先輩と後輩 その②
「琴乃さん。お話があります」
「あら、何かしら?」
四条さんから加奈子へと呼び方が変わったその日のうちに、僕はすぐに琴乃さんのもとへと向かった。
まあ、基本的に琴乃さんが店にいないことはないので、今回もすぐに琴乃さんを発見した。
僕を見るとすぐに、ニヤッと気味の悪い笑みを浮かべながら言った。
そして話は冒頭に戻る。
右手の人差し指と中指で二をつくり、それを琴乃さんの顔に突き出す。
「聞きたいことと、話したいこと、それぞれあわせて二つあります」
僕が内容を話そうと口を少し大きく開けると、すぐさま話を切り出してきた。
「何故あんたの秘密を四条に話したか、それから男であることをみんなにばらしていいか、そんなところかしら?」
まるでそう言われることを予想していたかのように、琴乃さんは僕の話したいことを寸分の違いもなく言い当てた。
僕は驚き、目を丸くした。そんな僕の間抜けな表情を見ることができて、よほど気分が良いのだろう。へらへらと締まりのない笑顔をつくる。
「なんで……分かったんですか?」
僕には琴乃さんが化け物のように見えて、ひどく怯えた声色で言った。
「簡単なことよ。あなた四条から聞いてないの? 私が四条にヒントだしたって話」
そう言われてみれば、加奈子は僕に、琴乃さんから僕が男だと分かるようなヒントをもらったって話をしていたな。
てことは、いずれ加奈子が僕の秘密に気づき、そして僕が琴乃さんのもとに何故ヒントを出したのか聞きにくると予測したのか。
「いえ、聞きました。なるほど、だから琴乃さんは予測できたんですね」
ん? ちょっと待てよ。でもそれなら、加奈子が琴乃さんからヒントをもらった、って話を僕にしなかったら、僕はなんの疑問を持つこともなく、加奈子にばれたとしか思わなかったはずだ。
琴乃さんが、僕の秘密がばれるようなことを言うとは思えないしな。てことはつまり、琴乃さんは、加奈子が琴乃さんからヒントを教えてもらった、という話を僕にすることを、予測していたということになる。
そして確かに、琴乃さんの思惑通り加奈子はその話を僕にした。じゃあ何故、琴乃さんはそんなことを予測できたのか。
「悩んでいるようね?」
何かを考えている僕を見かねて、琴乃さんは話し始める。
「おおよそ、何故私が予測できたか。それで悩んでいるんでしょう?」
これまた当たりだ。僕は黙って頷いた。
「私にはそういうことができる才能がある、と言ったら、あんたは信じる?」
才能か。物事を予測できる才能。まあ、不可能ではない。けど、それはほぼ不可能に近いな。
「まあ、可能性としてはあるかもしれないですから、信じられます」
「あらそう。それなら――」そう言った瞬間、琴乃さんの顔からは笑顔は消え、真剣な表情をする。
「もし私が、未来を予見できると言ったら、あんたは信じる?」
冗談。僕はすぐにそう思った。けど、琴乃さんの眼差しからは、とてもそんなことは読み取れず、真剣そのものだった。
「それは……信じられません」
「それは残念ね」
いや、やっぱり今の発言は冗談なのか。僕が信じられない、そうはっきりと告げると、またいつもの顔つきに戻っていった。
「琴乃さん、らしくないですね。いつも冗談は嫌いだって言ってたじゃないですか」
そう、この人はいつも冗談を嫌う。理由はともあれ、耳にたこができるほど言われてきた。それなのに今は冗談めかしたこと言った。
もしかしたら、琴乃さんは本当に未来予知ができるのか?僕の質問を見事に当ててのけたし、確かにそう考えることもできなくはない。けど――
「現実的に考えて、そんなことはとても信じられません」
「現実的ねえ……なんて嫌な響きなのかしら」
そう言って琴乃さんは顔を顰めた。
「そうですか? 別に僕は、そんなに嫌がるものではないと思いますけど」
もし、もしもの話だ。現実的という言葉がなければ、現実という言葉がなければ、一体何人の人々が道に迷ったことだろう。
人生という名の長い道のりに。現実を見ろ、現実的に考えろ、この言葉がどれほどの愚か者を救ってきたというのか。
現実を見たり考えたりしなければ、人は必ず過ちを犯す。現実を知らなければ、人はいつまでたっても大人にはなれない。
そうか……だから琴乃さんは冗談が嫌いだったのかもしれない。冗談ってのは、言い換えてしまえば非現実的な話というわけだ。
常識から逸脱した馬鹿げた話。だから琴乃さんは嫌っているのかもしれない。それなのに、なんで……。
「私はね」と、言って僕の思考を遮るように、話し始める。
「確かに冗談が嫌いよ。そして嘘も。だってそうでしょう? そんな意味のない話に付き合わされるこっちの身にもなって欲しいわ、まったく」
「それなら、今の話しは冗談じゃないってことですか?」
琴乃さんかぶりをふって、僕の言葉を否定する。
「そういう問題じゃないのよ、私が話したいことは。いい? 結局ね、その話を冗談か嘘かを見極めるのは自分次第なのよ。自分がそう思えば、すべてはそうなる」
確かに。いくら嘘だと言われても、それを自分が本当だと思えば、それは自分の中では真実となる。
例えそれが、現実的に考えてあり得ないとしても。
「だからね、私は現実という言葉が嫌いなの。その言葉は、人に考えることを放棄させ、人の為すべきことを断念させるから。だってそうでしょう? もしかしたらあと一歩でつかみ取れる夢でさえも、現実を見ろ、たったそれだけの言葉で台無しよ?」
「じゃあ、そう言うなら琴乃さん。もし現実なんか考慮せずに、そのまま突っ走っていって、何も為せなかったら……その時はどうするんですか?」
よくある話だ。サッカー選手や野球選手、それを夢見て努力して、一生を捧げた人がみな報われるとは限らない。
その時になって初めて気づくはずだ。もっと現実を見ればよかったと。そして、自分に現実を見ろ、とちゃんと言ってくれなかった周りの人を恨むのだろう。
ここまで考えれば明白だ。現実という言葉がどれだけ重要な言葉か。果たして琴乃さんはこれをどう考える。
「どうするもなにも、その事実を受け止めるしかないわね。それが現実というものでしょ。夢を叶えることができなかった。それがその人にとっての現実。ただ実現するための才能や実力、それに運が足りなかった、それだけの話じゃない」
あっさりと言い放った琴乃さんに僕は驚いた。さっきまで夢だなんだと言っていたのに。
まるで子供が将来の夢を語る時のような、そんな顔をしていた琴乃さんの口から発せられた言葉とは、とても思えなかった。
夢を追い続けても叶えることのできなかった、そんな人への弔いの言葉とは思えない。酷く残酷な言葉だ。
「それだけ、で済ませられる話なんですかね?」
僕は夢を抱いたことがないから、夢破れた人の気持ちが分からない。けど、それでも琴乃さんの意見はあんまりじゃないか。
「何言ってるの? そんなの自己責任じゃない。あのねえ、夢を追うということは、それだけのリスクを伴うものなのよ。だいたい、そうやって失敗する人は、全て人のせいにしたがるものね。怪我、病気、貧困、それらすべてを他人に擦り付けたがるのよね」
お金がなくても成功する人はいる。怪我や病気を乗り越えて成功する人もいる。きっと琴乃さんはそう言いたいのだろう。
でも、結局はそれも綺麗事。当事者からすれば、お前に何が分かる、と言いたいところだろう。
「じゃあ、琴乃さんは……夢を今でも追い続けているんですか? それとも……」
僕の問いに間髪入れずに答えた。
「夢? 笑わせないで。私は夢なんてこの人生で一度も抱いたことはないわ」
何を言ってる? だってさっきまで、現実は嫌いだとか夢はどうだとか、散々語ってたじゃないか。
それなのに琴乃さんには夢がないだと?それこそ笑わせるなって話だ。
「じゃあ今までの話しは一体?」
イラついて聞くと、少しの間をおいて琴乃さんは答えた。
「そうねえ……三十路の戯言、かしら?」
この野郎……てっきりこの話には、なにか落ちでもあるのかと思っちまったじゃないか。まったく、時間の無駄遣いもいいところだ。
「勘弁してくださいよぉ……」
「でもね、渚」
僕の目をしっかりと見据えて琴乃さんはこう言った。
「私が言いたかったことは……夢とか現実とか、そんな下らないものに囚われてないで、自分らしく生きる、これが人生で一番大事なことだと思うわ。何かに一生懸命になることを悪い事だとは言わない。けど、何かを楽しみながら、自分らしく生きて、気づいた時には人生成功してました、ってほうがいいでしょう? 何事も楽しむことが肝心。分かった?」
「要するに、夢が叶うなんてのは……おまけに過ぎない、ってことですか?」
「まっ、そうとも言うかしら」
「じゃあ、最後に一つだけ……琴乃さんは人生楽しめてますか?」
自分でも何を言っているかと不思議に思ったが、どうしてもこれだけは聞きたかった。そして僕は、もう琴乃さんが言うことの予想はついていた。
「冗談は大概にしなさい。人生が楽しいわけがないでしょう?」
そう短い言葉で切り捨てるのであった。僕は今さらながら、この人のことが理解できた気がする。
きっと、琴乃さんとは嘘で固められた人間なのだということを。
そして同時に、琴乃さんの言う、三十路の戯言とやらが、いかなる意味をもっているのかも理解したのであった。
「先輩、結局店長との話はどうなったのかしら?」
琴乃さんとの話を終えた僕は、仕事を終えて店を出る時、加奈子にそう聞かれるのであった。
「ああ、見事にはぐらかされたよ」
「そう……それで、あなたはどうするつもり?」
「そうだな……」
いちよう考える素振りを見せたものの、僕の中ではもう答えは出ていた。
「明日まとめて、みんなに話そうと思う。僕が男だってことは。それで嫌われたりしたら、それまでだ。その時は潔くこの店をやめるさ」
加奈子は手で口を覆いながら、小さく笑う。そして、僕にこう言った。
「じゃあ、みんなに認めてもらえたら……どうするつもりなのかしら?」
加奈子のやつ。もう僕の返答なんて分かってるだろうに。けど、きっと僕の口からはっきりと聞きたいのだろう。いいさ。それなら言ってやろうじゃないか。
「そうだな、琴乃さんについていくのも悪くはない、かな」
「ふふ、随分と遠回しな言い方をするのね、先輩」
「ほっとけ」
加奈子の頭をわしゃわしゃとして、その綺麗に整った髪を乱してやった。すると、僕の期待通りの反応を見せる。
「や、やめなさい! は、反則よ! いきなり頭を触るなんて!」
加奈子は涙目になりながら髪をてぐしで直す。
「お前がそういう可愛い反応するのが悪いんだ、よっと」
必死に僕の頭に触ろうとする、加奈子のしょぼい攻撃を避ける。
身長差があり過ぎ、て決して僕の頭に届くはずがないのに、それでもどうにか仕返しを試みている。
「あら、あんたらいつの間にそんな仲良くなったの?」
店の奥からのそのそと出てきた琴乃さん。僕らの騒ぐ声を聞いて出てきたのだろう。
「こ、こんな女みたいな男と、仲良くするわけがないでしょう!?」
先に反応したのは加奈子だった。ほんとに酷い言い草だ。
「そうかよ。僕も加奈子みたいな気性の荒い女とは、仲良くしたくはないね」
もちろん冗談だ。仲良くどころか、僕の妹にしてやりたいぐらいだ。まあ、凛子という実妹いるけど。
「加奈子? ふふ、うふふ……。あらあら、もうそんな仲なのねえ? くれぐれも子供を身籠ったりしないよう、注意しなさいよ」
さすがにこれには僕も加奈子も反応できなかった。もはやドン引きだ。そんな僕らを気にすることなどなく、琴乃さんは店へと引っ込んでいった。
「……帰るか……」
「……そうね……」
やはり今日はいつもとは違う。夏の生ぬるい風が二人を冷やかすように、「さあ、歩け」と、後ろから囃し立てる。
いつもと同じ道なのに、隣に誰かがいるだけで、こんなにも世界は変わるのか。今日はいつもとやはり違う。
「なあ、加奈子?」
「なにかしら?」
「やっぱり僕は、どうも女装は好きになれない」
「好きだとしたら、それはそれで問題だわ」
まだ夏休みは始まったばかりだというのに、道端には一匹の蝉がひっくり返っていた。それを横目に、僕は加奈子にこう言った。
「けど――悪くはない。そう思えたよ」
並んで歩く二人の影が、今一つに重なっていく――