来栖家の日常
とある日曜日の朝。
「あんたさ、メイド服似あうよね」
リビングでテレビを見ていた僕は、唐突に妹に話しかけられた。今日は、両親ともに出かけているので家の中には妹と僕の二人きり。
”二人きり”という言葉の響きには、何とも言えない魅力があるが、その相手が妹となれば話は別だ。
「そうか?」
別段、妹と雑談したいわけではなく、むしろテレビを見ていたかったので素っ気なくそう言った。
すると、どうやらこの僕の態度が不服だったのか、ズンズンと大股でこちらへやってきて、こう言ってきたのだ。
「あんたさ、あたしに迷惑かけて、申し訳ないと思わないの?」
はあ? 迷惑? 一体いつの話しをしてるんだか。僕が原因で不登校になった件は、もうお互い和解したはずだ。それをまた、ほじくりかえすとは。
「それはもう終わった話だろ? 今さらとやかく言うんじゃねーよ」
冷たくあしらってやった。が、しかし。
「はあ? いつの話してるわけ? あたしが言ってるのは、昨日のことなんだけど?」
昨日のこと? 昨日は土曜日で、学校があって、バイトがあって……なんかしたっけ、僕? どうやら完全に記憶が欠落してるみたいだ。
怒られるのを覚悟して、僕は渋々聞いてみた。
「ごめん、昨日ってなんかあったっけ?」
妹はチッ、と舌打ちをして、虫けらでも見ているかのような、不快そうな顔をした。
「ほんと最っ低。あたしが昨日、あんたのためにお昼ご飯作ってあげた時、あんた自分がなんて言ったか覚えてないの?」
昨日の昼飯? ああ、そういえば昨日は、こいつが作ってくれたんだっけ。正直、あまり期待はしてなかったけど、予想に反して、意外と美味かった。
で、今、妹はそんな昨日のことでどうやら僕に文句があるようだ。
「悪い。全然覚えてない」
またまた妹はチッ、と舌打ちをする。僕の妹はいつからこんなに、悪態をつくようになったのか。
昔と今とでは完全に別人だ。あの頃の可愛い妹に戻って欲しい。切実に。
「『まじ助かった。今度なんでも、お前の言うこと聞いてやるよ』って言ったの、覚えてないの?」
ああ、今のは僕の真似だったのね。あんまりにも似てないもんだから、気づかなかった。
と、それはさておき、僕はそんなこと言ったのか。まったく記憶にない。僕の心には多少の違和感。
もしかしたら、妹の捏造かもしれない。ただ、そんなことを妹に言おうものなら何を言われることやら。ここは大人になって、おとなしくしていよう。
「そういえば……そんなこと、言ったような気がするな。ごめんごめん、すっかり忘れてたよ」
「別に良いけど。で、ほんと?」
「ほんと、って何が?」
「だから……ほんとにあたしの言うこと、何でも聞いてくれるのか、って聞いてんの」
こいつはほんとに、言葉足らずというかなんというか。なんでそうやって、端折って話をするのかねえ。
「ああ、いいぞ」
「ほんとのほんとに?」
「ほんとのほんとだ」
「やったぁ!」と言って、両手をバタバタとさせて子供のように喜ぶ妹。
こういうとこだけ見れば、昔となにも変わらないんだがな。僕は自然と笑顔になっていく。
「それで? お前は僕に、何をして欲しいんだ?」
どうせ大したことは、言ってこないだろう。そう高を括っていた。しかしそんな僕は、次の妹の発言によって一瞬にして凍りつくのであった。
「今日一日、メイド服着て。それからあたしのことは、ご主人様と呼ぶように」
狂ってる。僕の妹は狂ってる!
「どこの妹がお兄ちゃんのメイド姿で喜ぶってんだよ!?」
「あたしが喜ぶ。だから早くやれ」
ゴクリと喉を鳴らし、妹の発言の真意を測る。こいつは、僕のメイド姿がみたいんじゃない。きっと、僕を辱めたいだけだ。
くっ……まさか我が妹を、ご主人様と呼ぶ日がくるとは。
「そうすれば……お前の気が済むんだな?」
「そういうこと」
だが、詰めが甘かったな。不敵な笑みを浮かべる僕を見て、妹は怖気づく。
「な、なにニヤニヤしてんの? キモイんですけど……」
キモイ、か。もうその言葉にも慣れてきた。最初のほうこそ、キモイなんて言われるたびに、僕はひどく傷ついていたさ。
けど、しばらくまたこうして妹と話すようになって気がついたのさ。こいつにとってのキモイは「もう、お兄ちゃんったら」みたいな意味合いを持っているということにな。
そうと分かれば、恐るるに足らない。
「いやね、僕メイド服なんて一着も持ってないんだよ。だからさ、残念だけど、お前にメイド姿を見せることはできない。ごめんな」
勝った……僕は妹に勝ったぞ!
「じゃあ、あたしの学校の制服貸してあげるよ!」
……はい? 僕は耳を疑った。もしかしたら、耳くそがたまり過ぎてよく聞こえなかったのかもしれない。もう一度聞いてみよう。
「今なんて?」
「あたしの制服貸してあげる」
鼻っ柱に強烈な一撃でも食らったかのように、僕はふらふらと後退する。いや、慌てるにはまだ早い。
もう一度妹の言ったことを整理するんだ。あたしの学校の制服、つまり妹がいつも学校に着て行ってる、あの制服のことだろう。
そして、それを貸してくれる、そう言った。だがな、それは女物の制服なわけで、男の僕が着るものではない。
では何故、妹はそんなものを貸す、と言ったのか。
「なにトロトロしてんの? さっさと着替えて」
いつの間に持ってきていたのだろうか。妹の手には、制服があった。
「それ女用、僕男、オーケー?」
片言になってしまった。
「ふざけてないで約束守ってよ。ほら、これ着て」
「ふざけてんのはどっちだよ!? なんで兄である僕が、妹の制服なんか着なきゃなんないんだ!? 無理、絶対に着ないからな!? この変態が!」
「いいじゃん。どうせメイド姿は、あたしに見られてるんだから。制服もメイド服も大差ないじゃん」
やめろ。せっかくそのこと忘れかけてたのに。
「あのな、前にも言ったが僕は別に女装が好きなわけじゃないんだ。できれば、女装なんかしたくないとさえ思ってる。だからお前の要求は断固拒否だ。もっとまともなお願いしてくれ」
妹は頬を膨らませ、拗ねたような態度をとる。
「お兄ちゃん……ダメ?」
上目づかいで、僕の目を見つめる。その黒く、大きな瞳の中に、吸い込まれそうだ。
視線をそらそうにも、妹にくぎ付けになってしまい、それすらできない。
気がつけば、妹はソファーに座っていた僕の隣に腰を下ろし、じりじりと距離をつめていく。
「おにぃ……ちゃん? ダメ、かな?」
甘美な声を上げ、鼻と鼻が触れてしまいそうなほどに、二人の距離は近づいていく。
どんどん身体が硬直していくのが分かる。そして耳元で、息を吹きかけるように、こう言われた。
「あたし……お兄ちゃんのすべて、受け止めるよ」
いかん。いかんぞ、この雰囲気は。鼓動が高鳴り、こいつは妹だと言うのに、一人の女性として意識してしまっている自分がいる。
妹の髪が揺れるたびに、シャンプーと汗の匂いが混じりあった、甘酸っぱい匂いが、僕の鼻腔をくすぐる。
「や、やめろよ……凛子、ちょっと距離近い……」
やっとの思いで喉から言葉を紡ぎだす。依然として、妹は僕から離れようとはしない。
妹の右手が僕の頬に軽く触れ、わずかな温もりが伝わってきた。
「り……凛子……だめだ……こ、このままじゃ……」
異様な輝きを放つ真っ赤な唇が、徐々に徐々に接近する。
僕は瞳を閉じた。万事……休す。
「ぷぷ……な~にドギマギしちゃってんの? 妹相手に。まじきもいんですけど」
…………え?
「あっはっは! ちょっとそれっぽい態度とったら、すぐにこれだもんねえ? あ~やだやだ。これだから思春期の男は困る~」
僕……怒ってもいい?
「お……お前なあ……人をからかうのも……いい加減にしろ!」
「うわ、何怒っちゃってんの? まさか、あたしの態度、真に受けたんじゃないでしょーね?」
まあ確かに、こいつの胸はでかいし、スタイルだって悪くない。そして、そんな妹をわずかながらも意識してしまったのは事実だ。
けど、それを認めるのもなんだかしゃくだ。そういうわけで、ここは一つ僕は妹をバカにしてみることにした。
「んなわけあるか! 誰がお前みたいな、ちんちくりんに興味なんか持つかよ! そういうことは、もっと大人になってから言うんだな!」
「あ、あ、あたしだって、立派なレディーよ!? この身体を目にして、よくそんなふざけたこと言えるわね!? 節穴もいいところよ! ほんと、最っ低」
「最低なのはお前だろうが! 男心を弄びやがって……恥を知れ!」
「あれあれ? その言い草だと、やっぱりあたしに興奮してたってこと~?」
語尾を伸ばして、人を小ばかにするようなこのしゃべり方、気に入らない。やっぱりこいつは、僕とは相いれない存在なのだろう。
それにしても、墓穴を掘ったな。完全に僕が妹に欲情してた、みたいな雰囲気になってる。
もういっそのこと、肯定してしまおうか。
ふふ、ふふふ、はっはっはっは!
何だか楽しくなってきたぞ。この際妹を弄り倒してやろうじゃないか。
「ああ。お前すげえ可愛いから、つい、な」
妹はみるみるうちに、真っ白い肌を赤く染めていく。恥ずかしいのだろう、両手で顔をふさいで、僕から視線をそらそうとする。だがな、そうはいかない。まだまだ僕の心は、満たされてはいないぞ!
「顔隠すなよな、もっと見せてくれよ、その顔」
「ば、ばかじゃん!? なに言ってんの!? あ、あたしはあんたの妹なんだから!」
「そんなの関係ねえよ。お前が僕の妹だろうが、なんだろうが、そんなのはどうでもいい。なあ、凛子……僕……気づいちゃったんだ」
妹の両手を掴み、顔から引きはがしていく。抵抗する様子もなく、されるがままだ。
さっきまでのふてぶてしい態度は一変し、今は俯いて肩を震わせている。
このまま「僕はお前のことが好きだ」みたいなことを、冗談で言おうと思った。
けど、さすがにやりすぎたか。そう思った僕は手を放して、妹から離れようとした。
離れようとしたんだが、妹の顔を見た僕はその場で固まった。
「…………んっ…………」
え、ええ!? こいつなにやってんの!? そんな、そんな……。
説明しよう。何故僕が驚いてるのか。妹は両目をきつくつむって、うっとりとした表情で、何かを物欲しそうにしている。
もちろん、何か、というのは想像がつく。想像はつくんだが……ねえ? いくらなんでも、それはな。どうしたもんか。
ここは、ばれないように抜け出すしかなかろう。背徳感。まさしく僕の心を埋め尽くしているのは、この感情だ。
ごめん、凛子。後でしっかりお仕置きはうける、だから……ごめん。
そーっと、リビングを抜け出し、静かに階段を上り、自分の部屋へと避難する。
「ふぅ……なんとか、なったかな……」
ぽとり、と独り言をつぶやく。
いや……なんとかなってないのだろう。だって、僕の気配がなくなったのを察知したのか「あんのバカ兄貴! 知らないうちにいなくなってるし!」ってヒステリックおこしたみたいに怒ってるし。
「はぁ……何時間説教されることやら……」
この後の災難を想像すると、恐怖で身体が縮み上がる。
にしても、あいつは何で、あんな顔を僕に見せたのだろうか。もしかして、まんざらでもないのか?
いや、それはないか。妹は僕のせいで学校に行けなくなり、そして僕に劣等感を抱いている。
そんな僕のことを、妹が、その……なんだ。す、す、好きなわけ……ない。
うん。きっとあれは、妹が僕の悪ふざけに付き合ってくれたのだろう。
妹にからかわれて、兄が仕返しをした。たったそれだけのことだ。お互いに他意はない。
結局、いつまでたっても、僕らは子供のままで、兄妹のままなのだろう。
そう考えると、なんだか不思議と笑えてくる。そして、いつもながら、僕はこう思うのであった。こういう妹も悪くない、ってな。