6.プレイバック
目の前に紫色の沼が点々と広がっている。
それ以外に何も見当たらない、異空間のような場所で目を覚ます。
ーー長谷川珠城は、買い物に出掛けてその帰りに玄一と会話をしていた。そこまでは覚えていたが、その先の記憶が一切無かった。
「メロス」
珠は自分のローファーに声を掛ける。
《どうやらここは、あの鏡の中らしいぞ》
賢明な靴はしっかりと記憶していた。靴だからこそ、というのもあるが。
「なるほど……飲み込まれたのね、私は」
沼を避けて歩き出す。
《大丈夫なのか、そんな無鉄砲に歩き回って》
「立ち止まってても何も始まらないわ。まずは情報収集よ」
《ならばワタシは忠実な足に成ろう》
メロスが言うと、ローファーはゴム製の長靴へ変化した。これなら、沼に足を取られずに行動出来る。
「サンキュー、これなら多少は」
と言って沼に足を踏み入れた瞬間、珠城の身体は半分沼に浸かった。
「……ダメそうね」
あっという間に彼女の身体は沼の中へ沈んだ。
更に意識が戻ると、珠城は見慣れた景色の中に立っていた。長靴は既にローファーに戻っている。
出身中学校の近くにあるスーパーが真後ろにあり、交差点がある。マックが忙しなく客を捌いていて、自営業のクリーニング屋が平和そうにしていた。そして学習塾の中には子供が数人勉強に勤しんでいた。
「ここは」
《ふうむ。中学校の近くだな》
確かにそうだ。しかし、珠城は不審感を覚えていた。
「(あれ……もうクリーニング屋さんは無くなってるはずよ)」
空は青く、町行く人々の服装も春先のものが多かった。珠城は春のうららかな陽気も、現実世界の冷たい空気も感じない。彼女に残っているのは、地面を踏みしめている感覚だけ。
《どうしたタマキ》
「ううん何でもーー」
珠城の目の前で小学生低学年かと思われる女の子が自転車で転倒し、けたましい音がした。そのせいで珠城の声が遮られる。
「あ、ちょっと。大丈夫?」
幸い、腕に擦り傷が出来ただけ。珠城の持ち合わせで手当ては完了した。そして珠城は違和感の正体を把握する。
「ありがとう、おねえちゃん」
「ううん、平気よ。ところで一つ聞きたいんだけど、お母さんは?」
「いないの」
《む?》
メロスが口を挟む。
珠城は気にせず女の子の話に耳を傾けた。
「ここにはいないの。ここは、おともだちだけがいるの。」
「そうみたいね。ありがとう、怪我しないように気を付けて」
女の子は珠城に笑いかけるとまた自転車に跨って走り去った。珠城も手を振って見送ったが、姿が見えなくなると急いでスーパーの駐車場に留まっている車の陰に隠れた。
車も、一昔前のタイプの軽だ。
《どうした急に隠れて……》
「アホ靴」
どんっ、とメロスを車体にぶつけるがその振動が自分に返ってきて珠城は悶絶する。
《だから言ったろう、ワタシは傷付かないと》
「う、うるさい。とにかくまだ気付いてないならよく見て、ほら」
珠城は唸りながらスーパーを指差す。
天気のよい昼間にも関わらず人の出入りがない。そのうえーー道行く人々は皆、小学生くらいの子供だった。
通った中でも一番大きくて中学生だ。
《ほう。ワタシはどうも年齢が無いから気付かなかったが、この世界は子供だらけだな》
しかし、とメロスが続ける。
《何故タマキは隠れた。先ほどの子供は無害だっただろう?》
珠城は声を潜めて返す。
「多分、なんだけど」
「あの子はまだ小さかったし、私を"子供か大人か"判別出来なかったから襲って来なかったんじゃないかな。」
運動靴が駐車場のアスファルトを踏み締める音が近付いてきた事を察して、二つ隣のミニバンの陰に逃げる珠城。
「ほら、これ見て」
身を隠したミニバンの色に似合わず操縦席側のドアには乾いた血の跡が残っていた。窓ガラスも突き破られている。そっと覗き込むと、一人の男ーー"大人"が全身傷だらけでシートにもたれていた。
ほとんどは刺し傷や切り傷で、心臓部の一撃が決定打になったのだろう。
「ここは恐らく、『怪奇』が創り出した過去の世界。それも私たちがまだ小学生くらいだった頃の時間軸。」
そして
「この世界で、"大人"は生きられない。」
それが珠城が身を隠した理由だった。
《しかしキミはまだ"子供"だろう?》
成人してるならまだしもーーメロスは言い掛けたが、急に首根っこを掴まれて浮遊した感覚に戸惑い言葉を失った。珠城がメロスを脱いで、右手で一足を持っているのだ。そして、まさにメロスを上空へ投げようと構えている。
《タマキ!キミは一体何を……》
珠城は、ミニバンのミラー越しに見えていた。
自分が背を向けている方の空の一部が紫色に歪んでいるのだ。
もしかしたら、メロスだけでもこの世界から脱け出せるかも知れない。一縷の望みを懸けて、珠城は歪みにメロスを投げ込んだ。
「アンタは戻って、皆に状況を報告して。変な所に着いちゃったらいくらでも私を呪いなさい!」
歪みの中にメロスが入ったのを確認すると、珠城は地面に手を突っ込み青い刀を取り出す。
"この世界"は過去の世界を設定した場所。とはいえ道路も歩道も整備されて靴下一枚では不自由だ。
更に悪い事に年齢の判別が出来る歳の子供に見つかれば戦闘は避けられない。
四面楚歌の状況の中、珠城はーー笑った。
「ピンチになると人間は倍の力が働くって言うからね。」
「さあ、雨でも槍でも降ってきなさい!」
珠城のよく通る快活な声が響いた。
しかし、高らかに叫んだ珠城のすぐ隣を錫杖が掠める。
「えっ」
直後、珠城の頭上から降ってきたのは雨でも槍でもなく琴彦だった。
「ねえ琴彦?」
「あん?」
「私はね、空から降ってくるものは雨と雪と女の子だと思ってるの。だからさ、こうやって琴彦の椅子になってる事がよ〜く理解出来ないのよね。」
珠城は駐車場のアスファルトに頬杖をつきながらうつ伏せの状態で、自分に乗っている琴彦に悪態をついた。
琴彦が落下した直後、珠城は目にも留まらぬ速さで組み込まれて現在に至るのだ。
「お前がそこに居たからだ。俺は悪意も何もない。単純に物理の法則に従ったまでだ」
琴彦は満更でもない態度で周囲を観察している。近くに蝙蝠ーーロシュが飛び回っていた。
「はいはい分かったわ。だから降りてくれる?今メロスが居ないからすごく小石が足に突き刺さって痛いのよ」
「上質な椅子だったんだがな……」
名残惜しそうに琴彦が珠城から降りる。
珠城も立ち上がると腰をぐっ、と伸ばして恨みがましく言った。
「アンタ最低だわ。だから彼女出来ないのよ」
直後、珠城の額にロシュが体当たりをしてくる。慌てて珠城が引き剥がすと、蝙蝠特有の甲高い鳴き声で威嚇してきた。
《琴彦を侮辱するな、小娘》
珠城とロシュの睨み合いが続いたが、ややあって珠城がぽいとロシュを投げ捨てた。
ああ、と珠城はミニバンに背もたれる。
「そもそも琴彦、どうやってここに来たの」
琴彦はロシュを肩に乗せて眼を細めた。
「俺も『紫鏡』の中に飛び込んだ。」
「なんて無鉄砲な……」
珠城も琴彦の見る方向に向く。時間の経過があるのか中学生が通りに増えている。
「法堂先輩は見付かった?」
琴彦は静かに首を振る。珠城は不安げに琴彦を見つめて、この世界で"大人"が生きられない事を告げた。
それに対して琴彦は、顔色一つ変えずに反対側の学習塾の奥を見据える。
「だったらどうした。法堂先輩が信用ならないとでも言うのか」
今度は先ほど珠城がメロスを投げた空の歪みに目を遣る琴彦。珠城もつられて顔を上げた。
「あれは法堂先輩の術だろう。こりゃ畏れ入ったぜーーまさか空間一つ捻じ曲げるとはな。」
「えっ。まさか先輩は自力で脱出したって事?」
珠城が眉をひそめて琴彦に詰め寄る。
「淀の情報によれば先輩は既に昨日脱出している事になる。奴(法夢)が単純に現実世界で見つけられなかっただけのようだな、今回の騒動は。全くの拍子抜けだ。」
琴彦はつまらなさそうに呟く。珠城は混乱した頭で「で、でも」と言い出した。
「脱出したならどうしてまだ失踪し続けてるのよ。祝賀会まで中止にしておいて……」
「問題はそれだな」
琴彦もううむと唸る。頭の回転が速い琴彦もそこだけが分からないままでいた。
《仕組まれた、のかも分からぬ》
蝙蝠の姿のままロシュが二人に言う。珠城は驚愕の表情を浮かべて琴彦は口をへの字に曲げた。
ーーまさか、先輩が裏切ったのか。それが本当なら今後大きな戦闘は間違えなく避けられない。
珠城が刀を地面に突き刺して、力なく寄りかかる。
その時だった。
紫の爪が、二人の間を切り裂いた。
琴彦は咄嗟に身を捻ったが、珠城はその挙動に追い付けず「あっ」と小さく声を出しただけになってしまった。二、三瞬遅れて身体をミニバンに張り付かせる。そのお陰か、肩が切れただけで済んだがどろっ、と粘り気のある血が流れた。
琴彦は錫杖を抜き取り、珠城は刀を構え直す。負傷した左手はぶら下げたままで、右手だけで構えている。
二人は襲ってきた"子供"を見た。
「ーー法堂、先輩?」
そこに立っていたのは、右腕がまるまる紫の爪のに変形してーー右腕が歪になっている事を除けば二人の記憶に鮮明に残っているーー中学三年生の法堂法士の姿だった。
《ふむ》
ロシュが重苦しい沈黙の中、呟く。そして明快に笑った(ように)、何もない虚空へ言い放つ。
《面白いの、『怪奇』風情!貴様の正体、この我が見破ったり》
それを聞き付けた中学三年生の法堂法士が琴彦を狙い、右腕を振りかぶる。
琴彦も錫杖を向かわせる、が、ミニバンを乗り越えて他の中学生何名かが同時に襲ってきていた。珠城も動きに合わせて跳躍しようとするものの、メロスが居ない事を思い出して舌打ちをするだけに終わった。
錫杖と爪がぶつかり、じゃらん!と錫杖の揺れる音がする。ミニバンから飛び出してきた中学生は珠を飛び越えてーー琴彦に向かおうとしてーー
右側の女子中学生は薙刀に似た反りの直刀に、
左側の男子中学生は通常のものに比べて少し短い直刀に、斬り付けられる。
最後に中心の中学生は、鳩尾に蹴りを喰らい頭突きをお見舞いされた。
「珠城。」
その人物は、ミニバンの上に着地すると珠のローファーを本人の目の前に投げた。
琴彦が横眼でちらりと見る。そして、にやりと笑った。
「いいとこ取りか」
「お前に言われたくないな、琴彦」
対になった黒い柄の直刀を仕舞い、中学三年生の法堂法士ーーの頭めがけてミニバンの上から飛び膝蹴りを繰り出し消滅させたのは、有名進学校の制服を着た淀貴人だった。