1 アルゴール王国の猫姫様
亡くなったお母様がいつも言っていた。
何か困難にぶつかった時は、自分の心に素直になって行動しなさい、と。
それは誰かに非難されるようなことかもしれない。だけど、そうすれば、きっと自ずから道は開け、前に進むことができるからと。
アルゴール王国の第一王女である、私、ミラベルは、第一王子であるエドモンド兄様主催の茶会に出席するため、唯一の侍女であるアリッサを従えて、王宮の回廊をしずしずと歩いていた。
本当は自室がある塔から出たくなかったのだが、お兄様主催で招待されれば出席しなくてはいけないだろうと思い、断腸の思いではあるがおよそ3か月ぶりに外出した。
王宮の広い中庭には茶会に招待された上流階級の者たち、それから城で働く者たちがたくさんいる。
その人たちが私の姿を見つけると、口々に、
「猫姫様が、部屋を出でいらっしゃる、これは珍しい。」
「猫姫様といえば、未だに多くの猫を塔で飼ってらっしゃるとか。」
「まあ、あんなに不吉な生き物をそばに置くなんて、なんて恐ろしい。」
「この前の、王宮への落雷は、猫姫様が飼っている猫のしわざなんですって。」
「そういえば、姫様がよくご病気で行事を欠席されるのも、その猫たちの呪いだと聞いたことがあるぞ。」
「信じられないわ。自ら王宮に凶事を招くなど。」
などとひそひそと話している。
その悪口は聞こえているけれど、聞こえないふりをして、無表情を保ちつつとことこと歩いていく。
我がアルゴール王国では昔から、猫は不吉な生き物であり、災いを招く悪の使いだという言い伝えがある。
だから誰も犬を飼うように、猫を飼って可愛がったり、家族として扱うようなことはことはしない。
それどころか、見つければ叩いて追い払ったり、ひどい人は傷つけたりすることもある。
猫が不吉?
災いを招く?
悪の使い?
まさか!
あれほどに完ぺきな存在はこの世にはないわ!
愛らしくもあり、時に厳しくもあるあの瞳!
ぴくぴくと動く耳!
頭の丸いフォルム!
ふわふわの体毛!
ゆらゆらと動く尻尾!
きゅっとした手!
ぷにぷにの肉球!
それから!それから!
「はああっ!」
私は身もだえしながら、よろり、と近くの豪奢な柱にしがみついた。
ああっ!早く部屋に帰って思う存分なでなでしたいいいいいいいいいいいーーーーーーーっっ!!!
「はあっ、はあっ。」
興奮のあまり鼻息を荒くしていると、侍女のアリッサが、周りにわざと聞かせるように、冷静に言った。
「姫様、大丈夫でございますか?今日は朝から体調がよろしくありませんでしたものね。それでめまいでもおこされたのでしょう。さあ、わたくしめにつかまってください。」
つかまらせるというよりも、強引に立たせるように私は柱からべりっとはがされてしまった。
「ああ、アリッサ.......。」
私は恨めし気に侍女をみつめた。
「ああ、ではありません。姫様の妄想悶えは体調不良でごまかすしかありませんからね。さあ、まいりましょう。これ以上ここにいてはまたいらぬ噂がたちますよ。」
「わかったわ。」
私はなるべくか弱いお姫様のふりをして、またしずしずと歩き出した。
数分ほど歩くと、中庭でも人目につかない、庭木に囲まれたエリアに到達した。
ああ、こういう場所で猫たちと戯れるのもいいわね、とうっとりしていると、男女が言い争っているような声が聞こえてきた。
「だから、それは言葉のあや、というか、とにかく誤解だ!」
「私、何年も体重変わってないし、太ってないし、あなたの母親になんか似てないから!」
「いや、だからそれは素敵だね、という意味で。」
「もう、サイテー!」
どうやら痴話げんかが繰り広げられているようだ。
足を止めて少し遠くにいる二人を見てみると、こちらに背を向けている男性の方は背が高く、がっちりしていて濃紺の騎士服を着ている。
女性はきらびやかなドレスで着飾った、若くて結構きれいな人だった。今日の茶会に呼ばれた貴族の令嬢かもしれない。
「えーっと、女性はちょっとふくよかな方がいいというか。」
これはまずい。
この男性、本人は気づいてないだろうけど、デリカシーのない発言で女性を怒らせてしまったようだ。
太った?とか、母親に似てる、とかは女性には言ってはいけない。
私もいわれたら怒るだろうな。
しかし、なぜ女性が怒っているのかわからない男性は、どうしたらいいのかわからずにおろおろとするしかないようだ。
そして、パアンッと大きな音が響いた。
「もう我慢できない!あなたみたいな男とこれ以上恋人でいることなんかできないわ!さようなら!」
女性は捨て台詞をはくと、プリプリと怒りながら去っていった。
男性は呆然と立ちすくしている。
追いかけなくていいのだろうか?
すると、男性はくるりとこちらに振り向いた。
お互い目が合ってしまった。
き、気まずい!
男性はまさか自分を見ている人間がいるとは思わなかったんだろう。
驚いて目を見開くと、さっと顔を背けた。
彼の右ほほには真っ赤な手形がくっきりとついている。
思わずまじまじと彼を見てしまった。
短く切られた黒髪はかっちりとまとめられ、なかなか精悍な顔立ちをしている。
どこかで見たことがあるような気がする人だけど......。
まあ、いいか。とにかく、彼もこれ以上見られているのは嫌だろうから、私は声もかけずにその場を立ち去ることにした。
私は何も見ていませんよ、という意味を込めて。
幾分か今までよりも少し急ぎ足に歩き出す。
アリッサも何も言わない。
でも心の中でさっきの男性をののしっていることはなんとなくわかる。
アリッサはああいう心の機微に疎い人間には厳しいのだ。
早足で歩いていたので、前を歩く二人連れに追いついてしまった。
「げっ!」
私は思わず小さく声を出してしまった。
足音で私たちに気付いた二人は私に振り向いてきた。
きれいな顔をしているのに冷たい表情で私を見下ろすのは第二王子のディミアン兄様。
金髪の美しい髪にあどけないながらも将来はとんでもない美女に成長しそうな片鱗をみせている顔をしているのは、妹のチェルシーだ。彼女も呆れを隠しもしない表情でこちらを見ている。
「なんだ、お前か。相変わらず下らんことばかりしているようだな。」
ディミアン兄様は昔から私には冷たい。私が猫を飼い始めてから、さらにひどくなった気がする。
「お前のような王族の勤めも忘れ、不吉なものに取りつかれているようなものが我が妹とは恥ずかしい。くれぐれも兄上の茶会では我々に恥をかかせるなよ。」
私は返事をする気も起らない。
たしかに猫を飼うことはいいことではないかもしれないが、ディミアン兄様の厳しさは異常な気がする。
私がだんまりを決め込んでいると、
「アリッサ、お前のような有能な侍女がなぜこのようなものにつけられているのかわからん。今からでもいい。私から父上に配属場所を変えるよう言ってやってもいいのだぞ。」
今度はアリッサに言った。
それに対し、アリッサは少し頭を下げただけだった。
「もう、お兄様、お姉さまのことはもう放っておいて、早くまいりましょう。エドモンドお兄様がお待ちになってらっしゃるわ。」
チェルシーがディミアン兄様の腕を引いて歩き出す。
ディミアン兄様はまだ何かを言いたげだったけれど、そのまま歩き去っていった。
「アリッサ。」
「はい、姫様。」
「今日の茶会は欠席するわ。気分が悪くなったの。」
「承知いたしました。」
アリッサは私の決定に特に何も言わなかった。
自分のことながら、なぜいつも何も苦言を言わないのか以前聞いたことがある。
いわく、いかに王族のわがままにうまく対処するか、に使用人の腕が試されるのだと言われた。
そして一番使えがいのある人物が私だとも。
私はそんなにわがままじゃない、たぶん。
私は今まで来た道を引き返すことにした。
読んでいただき、ありがとうございました。