラは用意しておいたお茶をミチアに差し出した。
「ありがとうございます……ちょうど喉が渇いていました」
雪かきは重労働なので、汗もかけば喉も渇く。アキラは手を温めながら、お湯も沸かしていたのである。
「……ハルトヴィヒとリーゼロッテは大丈夫かな?」
気になったアキラが尋ねると、
「ハルトヴィヒさんの方にはリゼットが、リーゼロッテさんの方にはリュシーが行っています」
ゴドノフさんたちにも手伝ってもらって、総出で庭の雪かき中です、と言ってミチアは笑ったのだった。
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次回更新は10月19日(土)10:00の予定です。




