番外編 もう戻れないあの土手の日
お久しぶりです。ごゆっくり
妹とどうにか和解できた僕は、やはり今日もいつもと変わらない穏やかな日々を過ごしていた。
「そろそろ秋服でも買いに行くかな」とか思ったので、とりあえず適当に服を引っ張り出して着替えることに。
これといって強いこだわりを持たない僕は、地元の服屋へと向かうことにした。
部屋を出てリビングに入り、お袋にその旨を伝える。
「ちょっと出掛けてくるわ」
テレビを観ていたお袋は、一瞥もくれることなく「はーい」と、気のない返事。まあいつもこんな感じなので、僕は気にすることなくリビングを出た。
使い古した靴を履き、さあ出掛けようと扉に手をかけたその瞬間、なにやら際どい視線に気がつく。
「……」
どういうつもりか分からないが、そこにはもの寂しそうな顔をしている妹の姿が。戦国時代の忍者のようにその身を隠し、わずかな隙間からこちらをガン見している。
だが人間とは不思議なもので、わずかながらの視線であっても、敏感に感じとることができるのだ。
第六感などというのは簡単には信じがたいが、多少は信用できるのかもしれないな。
「なに見てんだよ?」
僕にばれるとは思っていなかったのか、大きな驚きの声をあげるのであった。
「うわ! なんで分かったの!?」
「アホか。こんだけガン見されれば誰でも気づきそうなもんだろ」
ばれてしまっては仕方がない。妹はばつの悪そうに頬を膨らませながら、スタスタと僕のほうへと歩いてくる。
「それで? お前は一体なにしてたの?」
あっちこっちと目を泳がせている妹を見てもなお、僕にはさっばり妹の目的が分からない。
一番可能性がありそうなのは、僕に対するお願い事だろうか。妹は昔からなにかを僕に頼む時は、いつもこうしてオドオドとしていたっけ。
確かに古き良き昔の妹は、ある程度の常識を弁えていたさ。人に何かを頼むということは、それなりに相手に迷惑をかけてしまうものだから、その辺を考慮して躊躇うのは頷ける。
けれど、今の古くも良くもない妹は、そんなことなど気にするわけがない。ざっと最近の記憶を思い返してみても、やはり妹の行動は無神経そのものだ。
顎をくいと動かして、さっさと話せと合図を送る。
「ど、どこに行くのかなーって思ってさ……」
「お前には関係ない」
「ハァ!? その言い方はないでしょ!?」
うお、いきなりキレたぞこいつ。
まだ午前中だというのに、夕陽のごとく顔を真っ赤にさせてご立腹な様子の妹。そんな妹を落ち着かせるべく、できるだけ優しくも愛のこもった声で宥めることにした。
「はいはい。凛子ちゃん、怒っちゃだめですよー? ほら、あめ玉あげるから」
「子供扱いすんなっ!」
流石にこれでは腹の虫はおさまらないようで、むしろさっきよりも機嫌が悪くなってしまった。包みに入ったあめ玉をズボンのポケットの奥へと仕舞い、次なる作戦を考える。
「ちょ、ちょっと……なんなのこの右手は……?」
妹の頭に右手を添えて、わしゃわしゃと撫で回してみるも効果なし。昼に食べるはずだったお弁当の中身をぶちまけてしまった時のように、とてつもなく悲しげな表情ときたもんだ。
なにがダメだというのか……。
僕はありとあらゆる手を尽くした。それでもまだ不満顔である。
「はあ……お前意味わかんないわ……」
「あんたのほうが意味わかんないんですけど!? あのさぁ……さっきからの奇行はなんなの……?」
いやいや、奇行とはまた酷い言い草だな。
「お前の機嫌を取ろうとしてただけだ」
「頭大丈夫?」
「頭は大丈夫だけど心はダメみたい」
だってさ、一生懸命可愛い妹のために奮闘してたのに、その見返りが「頭大丈夫?」だぞ?
そんなものは見返りでもなんでもない。単なる言葉の暴力だ。
「もういい。あんたがどうしようもない鈍感だってことは知ってたけど、まさかこれ程とはね。もう一種の病気よね」
僕が鈍感だって?
バカ言え。そんなはずがない。
「失礼なやつだ」
「あんたもね」
もう、凛子ったらああ言えばこう言うんだから!
そんなに屁理屈ばかり言ってると、お兄ちゃん怒っちゃうぞ?
ぷんぷん。
……いや、違うんだ。
いよいよ僕の頭がおかしくなったとかそういうことではない。現実という名の怪物からちょっとばかし目をそらしていただけだ。簡単に言ってしまえば、現実逃避である。
「もう頼むから僕の心をこれ以上痛めつけないでくれ……」
百年戦争にでも勝利したみたいに、妹はこれでもかというほど勝ち誇った顔をした。そしてまた、そんな妹を前にして何故だかどっと悔しさの波が押し寄せてくる。
「べ、別にあたしはそんなつもりじゃないから。あたしはただ、あんたとどっか行こうかなって思っただけだし……」
どこぞの売れないギャルゲーのツンデレキャラだよ、とか思ったが、まあそれはいいとして。
「だったら最初からそう言えよ……」
僕から良い子のみんなに伝えたいことがある。言いたいことはハッキリ言おうね、と。
「だってあんたが『お前には関係ない』とか言うからでしょ! バカ!」
相変わらず僕の声真似は上達していないようだ。それにしても、バカだなんだと言われ続けてきたもんだから、もう今さらそう言われても何も感じない。慣れとは怖いものだな。
「はいはい、悪かったよ。それで、僕はこれから買い物に行くつもりなんだけど、お前も来る?」
正直に言ってしまえば、妹を連れて買い物になんて行きたくはない。でも、ああ言われてしまった手前、そうせざるを得ないだろう。
実に見上げたお兄ちゃんだな、僕は。
散々妹に罵倒されてもなお、怒ったりせずに優しく扱ってやっているのだから。
それはいいとして、せっかく買い物に誘ってやったというのに、どこか不満げな顔をしている妹。しばらく黙って様子を見ていると「ちょっと待ってて」とだけ言い残して部屋のほうへと行ってしまった。
恐らく着替えに向かったのだろうけど、女の着替えは途轍もなく時間がかかるものだ。
「あと何分かかることやら……」
三十分は待たせられる覚悟を決めた僕は、ふと昔のことを思い出した。昔のことと言っても、今から二、三ヶ月ほど前のことだ。
あれは加奈子と土手に遊びに行った時のこと。加奈子とデートできることが嬉しくて堪らなかった僕は、待っている間もずっとニヤニヤしていたっけ。
それで通行人に、きもいだのなんだの言われても、そんなことはどうでもよくて、とにかく加奈子が来るのを心待ちにしていたんだ。
そしていよいよ加奈子がやって来た。
服装は白いブラウスに黒いスカート、実に見事に似合っていた。それでボーっと見惚れていると、加奈子に注意されたんだ。女の子とデートする時は、まず初めに服装を褒めろとな。
言われるがままに服装を褒めたが、加奈子はそれでもやはり不服そうだった。
もっと他に言うことがあるんじゃないの、とか言われて、あの時の僕はさっぱりその言葉の意味が分からずにいた。
「お、凛子、早いな」
「ま、まあね。あんたを待たせるわけにはいかないし」
「そうか。にしても、その服装似合ってるぞ?」
妹はタイトなスカートを穿きこなし、上にはジージャンを羽織っている。加奈子とはまったくもってセンスが違うな。
妹はそっぽを向いて言う。
「はいはい。そんなことより、もっと他に言うことあるんじゃないの?」
あの時と同じだな……。
けど、今の僕には分かる。何て声をかけてあげればいいのか。普通の男ならすぐに気づきそなものなんだけど、どうしてあの時は気づかなかったんだろうな。
もしかしたら、僕は妹の言う通り鈍感なのかもしれない。
妹の顔を見つめながら、僕は優しく言葉を投げかけた。
「凛子、やっぱ今日のお前も、可愛いよ――」