第十話 羽化
虫が嫌いな方はご注意下さい。
化学的な記述は読み流して下さってけっこうです。
繭を前にして、アキラは考えを巡らせている。
やがて100個の繭から蚕の成虫が出てくるはずだが、その前にやるべきことはまだまだあった。
「今のうちに産卵の準備を進めておこう」
アキラはセヴランと相談しようと飼育小屋を出ようとして、繭を見つめているミチアに念を押すことにした。
「あ、そうだ、まだ蚕のサナギは硬くなっていないから、蔟を動かさないようにな」
サナギに成り立てのときは体が軟らかいので、繭を揺らすと中で傷付いてしまうのである。
繭を作って3日程経てば、サナギとしての体も硬くなるので少々揺らしても大丈夫となる。
「はい、わかりました」
ミチアは頷き、少し離れたところから眺めるようにしたのだった。
「蚕種紙の代わりになる麻布でしたね。これをどうぞ」
「ありがとうございます。それから産卵床はどうでしょう?」
「はい、こちらに」
産卵床は直径40ミリ、高さ20ミリくらいの筒状のものであればいい。
これは和紙である必要はないので、常用されている羊皮紙で作られた筒を100個、セヴランは用意してくれていた。
「蚕は100匹ほどいますが、メスが何匹いるかわからないので余りますね」
とアキラが言うと、
「いえ、繁殖させていけばもっともっと必要になりますでしょう?」
とセヴランに言われてしまい、それもそうだと思い直すアキラであった。
「あとは……」
アキラは考え始めた。
「今は初夏、でよかったんだよな?」
ミチアに再確認すると、そうです、という答えが返ってきた。
「夏の気温と湿度はどのくらいまで上がるのか、そして涼しくなるのはいつ頃なのかな?」
と尋ねたあと、
「ええと、気温っていうのは暑さ寒さの度合いだな。湿度と言うのは蒸し暑さの度合いなんだ」
と、補足した。
「そうですね、真夏になってもこのあたりは暑くて堪らないほどにはなりません。じめじめしてはいませんね。そんな時期が3ヵ月くらい続くでしょうか」
「そうか、なら……」
今回生まれるであろう卵を、即孵化させてもう1世代、今年のうちに育てられるだろうとアキラは計算した。
「今年のうちにもう1回は繁殖させられますね」
「おお、それは嬉しいですな」
同席しているセヴランも喜んでいる。
「気温を今くらいに保てれば、1年中飼育できるのですがね」
そう呟くようにアキラが言うと、
「ふむ……『火の精霊石』を使えば冬でも暖かくできますが……」
とセヴラン。
「そうなんですか? ……あ、でも、桑の葉が確保できないと難しいですね」
「ああ、それがありましたか。ふむ、では、今年は自然に任せるとして、産業になりそうなら考えていきましょうか」
「それがよさそうですね」
『精霊石』は高価なものらしいので、産業として確立していない今、使用するのは抵抗を感じるアキラである。
それ以上に冬の間の桑の葉の確保も問題だ。保存と量、その2点において。
「そちらは保存の魔法道具で何とかなりませんかな?」
「魔法道具、ですか?」
「はい。腐りやすい肉や魚を長期保存するもので、隊商などは必ずといっていいくらい食料の保存に使っています」
冷蔵庫のようなものだろうか、とアキラは想像した。
「それは高価ではないのですか?」
「ええ。小型のものなら、少し裕福な家庭なら持っているはずです。当家にも4台あります。1台はメイドたちのところにも」
「え? そうなのか、ミチア?」
「はい。食料品の保存に使っています」
「そうか! それじゃあ試しに新鮮な桑の葉を数枚、そこに保存してもらってもいいかな?」
「ええ、大丈夫ですよ。桑の若葉は和え物にして食べることもありますから、嫌がる子はいません」
ということで、保存用の魔法道具『魔法式保存庫』でどのくらい桑の葉の保存が利くか、試してみることになったのである。
* * *
そして、繭になってから14日目のこと。
「アキラさん! 蚕が、蚕が!」
顔を洗っているアキラのところにミチアが血相を変えて飛んできた。
「蚕が繭から出てきました!」
「そうか!」
急いで顔を拭いたアキラは、ミチアと共に飼育小屋へと急いだ。
「ああ、出てきてる出てきてる」
繭をこじ開けるようにして、頭を出している蚕、もう完全に出て来ている蚕、合わせて21匹。
蚕の羽化は総じて明け方に行われるのだ。
「繭に穴を開けて出てくるんじゃないんですね」
ミチアが興味深そうに言う。
「うん、そうなんだ。繭を作っている糸同士の結合……くっつき具合を緩くする『コクナーゼ』っていう液を出して繭に隙間を作って出てくるんだよ」
繭は、カイコが吐いた繭糸と、『セリシン』というタンパク質の一種で形成されている。
このセリシンは繭糸と繭糸をつなぐ糊の役目をしており、繭の中の蚕は、『吸胃(別名=そ嚢)』から出る『コクナーゼ』という弱アルカリ性の液体酵素で繭を内側から湿らせ、セリシンを溶かして繭を作っている糸の結合を緩めるのだ。
蚕はその緩んだ繭糸と繭糸の間隔を広げて繭の外に出るため、繭糸を切ることなく外に出られるわけである。
「あ、でも、なんだか橙色の液をお尻から出してますよ? 病気じゃないですか?」
出て来た蚕を見て、ミチアが心配そうに言った。
「ああ、大丈夫。これは『蛾尿』といって、体の中にあった余計な水分を排出しているんだ」
「蛾尿、ですか……大丈夫なんですね?」
ほっとした様子のミチア。
「まだまだ時間が掛かるから、朝食を済ませてしまおう」
とアキラが言うと、ミチアはびっくりした顔をした。
「え? 羽があるんですから、飛んで逃げちゃいません?」
「それは大丈夫。中には飛べる品種もあるらしいけど、この蚕は飛べないから。というか歩くのも下手だから、この枠の中から出て行けないんだ」
「そ、そうなんですか……」
「だから、さっさと朝食を済ませてしまおう」
「わかりました……」
ということで、アキラとミチアは朝食を済ませに飼育小屋を出ていった。
* * *
とはいうものの、やはりどうなっているか気になるので、2人は大急ぎで食事を済ませ、飼育小屋へやって来た。
すると、21という数は変わらないが、全部の繭から蚕が出て来ていた。それぞれ、自分の出てきた繭につかまってじっとしている。蛾尿は既に済ませているようだ。
「だいたい、長くても20分くらいで繭から出るみたいだからな」
アキラは研究室での経験があるのでそれと照らし合わせてみて、今回もほぼ同じくらいであることを知り、ほっとしていた。
「でも、全部オスだな」
これもアキラの経験であるが、オスの方が羽化するのは早いようなのだ。
「メスの羽化は明日になるかもしれない」
オスメス揃えば、いよいよ交尾、そして産卵である。
お読みいただきありがとうございます。
2月25日(日)も更新します。
20180224 修正
(誤)まもなく100個の繭から蚕の成虫が出てくるはずだが
(正)やがて100個の繭から蚕の成虫が出てくるはずだが