第二十二話 練りと見本
アキラの指導は、いよいよ製糸工程の仕上げに入っていた。
すなわち製練。
生糸を弱アルカリで処理し、表面のセリシンを落とす作業である。
セリシンはタンパク質の一種で、膠質。蚕が吐いた糸が繭を形作れるのはこのおかげである。
その一方で、膠質のため糸同士がくっつきやすく、生糸を扱いづらくしていると共に、染色も困難にしていた。
タンパク質なのでアルカリに弱いため、灰汁や重曹などで煮て処理することで表面のセリシンが除去され、フィブロインでできた糸が残るというわけだ。
この時、セリシンの除去レベルで『三分練』とか『五分練』という呼ばれ方をする。
「1反分は生糸のままにしてみよう」
セリシンを残したままの糸は生糸、それで織り上げた布は『生絹』という。
生絹はまた『すずし』とも言い、精練していないので固く張りのある感触である。オーガンジーという生地も生絹の一種である。
「で、のこり3反分を製錬するが、『五分練』と『七分練』、それに『本練』をやってみようと思う」
アキラはこう言っているが、実際のところは処理に要する時間が把握し切れていないので実験を兼ねて、ということになる。
つまり『処理時間短め』『処理時間ほどほど』『じっくり処理』の3段階を行おうというわけだ。
* * *
「まずは下処理だ」
前処理ともいう。
ぬるま湯に漬け、セリシンの膨潤、軟化を図る。このとき、お湯に灰汁を若干混ぜ、弱アルカリにしておく。
これを10分から15分。今回は15分行った。
「本練りに行くぞ」
無色になるまで濾した灰汁を体積比で2割混ぜたお湯に糸を浸して煮る。時間は1時間から2時間。
精練液(灰汁+お湯)は必要に応じ交換する。
まず1時間で1反分の糸を取り出し、ぬるま湯で洗浄する。現代日本では炭酸ナトリウム1〜2パーセント液を使うが、今回はぬるま湯のみで3回洗浄して灰汁成分を取り除く。
その間に、30分程経つので、残った2反分の糸から1反分取り出し、同じように洗浄する。
残った1反分は合計2時間煮て終了。これも洗浄する。
(ハイドロサルファイトで漂白したいが薬品がないからなあ)
であるからこうした処理も、試行錯誤しながら昇華していくことになるだろうと、アキラは立ちはだかる長い道のりを思っていた。
* * *
「アキラ様、灰汁の作り方には何か注意が必要でしょうか?」
水洗いを終えた絹糸を乾燥させるため陰干しにした後の休憩時間、紡績担当技術者のローマン・ド・プレが質問してきた
「そうだな。……この灰汁の作り方だが」
藁や椿葉をよく乾燥したのち燃やして灰化させ、この灰に5〜10倍の熱湯を加えてよく混ぜ、1日以上置く。
この上澄み液を使うのだ。
「何度か濾して、透明になったものだけを使う」
絹に汚れが付かないように、との配慮である。
「ああ、残った分も、洗濯や鍋の汚れ落としに使えるからな」
アルカリは油脂を溶かす性質があるので、脂汚れの酷い鍋の洗浄に使えるのだ。
「手荒れには注意だけどな」
特に冬期は作業後にハンドクリームを塗るよう、お肌のケアも欠かせない、と言ってアキラは笑った。
* * *
そして丸2日。
処理した糸も乾燥したので、手触りや色を比べてもらうことにした。
「おおー!」
「ぜ、ぜんぜん違います!」
生糸は張りのある感触で、本練糸は手に吸い付くような感触がある。
五分練(?)と七分練(?)はその間といった感じであった。
「少しだけサンプルを採って、あとは織りに回そう」
見本は生データとして重要である。
絹ではないが、加賀国(現石川県)には『百工比照』というものがある。
『百』はあらゆる、という意味であり、『工』は工芸。それを『比』べ『照』らし合わせる、という意味だ。
要は工芸品のサンプル集である。
木工、漆芸(漆塗り)、革細工、竹細工、紙細工、彫金、七宝、染色、織物、意匠等、当時行われていた美術工芸品の集大成となっている。
アキラは養蚕関係でこうした資料集を作れたらいいな、と考えていたのだ。
そしてミチアの助言もあり、3セットを制作中である。
おそらく1セットは王家に献上することになるだろう。1セットは閲覧用で、もう1セットは万が一の時のバックアップである。
今のところ『桑の葉の標本』つまり押し葉と繭、それにお蚕さんの標本が資料として保管されていた。
そこに糸のサンプル各1メートルが加わる。
絹織物はまだサンプリングしていない。
* * *
「ええと、意見を述べてもいいでしょうか?」
織りを開始し始めた後、休憩時間に、『その他技術担当』のジョゼフィン・ナーパルトが挙手した。
「なんだい?」
「養蚕の手順ですが、模型のような形でサンプルを作れませんか?」
イラスト入りの資料はとてもわかりやすかったが、それでも実際に養蚕を行ってはじめて気が付くことも多かった、というのだ。
「模型か……」
ここでハルトヴィヒが発言。
「例えば紙で桑の葉、粘土でお蚕さんを作って、飼育途中の様子を再現する、とかかな?」
これにジョゼフィン・ナーパルトは喝采を贈った。
「そうです! それ、すごくいいと思います!」
「なるほどな」
アキラも納得だ。
要するに、『科学技術館』とか『民俗資料館』などで見る、再現ジオラマである。
「まだまだ養蚕人口は増やしていきたいからな。そうした人たちに説明する上でも有効かもな」
そして、もしかしたら行く行くは『富岡製糸場』みたいに観光地になるかも、と、ちょっとだけ変な方向の期待を抱くアキラであった。
「立地も含めて、閣下に相談してみる」
そういうことになった。
「ああ、充実しているなあ」
思わず口を突いて出る呟き。
王都から来た技術者たちへの教育指導は終盤に差し掛かっていた。
お読みいただきありがとうございます。
次回更新は7月13日(土)10:00の予定です。
20190706 修正
(誤)「ああ、残った分も、選択や鍋の汚れ落としに使えるからな」
(正)「ああ、残った分も、洗濯や鍋の汚れ落としに使えるからな」
(誤)すなわち製錬。
(正)すなわち製練。