放課後、屋上、そして加奈子。
いつもと比べて目覚めがよく、気分はルンルン超ハッピー! とはいかない。今日ばかりは学校に行きたいとはとても思えないのだ。
というのも、昨日のメールが気になってしまって、寝不足ではないもののどうにも身体が重たい。
特にこれといって加奈子に何かをした覚えはないので、というか何もしていないからこそ、僕は一体何を言われるのかとビクビクしているわけだ。
悪い事などしていないのに、職員室から呼び出されるあの感覚に似ている。そして、気乗りしないまま先生のもとに行ってみると、なんてことはない用事だったする。
だが、それとこれとでは事情が違う。呼び出し人は加奈子であって先生ではなく、また職員室ではなく屋上だ。どうにも嫌な予感がしてならない。
せめてもの救いとしては、屋上というあまり人がいないロケーションを選択してきたこと。人目が少なければ、もし万が一緊急事態が起きても、まわりの目を気にすることなく土下座できる。
そう……僕はもはや、説教でもされるものとして覚悟を決めているのだ。
「行ってきます……」
誰に言うでもなく、一人事務的な挨拶を終えてから、僕はいつもり少しだけ早い登校を開始するのであった。
「よう! 今日はいつにもまして顔色が悪いな?」
後ろからいきなり声をかけられ、思わずびっくりする、ということはない。もう恒例行事となりつつあった向坂との朝のやりとりを、僕は適当に相づちを打つことでやり過ごす。
「そうか……? もしもお前の目には僕がそう映ってるのなら、それはきっとお前の心が汚れてるからだ」
「いやいや、俺のせいにすんなよ。少なくとも、俺はお前よりかは純粋な心を持ち合わせてるつもりなんだが?」
向坂は親指を僕の顔へと突き出して、朝から不愉快この上ない爽やかスマイルをしてみせた。
僕はそんな向坂を尻目にして、とりあえず一発殴ることにした。
「はは! お前の考えはお見通しだ! どうせこうなるだろうと予測していたのさ!」
華麗な右ストレートをお見舞いするつもりが、難なく向坂にガードされた。やる気が削がれた僕は、これ以上の不毛な争いはやめて黙って歩くことに専念する。
「それで、なんか今日のお前はいつもにましてカリカリしてないか? まさか生理? とうとう女として生きていくことに決めたとか?」
「もしそうだとしたら……どうする?」
「俺と付き合ってくれ!」
こいつやばい。何がやばいって? それはもうだって……うわ、もうそれすら言うのが面倒なほどやばいでしょ。
それにしても、僕の脳内では“付き合って”ではなくて“突き合って”と聞こえてしまったあたり、どうやらクラスの腐女子の影響を受けつつあるようだ。
「お前とはもう絶交だから」
「おいおい、さすがに冗談だって。お前が女にジョブチェンジしようと、俺はお前を女としては認めねえよ」
それもうジョブチェンジじゃなくて転生するレベルの話しだろ。
「ほんとお前ってつまんねえ冗談しか言えないんだな? いつまで経っても彼女できないのも頷ける」
こいつは見てくれこそ完璧ではあるが、中身がどうにもお粗末なようでして、そんなわけだから彼女などできるはずもなく、状況的には非リア充の僕と大して変わらない。
まあ、何をもってリア充だと判断するのかはよく分からないが、大きな決め手となるのはやはり、彼女の有無なのではないだろうか。
向坂はカバンをぶんぶん振り回しながら、僕にこう言った。
「彼女なんて必要ないって。男友達と遊んだり、部活で汗を流したりすんのだって十分にリア充だろ? だいたい、そんな目先のことばかりに囚われているようじゃ、いつまでたっても人生は楽しめないっての」
こいつたまにはいいこと言うじゃねえか。その意見にはなかなか賛同できる。
TwitterやらFacebookやらで、あたし今めっちゃリアルが充実してます! みたいなことをわざわざ書き込む輩がいるが、そんなものいちいち報告すんじゃねえと僕は思う。
そんなものは報告する必要もなければ、こっちとしても知りたくもない。嫌なら見るなのルールにしたがって、僕はそういうソーシャルネットワーキングみたいなのは一切やらないようにしている。
やらなくてもまったく困らないし、むしろやらないほうがいいのではと思うほどだ。あんなものは虚勢の張り合いであって、何一つ面白みを感じない。
つまりだな、向坂の言った通り目の前の事柄ばかりに気をとられているようじゃ、人生は酷く退屈なものになってしまうのだ。
なにもそういうものの批判だけをしているのではなく、良い点だってあるだろう。互いに共通の趣味をもったネット上の友人をつくることだって出来るし、活動範囲だって広がるはず。
結局のところ、どう活用していくかがカギなのである。
「……」
不意に向坂を見てみれば、これ以上は特に話すことはないようで黙って歩いている。それに便乗して僕も黙々と歩くことにした。しばらく無言で歩いていると学校に到着し、そのまま僕らは教室へと向かった。
さて、いつものごとくざわついている教室の中僕は、一人退屈な時間を過ごすことに没頭するのであった。
流れ作業のように授業を受け終えて、僕はホームルームでの担任の先生の話をこれまた聞き流す。いつもいつも同じような話ばかりするので、正直に言ってしまえばうざい。
そうは言っても無視して帰るわけにはいかないので、僕の目の前に座る女子生徒の首筋を、嘗め回すような視線で見つめていることにした。
だって、それぐらいしかやることないじゃん?
さすがにこの位置からではパンツも見えないし、時期的にブラウス一枚で過ごす生徒もおらず、透けブラを拝める機会も皆無のこの状況ではそれぐらいしかやることはなかろうに。
ああ、やっぱりポニーテール最高だわ。うなじがよく見える。
それだけではなく「どんなゴムで髪をしばってるのかな」とか「髪を下ろしたらどんな感じになるんだろう」とか、想像力の働く限りでは無限大に楽しめるのだ。
視線を外して隣のボブの女の子を見て、こいつはまったく分かってない、とひとりでに批評をしていると、長らく続いた担任の話しが終了した。
やる気のない号令を皮切りにして、生徒はパラパラと帰宅していく。これからどこに遊びに行くかの相談や、部活の先輩の愚痴を言っていたりと実に様々である。
そして僕はと言えば、昨日のメールで指示された通り、屋上へと向かうのであった。
生徒にとって掃除は苦行であるはずだが、何故か楽しそうにモップをかけているやつを横目にして、僕は階段を上っていく。
屋上まで続く階段では、カップルがいちゃこらしていたり、ヤンキーっぽい複数の生徒が爆笑していたり、まあいわゆるこの学校の生徒たちにとっての憩いの場と化しているわけだ。
それはきっと、この学校には中庭などというお洒落な場所がないことが原因なのだろう。
校庭も狭いし食堂も狭いし校舎も狭いときたもんだ。都内の高校はどこも土地がないのでこんなものだとは思うが、それにしてもやはり納得がいかない。
こうにも学校が小さいと、ボッチである僕にとっての気の休まる空間がないのだから。
どこもかしこも人で溢れ、仕方がないから教室に居続けるしかない。
何がバラの高校生活だよ、と一人悪態をつく僕。そして気づいた時には屋上に到着してしまった。
この扉を開けた先に加奈子が待ち構えていると思うと、どうにも足が竦んでしまう。
ラスボスとの戦闘を前にした勇者のようにはいかず、僕はひたすらビクビクするのであった。
「……よし」
ようやく決心した僕は、ゆっくりと鉄の扉を開いていく。徐々に夕暮れの陽射しが僕の顔を照らしていき、半分ほど開いたところで一気に開け放つ。
「……」
すると、いつの日か向坂と二人で話したベンチに加奈子は腰掛けていて、こちらに気が付くと手招きをした。
「悪い、待った?」
あくまでも冷静を装う僕であったが、どうやらそんなことする必要はないようで、加奈子の表情からは怒りのようなものは一切感じられない。
ふう、と軽く息をついて安心した僕は、とりあえず加奈子をもう少し観察することにした。
「いいえ、平気よ」
「そ、そうか……」
長く垂れ下がった髪の毛を一度耳にかけてから、加奈子は話を始めた。
「話は聞いたわ。あなた、妹に酷いことを言ったそうね?」
どきんと心臓が撥ねあがる。早く弁明しなくてはと思ったが、そんなことをしたところで意味がないことにすぐに気づいた。
加奈子は僕の妹から話を聞いたわけで、それが全てだと思っているに違いない。だから僕が今さらああだこうだと言ったところで、事態は何も変わらないだろう。
「ああ、そうだ……。それにしても、なんで凛子はお前にそんな話をしたんだ?」
加奈子は糸のように目を細めて呆れた口ぶりで言う。
「はあ……、あなたはもう妹の気持ちを知ったのでしょう? だったら分かりそうなものだけれど」
「いや、全然分かんない」
「そう、もういいわ。要するにね、あなたの妹は兄であるあなたのことが好きになった。けれどその意中の兄は他の女、というか私のことだけれど、その女のことが好きだと分かった。だから妹は、私に電話をしてきたのよ」
僕の頭が悪いのだろうか、さっぱり話が分からない。
いったん整理しよう。
凛子は僕のことが好き。だけど僕は加奈子のことが好き。だから凛子は加奈子に電話をした。
いや、全然意味分かんないんですけど。
「なんであいつはお前に電話したの?」
そう、ここだよここ。
電話する意味が分からない。
「嫉妬よ、嫉妬。あなたの妹風に言うなら、『あたしのお兄ちゃんに手を出さないでよね!』といった感じかしら」
こいつは驚いた。まさか加奈子がこんなにも甘ったるい声を出せるとは。なんていうか、ギャップ萌えってやつ? 不覚にも非常にときめいたしまった。
「じゃあさ、もう一つ質問してもいいか?」
今さらになって妹の真似をしたことを恥じているのか、加奈子はばつの悪そうな顔をしていた。
「な、なにかしら?」
「そもそもさ、なんで凛子は、僕が加奈子のこと好きだって知ったわけ?」
「す、好き!?」
何故か異常に“好き”という単語に反応した加奈子。そんな加奈子を見て、僕までもがその勢いにのまれ、互いにもじもじとする羽目に。
「そ、そうだよ……」
「あ、ええ……ええっと、それは……その……」
加奈子はごにょごにょと小さな声でなにかを言った。しかし、僕の耳が遠いとかそんなんじゃなくて、普通に聞こえなかったため、再度聞き返すことにした。
「なんだって?」
「だ、だからその……わ、私が凛子に自慢したから……かしら?」
自慢? もしかして、あのぴゅあラブで加奈子の親父さんとやりあった時のことを?
いやいや、なんで?
ていうか、もしそうだとしたら、妹と僕の間に亀裂が入ったのって完全に加奈子のせいじゃん。
「お前なぁ……」
「ご、ごめんなさい……だって私、凛子があなたのことを好きだとは知らなかったんだもの」
「ま、まあそれはそうだろうさ。僕らは兄妹なんだから、そう考えるのが普通だ」
「で、でも、私男性に告白されるのは初めてだったものだから、つい勢い余って、という感じで……」
いつになく落ち込んでいる加奈子を見て、もはや怒りなどは感じられず、むしろ可哀想に思えてきた。
そしてここにきてようやく、加奈子が僕を呼び出した理由が分かった。
「もういいよ、お前は何も悪くないって。それで、もしかしたらだけど、お前が僕を呼び出した理由って……」
申し訳なさそうに項垂れながら、上目づかいで僕を見た。
「謝罪しようと思ったのよ……あなたたち二人の関係を壊してしまったことを……」
やっぱり。
にしても、僕と妹の関係はもうどうしようもないとして、加奈子と妹の関係はどうなんだろうか。
「加奈子さ、凛子とはその後、特に不仲になったりはしてないの?」
「そうね。不思議だけれど、まったくもってそういうことはないわ」
「ならよかった。凛子って友達少ないみたいだからさ、加奈子と仲悪くなったら可哀想じゃん?」
「あなたって人はいったいどこまで妹想いなの? はあ……凛子があなたを好きになってしまったのも頷けるわ」
「どこのお兄ちゃんもこんなもんだろ?」
「いえ、あなたの妹への愛情は異常よ。下手したら、あなたが妹のことを女性として好きなんじゃないかと思うほどに」
「んなことねえよ」
一瞬でも「もしかしたら僕は凛子のことが好きなのかも?」と思ってしまった自分が恨めしい。
それにしても、もう加奈子は僕に謝ったわけだし用事は済んだってことだ。
なら、僕としても本題に入らせてもらおうか。
「なあ加奈子、ちょっと大事な話があるんだけど」
僕の表情を確認し、これから話すことが重要なことだと理解した加奈子は、唇をかたく結んでじっと次の言葉を待つ。
こんなタイミングで言うべきものなのか疑問ではあるが、だけどこの二人きりというチャンスを逃したら、永遠に告白できないような気がしたんだ。
僕は何度も深呼吸を繰り返し、決して視線をそらすことなく言った。
「僕は加奈子が好きだ。いつもいつもお前の事考えてばっかだし、もうほんと頭ん中はそればっかり。今日は加奈子とこんな話をしたとか、あの時こんな表情をしてたな、とか。とにかくもう、大好きなんだ!」
そこまで言ったところで、加奈子は必死に僕から目をそらさないように耐えていた。恥ずかしさから今にも逃げてしまいたいと顔に書いてあるようで、ますますそんな加奈子が愛おしく思える。
「女の人と付き合ったことなんてないし、だいたい僕自身が女みたいで、なんていうか凄く頼りないと思う……。だけど、だけど! どうか僕と付き合ってくれ! 僕は加奈子が大好きだ!!」
「……」
僕の気持ちを全て告げると、加奈子はいきいなりしゃがみ込む。両手で顔を隠しながら、なにやら意味の分からない動作をあたふたと繰り返していた。
「わわわわ……」
前にも一度、こんなことがあったな。
土手にデートをしに行ったときも、確かこんなことがあったはず。
「加奈子、返事を……聞かせてくれないか……?」
答えを聞こうと促すと、突然僕の身体に飛びこんできた。
「お、おい……? どうした……?」
「う、うるさい……少し黙っていなさい……」
顔を僕の胸元に埋めているので、いまいち表情が分からない。けど、夕焼けに負けないぐらい、耳が真っ赤に染まり上がっているので、照れていることは間違いない。
ほんとにこいつは恥ずかしがりだ。いつもは女王然としているが、それは恐らく照れ隠しなのかもしれない。
ほら、よく言うだろ? 愛情はなんとかの裏返しって。
やがて加奈子は顔を上げ、それから綺麗な瞳で僕を見つめる。その瞳を見ていると、どうにもそのまま吸い込まれてしまいそう。
「な、なにをボーっとしているの……? ま、まさか私が抱きしめたからって、喜んでいるのではないでしょうね……?」
「嬉しいに決まってるだろ? なんだ? 喜んじゃだめなの?」
「いいえ……そうじゃないわ。この程度のことで、喜んでもらっては困るわ……」
「なんだよこの程度って? まさかお前キス――」
つま先立ちで懸命に背伸びをした加奈子は、目を閉じたまま寸分違わず唇と唇を重ねた。
いきなりの加奈子の行動に驚くも、それはわずかのこと。
加奈子の息遣いを近くに感じながら、僕もゆっくりと目を閉じた。
唇がこんなにも柔らかいものなのだとは知らなかった。少しだけ柑橘系の味がして、それでもって温かい。
一度僕たちは離れてから、再びお互いに求め合う。
僕は前屈みになり、加奈子の顔に顔を近づけ、加奈子の唇に唇をつけた。半開きだった唇が大きく開き、彼女の柔らかい舌が僕の口の中へと入ってきた。
二度目のキスは、さっきよりも良い香りがする。無意識のうちに僕は舌を動かしていて、加奈子もその動きに応えていた。言葉を交わす代わりに二人は互いを舌で確かめあう。
まるでここだけ時間が止まったかのような、そんな感覚。
夕焼けチャイムを聞き流しながら、僕らはそのまま恋人同士のように抱き合ってキスをするのであった