第三話 アレクシリス=ヒンデル=ハイルランデル
…… 遠くで …… 動物の鳴き声がした。
オオカミの遠吠えよりも、もっと高く悲しげな澄んだ響きが、お互いを呼びあうように聴こえてくる。
淡い朝の光が、厚いカーテンの隙間から床へ波状に射し込んで拡がっている。
「ん …… 朝、なの?」
香澄は、見覚えのない丈の長いオフホワイトのリネンシャツの寝間着を着ていた。それに、下着まで、誰が着替えさせてくれたのか、彼女の物ではなかった。ここが病院なら、当然の処置だと納得しただろうが、色々と想像して焦っていた。
とにかく、起きなければと、香澄は、ゆっくりと体を起こしてみた。身体に怠さはあるが、痛みは全くなかった。
昨夜の男性、若い感じがしたから、青年かな? …… アレク …… なんちゃらかんちゃらさんは、わたしが怪我をしたと言っていた。
香澄は、自分の記憶力のなさに落ち込みながら思い出していた。
情けない話だが、せっかく自己紹介してもらったのに、長い名前だったので、一度で覚えられなかったのだ。
自身も記憶力は良い方では無いと自覚していた。五十歳にもなれば、心身ともに衰えていくものだ。残酷なほど平等に『老化現象』は、香澄にも訪れていた。
「そう、例えば老眼とか、老眼とか、老眼とか …… あれ? なんだろう?」
香澄は、ぶつぶつ呟きながら妙な違和感を感じた。何かが違う気がするのに、何が違うのか分からない感覚がするのだ。ちょっと、考えてみたが答えが出そうになかった。
「んん~。まあ、いいか」
彼女は、悩んでも答えが出ない事は、後回しにする性格だった。
香澄は、まずは自分の怪我を確認しようと、身体に触れたり、手足を擦ってみたり、リネンシャツの襟ぐりの隙間から胸元をのぞいてみたりした。しかし、異常はなかった。
今度は、伸びをし首や肩をまわしてみた。特に、痛みや異常を感じなかったので、ベッドから足を下ろして立ってみた。
やはり、少しだけ頭痛はするが、トントンとその場で足踏みをしてみても、何も問題がなさそうだった。リネンシャツの寝間着の足首まである裾を、膝上まで持ち上げて、あれこれ眺めてみても、痣や傷あと一つも見つけられなかった。
香澄は、怪我の治療をしたのなら、包帯なり薬を塗った跡とかあって当然だと思ったが …… それらしい跡は、どこにもなかった。
「よく考えてみれば、眠って朝には完治する怪我なんてあり得ないよね。あのイケメンさんは、嘘をついていたのかな?」
香澄は、だんだん明るくなってきた部屋を見渡した。ログハウスの様な、木組みの壁や天井、板張りの床は光沢があってきちんと掃除されていた。
部屋の広さは学校の教室ほどはあった。部屋としてはかなり広々としていた。家具はシンプルなベッドに、テーブルと椅子が二脚、大きめの洋服ダンスがあるだけだった。
窓側と反対の壁面に扉が二ヶ所あり、香澄は、一方は部屋の外へ、もう一方はトイレに繋がっていそうだと予想した。
香澄は、部屋の外に人の気配を感じなかったので、開けて見てみようと思った。ちょっと冷たい木の床を、ぺたぺたと裸足で扉まで歩いていって、取手に手を伸ばした。
その手首を、突然、何者かに掴まれた。
「ひゃっ?!」
しかも、背後からしっかり抱きしめる様に、がっしりと肩まで掴まれて、香澄は、妙な悲鳴をあげた。部屋に、彼女以外は誰も居なかったはずだった。香澄の心臓は、ばくばくと激しく鼓動していた。
「おはよう。まだ、一人で歩き回るのは危ない」
昨夜の青年だった。香澄曰く、アレクなんちゃらかんちゃらさんだ。香澄は、彼のイケメンボイスが耳元でして、ゾクリと背筋が震えた。自分よりも大きな彼の手に、ゆっくりと誘導されてベッドに腰掛けさせられた。
香澄は、動揺しながらも、なんとか答える。
「 …… はい、すみません。おはようございます」
アレクなんちゃらかんちゃらさんは、窓のカーテンを開けて、椅子をベッドの横に置いて座った。今朝は、シンプルな濃紺のやはり詰襟の軍服のような服装をしていた。
「あの、すみません。もう一度、お名前を教えていただけますか?」
「 …… アレクシリス」
「昨夜は、もっと長かった気がしますが?」
「アレクシリス=ヒンデル=ハイルランデル」
「あ~。アレクシリス=ヒンデル=ハイ …… ラン、ラン? ラン?? ……すみません。……もう一度だけ、お願いします」
香澄は、早口で告げられた彼の名前を、またしても覚えきれなかった。恥ずかしさと、申し訳なさでいっぱいな彼女は、涙目でアレクシリスを見つめた。
ほんの一瞬目が合うと、アレクシリスは口元に手を当て、横をむいて細かく肩を震わせた。香澄は、アレクシリスのその様子が、笑いをこらえているのだと気が付いた。香澄の言い方か何かが、彼のツボにハマったらしい。
昨夜は、暗くて細かな色彩まで分からなかったが、彼の瞳は、蒼玉が光の加減で緑に反射し、煌めく海を思わせた。柔らかそうな 明るい金髪はサイドから襟足まで短いが、前髪は長めで、笑いを堪えて肩を震わす度に、サラサラ揺れて光を弾いている。
昨夜も思ったが、彼は、男性にしては優しい顔立ちで、物凄い美人だと香澄は思った。だが、背が高く細身なのに、意外に筋肉質な体をしていると、さっき抱きしめられた時に感じた。手足も長く、抜群のスタイルで些細な仕草にも気品を感じる。
香澄は、完璧な王子様に初めて出会ったと、密かに興奮していた。
おばさんには、眩し過ぎて直視出来ないような秀麗な青年から、上品なシトラス系のいい匂いがしている。これ以上の接近は、香澄の許容量限界だった。年甲斐もなく、頬が熱を持っているのを意識して恥ずかしかった。
香澄は、絵本や漫画で王子様は金髪碧眼だと、幼い頃に洗脳されていた。テレビで海外の本物の王子様の茶色の髪や瞳を見て『あの王子様は偽者だ!』と、言い張る頑固で妙な幼稚園児だったのだ。いや、今でも二次元の世界で、金髪碧眼は王子様の標準装備のはずだと思った。
「どうか、アレクシリスと呼んで下さい。食欲はありますか?」
しばらくして立ち直ったアレクシリスは、涼しげな笑顔で何事もなかった様に言った。
「 …… はい」
香澄は、尋ねられて、急にお腹がすいてきた。そして、つくづく何が起こっても、お腹はすくものだと思った。
「では、食事の準備してきます。ああ、寒くありませんか?」
アレクシリスは、香澄の肩にグレーのストールを掛けてくれた。窓辺のカーテンの向こう側は明るくなってきたが、部屋はあまり暖かくなっかたので、とてもありがたかった。
「ありがとうございます。アレクシリスさん」
アレクシリスは、階下にあるというキッチンから、運んできたスープをテーブルに準備してくれた。香澄は、具が細かくよく煮込まれたスープを食べおわると、アレクシリスに、またベッドに押し込まれた。
アレクシリスは、ベッドに上半身を起こして座っている香澄の背中の後に、楽な姿勢になるように、枕やクッションをポンポンと置いていった。
「あの、アレクシリスさんはお医者様なんですか?」
「違います。今、医師を呼んでいるのですが、数日間、徹夜で貴女の治療にあたっていた疲れが出たのでしょう。まだ、起きてこないのです。貴女が治療の結果、ほぼ完治した状態まで回復したので、安心したのでしょう。失礼、ちょっと見せていただけますか?」
アレクシリスは、そっと香澄の前髪を持ち上げ指先で、顔や額をなぞった。
香澄は、いきなり触れられて驚いたが、状態を一つ、一つ確認する様なアレクシリスの手の動きに、そのまま身動きしないでされるがままでいた。その優美な容姿に似合わぬ、硬い指先と、自分よりも少し高めの体温に、香澄は緊張していた。アレクシリスの手は、一通り頭を撫でて、満足した様子で離れていった。
「わたしが、怪我をしたのは頭なんですか?」
「いいえ。正しくは、全身です。複雑骨折に裂傷、内臓破裂に出血多量。発見した時は、もう助からないと思いました」
「ええと ………… 冗談ですよね?」
アレクシリスは、何か物言いたげな表情を一瞬したが、ゆっくりと顔を横に振り否定した。
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