第十三話 黒い霧の少年
香澄は、上機嫌だった。
藍白が用意してくれた朝食兼昼食のバケットサンドは絶品だったし、見た目も味もオレンジジュースっぽい飲み物は、爽やかな後味が香澄の好みだった。人間は、たっぷりの睡眠と美味しい食べ物で栄養補給をすれば、心と身体も元気になれるものだと思う香澄だった。
キプトの町並みは、イタリアの素朴な田舎町のように建物が密集していた。香澄が藍白と異国情緒溢れる石畳みの道を、観光気分で歩いているのは、蘇芳に面会するためだ。
香澄が履いているのは編み上げの革のショートブーツだった。着物風の衣装を着てしまった後だったので、藍白に履かせてもらった。香澄は、美青年に靴を履かせてもらうのが、こんなに恥ずかしいとは考えてもみなかった。しかし、藍白が嬉しそうだったから、まあ、いいのかと思った。
香澄は、何故か恋人繋ぎをして横を歩く藍白を見上げて思案顔をしていた。
「なに?」
首をコテンと傾げて、金色の瞳を細めて微笑む藍白は、香澄にはきらきらのエフェクトがかかって見えた。
「うっ、眩しい……! えっと、藍白は、竜の姿の時も人の姿の時も、瞳の色は同じだなぁって思って、髪の色と鱗の色も同じだよね。名前の由来は、もしかして、それで?」
「うん。そうだよ」
香澄が鼓動が早くなるのを誤魔化しながら、藍白にそう尋ねた。藍白は、嬉しそうな笑顔で答えた。
「日本古来の色の名前だよね。日本の顔料について最近仕事で勉強中なんだ。藍白や杜若の名前は、日本人の『落ち人』の知識から名付けられているの?」
「そうだよ。ちょうど、僕や杜若が産まれた頃にやって来た、……その、人間の『落ち人』って言い方は、なんだか嫌いなんだよね。竜族は、『迷い人』って呼ぶんだよ」
「そうなんだ。わたしもそう思ったの。初めてアレクシリスさんの口から聞いた時の事を思い出すと、言葉の隅になんとなく嫌悪が含まれている様に感じた気がする。その、『迷い人』さんは、今、どうしているの? 会えるかな?」
「 …… あ、う、ええっと、そうだなぁ …… 」
いつも即答の藍白が、返事を躊躇っていた。香澄は、なんとなく話題を変えた。
「そういえば、藍白って成人したばかりだって言ってたけど幾つなの?」
「僕? だいたい五十九歳ぐらいかな。竜族は、歳を数える習慣がないから、正確には分からないけど、だいたい合ってると思うよ」
「 ええっ?! ま、マジですか?」
「ああ、竜族は人間より長命なんだ。平均寿命は五千歳ぐらいなんだよ。だから、子供時代は六十年前後で成長も特殊で遅いんだよ。成人してからは、緩かな成長で若いまま長く生きる種族なんだ。香澄ちゃんは、成人前に見えるけど五十歳なら、大丈夫だね」
「はあ。びっくりです。ん? 何が大丈夫?」
「僕のお嫁さんになったら、名付け親の『迷い人』にも、紹介したいから、会いに連れて行ってあげるよ」
今度は、藍白が上機嫌だった。
「藍白、釣り合いが取れるのは、わたしが竜族だったら、でしょう?」
「あはは。そうだね。香澄ちゃんは、…… 」
『姫様。見ぃいつけたぁ』
香澄は、ゾワリとする子どもの声が急に背後からして驚いた。
香澄と藍白が同時に振り返ると、一瞬、周りの空間が歪み黒い霧が溢れた。黒い霧が、香澄の視界を埋めつくしていき、意識を失いかけた時 、バシッと、何かに弾かれる衝撃で混濁した意識が戻った。そして、がっちりとした感触に受け止められた。
「まさか、キプトの結界内に入り込んでいるなんて! 香澄ちゃん、しっかり!」
藍白の言葉は、焦りと悔しさを滲ませていた。香澄の身体は力が入らず、ぐったりと藍白の胸元に寄りかかっていた。
『我が主を、離せ。下等な者よ!』
黒い霧の中から、さっきの子どもの声がした。香澄がぼんやり黒い霧の様子を見ていると、一ヵ所に集まり、八歳ぐらいの少年が現れた。
少年は、黒一色の衣服に黒い霧を纏わせ、紅い瞳をギラギラと輝かせながら、あどけない笑顔で子供らしくない口上を言い放った。
『そう、我が姫は、全ての上位、界を渡る者の道標なり。煌めく鱗、優美なる数多の鰭持つ天魚の姫君。その歌声は、その眼差しは、その姿は、比類なき至宝の輝き。その魂は、輪廻の理すら易々と渡り、今、下僕めの眼前にお戻りになられたのだ!』
少年はうっとりと芝居じみた口調で一息にまくしたてた。それから、片膝をつき右手を心臓に、左手は背にまわし頭を垂れた。きちんと短く整えられた色素の薄い茶髪のつむじを見つめながら、香澄は少年の言葉を理解しようと考えたが、訳がわからなかった。藍白は、香澄をしっかりと抱きしめていた。少年は、顔を上げてにっこりと笑顔でとんでもない事を言い出した。
『姫様。只今、害虫を駆除致しますので、暫しお待ち戴けますでしょうか?』
言い終わった時には、少年の背後から弧を描いて黒い霧の細身の鎌が、藍白の身体を脳天から貫こうとした。
ーーーー ギイイィン!!
藍白が睨み付けた、視線の僅かな先で、虹色の膜が黒い鎌の先を受け止めるのが見えた。ぎりぎりの結界で阻んでいるらしく、藍白の身体から力が抜けて、香澄は支えを失い座り込んだ。
少年は、藍白と香澄が離れたのを見て、黒い霧の鎌を横に凪ぎ払った。藍白は、あっという間に黒い霧に包まれて視界から消えてしまった。香澄は、声をあげる事すら出来なかった。
『さあ、姫様。一緒に参りましょう』
いつの間にか少年は、香澄の横でさっきの礼をとっていた。香澄を見上げる姿は、綺麗な可愛らしい少年だが、本性は藍白を一瞬で吹き飛ばした恐ろしい黒い霧だ。
「何を言ってるのか、意味がわからない。どうして、こんな酷い事が出来るの? 藍白に酷いことしたあんたなんかと、一緒に行くわけないでしょう!」
香澄は、震える声でやっとそれだけ言えた。反撃一つも出来ない情けなさで涙が出た。
しかし、香澄の意図とは別に、彼にダメージを与えられたようだった。黒い霧の少年は、何故か真っ青になり震え出したのだった。今のうちに、香澄は逃げるべきなのだろうが、腰が抜けて動けなかった。
『姫様。私よりも、あの下等生物をご寵愛になるなんて ……! あいつめ、赦さないぞ!』
黒い霧の少年は、ぼろぼろと泣きながらそう言って霧の闇の中に消えていった。一塊の黒い霧はキプトの街の遥か空高く舞い上がった。そして、大空の一点になり、見失ったかと香澄が思った時、真っ直ぐ地上目指して堕ちてきた。
どおおおおおおおおおおおおおん!!!!
地響きと共に物凄い音がした。通りの向こう側の家が土煙を上げて崩れていった。
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