表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/27

飼い犬に手を噛まれるとはよく言ったものだわ

気持ちの良い風を顔一杯に受け止めて、リズムよく両足を前に進めていく。

これからいいことがあるわけではない。ただたんにバイト先へと向かっているだけ。

ちょっと前までは、バイトが嫌で嫌で仕方がなかった。けどそれも昔のこと。

今となっては、ちょっとばかしではあるが、楽しみになりつつあった。


女装して接客するのが楽しいなんてのは、正気の沙汰ではないのかもしれない。

だけど、こんな経験はなかなかできるものではない。それに加えて、バイト仲間も良い人ばかり。


僕が男だと分かっても、気持ち悪がったり、軽蔑してきたりしない。むしろ、今まで以上に可愛がってくれさえする。そんな最低だけど最高のバイトは他にない。


そうだな、僕は胸を張ってこう言いたい。「ビバ、メイド喫茶! ビバ、男の娘!」とな。


と、これじゃあまるで、僕が女装愛好家みたいだ。

違う違う、好きではないんだ。そうじゃなくて、女装とは一種の芸術のようなもの。


僕の全てを表現すべく、僕はバイトしている時にだけ男の娘となる。

くどいようだが、普段はそんなことは決してしない。


いつの日か向坂に言われたことがあったっけ。何故お前は部活をしないのか、と。

そう聞かれたあの時、僕は言い淀んでしまった。


けど、もう答えなんて決まっている。

僕はバイトが楽しいから、部活なんてやらないんだ。


「琴乃さん、こんにちは」


あれこれと考えているうちに、気づけばもうぴゅあラブに到着。

中に入ればいつものように、琴乃さんが温かく迎えて――


「渚、あたしの分のコーヒー淹れておいて」


……そんなことなかったわ。

だいたい、この人が僕に優しくしてくれた試しがない。

それは今日だって例外ではない。これじゃあまるで、僕は本物のメイドみたいじゃないか。

コーヒーなんて自分で淹れろよ。僕はあんたのお世話するためにここにいるんじゃないっての。


気怠そうに雑誌を読んでいる琴乃さんに、僕はとりあえず一言。


「嫌です」


はい、よくできました。嫌なことは嫌だと言わなきゃだめだ。言いたいことも言えないようじゃ、この厳しい世界はやっていけませんから。


「嫌よ」


いやいや、何故あんたが拒否する。僕が嫌だといって、あんたはそれを嫌だという。

ああ、なんだか頭が混乱するような話だが、とりあえずもう一言。


「だから、僕は琴乃さんのためにコーヒーなんて淹れたくないです」


ここまで言えば、さすがの琴乃さんでも諦めるだろう。


「だから、それを嫌だと言ったんだけど?」


さすがは三十路独身。自分の過ちを認めない。様々な苦い体験から人生のノウハウを培い、その挙句に辿りついたのは強情さ。


うかうかしていたら男に逃げられ、結婚できずに人生終了。そうならないためにも、常に自分の我がままを押し通し、都合のいいようにことを進める。


しかし悲しいかな、そんな女になど男が寄り付くはずもなく、結局のところ事態は悪化するのみ。


男を欲するが故に傲慢になったはいいが、皮肉なことに、それでは男は逃げていく。

負のスパイラルとはこのことだ。


「ちょっと? なにそのポーズ?」


気づいた時には、僕は両手を合わせて合掌していた。

だって、あまりにも不憫なんだもん。


「チーン……」


「あたしはまだ死んでないんだけど……?」


それは違う。あなたはもう……あなたの心は既に死んでいる。


「あ、僕コーヒー淹れてきます」


「え、ええ……ありがとう……」


口を開いて間抜けな顔した琴乃さんを背にして、僕はコーヒーを淹れるべくキッチンへ向かった。

どうして気変わりしたのか、まあそれは言うまでもないことだ。

一人暮らしの息子が、久しぶりに実家に帰ってきて親孝行染みたことするように、まさしく僕は三十路孝行するわけだ。


インスタントのコーヒーを作り、砂糖もミルクも入れずに持って行く。

琴乃さんはいつもブラックを好むのだが、きっと、琴乃さんにとってコーヒーとは人生そのものなのだろう。


とても苦くて、だけども温かい、コーヒーとはあの人にとって人生だ。


「お待たせしました」


女王様然として座る琴乃さんの前に、ゆっくりとコーヒーを置いて献上する。

僕の優しさに当惑したのか、落ち着かない様子である。


「あ、ありがとう」


「いえ、これぐらいどうってことないですよ」


そう、どうってことなどないのだ。

そうだな……これからは、コーヒーぐらいは淹れてあげてもいいかも。


「それじゃあ、僕着替えてきます」


「いってらっしゃい……」


ズズッと一口啜った琴乃さんを横目に、僕はトイレへと着替えに向かった。


フリフリしたスカートの袖を軽く叩いて、付いていた埃を払う。

鏡の前で顔を確認。続いて笑顔の練習。よし、完璧だ。


あと少しで開店するので、僕は急いで準備に取り掛かる。

椅子がきちんと並んでいるか、机に汚れは残っていないか、これらを確認する作業は簡単に見えるものの、割と重要だったりする。


そうした取りこぼし一つで、店の信用はガタ落ちになるのだから。


「はーい、みんな? お店開けるわよー」


琴乃さんは店の奥から顔を出し、締まりのない声で言う。

僕はメイドに集合をかけ、円の形になったのを見計らい一斉に掛け声をかけていく。


「ぴゅあラブ~~~」


僕は大きな声を張り上げながら、周りをぐるりと見渡す。

全員いることを確認し、それから大きく万歳。


「「ナンバーワン!」」


ほんとこのダサい掛け声どうにかならないのかな。

もうさすがに恥ずかしいとは思わないが、入った当初はそれはもう嫌だったね。


少し昔のことを思いだし、懐かしい気持ちが押し寄せる。

そうだな、過去の自分に言ってあげたいものだ。ぴゅあラブのバイト、最高だってことを。


開店してから少し経つと、今日初めてのお客さんが登場する。


「「お帰りなさいませ、ご主人様!」」


姿勢よく背中を曲げて、最大限の敬意を払う。

ちらりとお客さんの顔を見れば、どうやら初来店のようだ。


「あ、えっと、渚ちゃんって人は今日いますか……?」


決まりに決まって初めての人は、いつもだいたいこんな感じだ。

オドオドしていて、どこか落ち着かないような顔をする。


だが、ここが僕の腕の見せ所だ。きっと噂を聞きつけて、わざわざここまで足を運んでくれたのだろう。

その思いを無碍にはしないよう、精一杯のおもてなしで迎え入れてあげようじゃないか。


「はーい、僕が渚ですっ! それではお席へご案内しま~すっ!」


何事も吹っ切ることが大事なのだ。普段は決してこんな喋り方はしないが、こんな時ぐらいはこうしてみるのも悪くはないと思うんだよね。


「こちらへどうぞっ!」


「あ、ああ、ありがとう……」


うーむ、どうにもまだ緊張がほぐれていないようだ。


「呼び方のオーダーはどうしますかっ?」


出来るだけ甘ったるい声でこの男に話しかける。

低い声より高い声の方が、相手は緊張感を感じにくいんじゃないかと思ってな。


「ああ、ええと、ご主人様でいいです……」


で、だと? おいおい、そんな妥協されちゃあ困りますぜ、お客さん。

僕は男の耳元で小さく囁く。


「下の名前……教えてもらってもいいですか……?」


なにやらビックリしたようで、目を真ん丸にして僕を見つめる。


「たくや、ですけど……?」


よしよし、たくやか。さすがにそのまま本名で呼ぶのはまずいから、あだ名でもつけて呼んでやろう。

そうだなぁ……たくちゃん、たくたく、いや、たっくんだ!


これは素晴らしいではないか。我ながら自分のセンスに脱帽したよ。


「たっくん、って呼んでもいいですかっ?」


「な、何故私の昔のあだ名を知っている……!?」


いや知らないよ、あんたの昔のことなんて。

けどまあ、これはかなりいい線いってるんじゃないか?

だって、こんなにも嬉しそうな顔してるじゃん。間違いなく大成功だ。


「たっくん、で、いいですよねっ?」


「ももももももちろんですとも! いやはや、なんだか昔を思い出しますな! これでも私には、学生時代には彼女がいましてね、いやあ、その当時の彼女も私をたっくんと呼んでいたんですよ!」


いきなりキャラ変わったな、おい。その上どうでもいい思い出を語り始める始末。

このままでは話し込まれると思った僕は、適当に話を変えてみる。


「そうなんですかっ!? それじゃあ今日は、そんな昔の彼女さんに負けないように、頑張りますっ!」


そうそう、当たり前っちゃ当たり前だけど、基本なんでもオーバーリアクションすることが大切だ。


しょうもない話をふられても、とにかく出来る限りの反応をするんだ。

そうすると、だいたいのお客さんは気を良くして、一気に距離感が縮まるのさ。


「うんうん、是非ともそうしてくれたまえ!」


「それでは、ご注文が決まりましたら、渚ちゃ~んって呼んで下さいっ!」


「はいはい、それじゃしばらくメニュー見てるよ」


ぺこりと一礼してから僕は戻る。どうもまだ他のお客さんは来ていないようで、他のメイドたちは暇そうだ。

あくびをする者や、メイドどうしでおしゃべりする者、僕はそんなメイドたちを見て一喝いれてやろうと構えるも――


「渚ちゃん、注文してもいいかい?」


なんて空気の読めないやつなんだ。いや、これはむしろその逆か。空気を読んだ結果がこれなのだろう。


「はーい、少々お待ちくださーい!」


仕方がないので、注意するのは後回しにして、僕は急いで注文を聞きに行く。


「それじゃあ、このメイド特性オムライスとアイスティーちょうだい」


「かしこまりましたっ! たっくん、料理が出来るまで、もう少しだけ待っててねっ? 我慢できないからって、覗きにきたりしたらダメなんだからねっ?」


「はは、そんなことはしないよ! いやあ、思い出すね、当時の彼女と同じようなこと言うものだから」


こいつほんとに彼女いたのかぁ……? さっきから都合よすぎだろ。こんな偶然が何度もあってたまるものか。

これじゃあまるで、僕とこの男が運命で結ばれてるみたいじゃないか。


ああ、なんだか寒気がしてきたぞ……。


とりあえず僕は、あのレトルトのオムライスをレンジでチンして、買いだめしてあるアイスティーのペットボトルをグラスに注ぐ。


あと三分ほど待てば出来上がり。先に飲み物を届けようと、僕がグラスを掴んだその瞬間、いきなり大声が響き渡った。


「何故あなたがこの店にいるの!? 冷やかしなら帰ってちょうだい!」


何が起きたのかと様子を見に行けば、そこには怒りをあらわにした加奈子の姿と、そんな加奈子に怯えているあの男の姿が。


いまいち状況が理解できなかったものの、僕は急いで駆け寄ることにした。


「ど、そうしたんだよ加奈子……? 何があった?」


お客さんの前で素に戻るわけにはいかないので、僕は声を潜めてそう聞いた。


「この人のせいで……この人のせいで……私の家族は……」


この人……? 家族……? 

涙を流すまいと、歯を食いしばりながら耐える加奈子を目にし、僕は思った。

推測ではあるが、この男は加奈子の父親なんじゃないか、と。

そうでなければ、加奈子がここまで感情をさらけ出すはずがない。


遊び呆けて借金を踏み倒し、家族に多大なる迷惑をかけたというあの加奈子の父親が、もしこの男と同一人物であるならば、果たして僕はどうするのだろう。


他人事とはいえ、加奈子は僕が少なからずの好意を抱いている女性だ。

その加奈子にとっての、いわば仇とも言える存在を前にしてもなお、僕は冷静でいられるのだろうか。


恐らくそれは無理。文句の一言や二言と言わずに、三言とも四言ともぶつけてやりたいぐらいだ。


「加奈子」


居ても立っても居られなくなった僕は、加奈子に話しかける。


「……何かしら……」


「もしかしてこの人、お前の親父さんか?」


返答次第では、僕はこの男を殴りつけるかもしれない。

沸々と沸き起こるこの感情を、今はどうにか押さえつけて、僕はジッと言葉を待つ。


「先輩には……関係のないことよ」


はぐらかして言ってはいるものの、もうこれはつまりそうだと言っているのと同じことだ。

両腕に力がこもり、掴みかかろうとした瞬間、この男はなんでもないように言ったのだ。


「いやいや、私の娘が失礼したね。この店でバイトしてると聞いたもので、一度顔を見てみようと思ったんだ」


失礼してるのはお前のほうだろう、よっぽどそう言ってやろうかと思った。

しかし、僕が言葉を発するよりも先に、加奈子は反応する。


「私はあなたの顔など二度とみたくはない。そう言ったはずなのだけれど?」


口調こそいつものようではあるが、その心はどうだか。

肩を小刻みに震わせて、何かに打ちひしがれているようで、とてもいつも通りとは言い難い。


加奈子の親父は、こんな状況でもなおあっけらかんとした態度である。


「そんな冷たいこと言わないでおくれ。だってお前は、私の娘なんだから」


「やめてちょうだい! 私はもうあなたのことを父親だとは思っていないわ!」


さきほどこの店に入ったばかりなのだろう、いまだ学校の制服姿のままの加奈子は、スカート袖を強く握りしめて必死になにかを我慢している。


涙や悲しみといった、そんな単純なものを我慢しているのではなく、もっと複雑なものを我慢している、僕の目にはそう映った。


「酷いな、お前を育ててやったのはいちよう私だぞ?」


「すいませんが、加奈子のお父さん。今さらそんなことを言う権利があなたにはあるんですか?」


このまま黙って聞いていることが出来ず、僕はつい口を出してしまう。

もうこの男を殴ることになど意味は感じられない。人の痛みが分からないやつに、暴力で訴えかけても無駄だ。


隣で加奈子は目を見開いて、それからようやく慌てて僕を止めにかかる。


「ちょ、ちょっと先輩? あなたには関係のないことよ? 私たちの家族がどうであろうと、それはあなたには無関係じゃない?」


人の家族にああだこうだと口出しするのは、確かに筋違いなのかもしれない。

だからといって、はいそうですかと引き下がれるわけがない。


何故かって? 簡単なことだ。僕と加奈子の家族はまったくの無関係なのは否めない。だけどな、僕と加奈子は無関係でもなければ赤の他人でもない。


余計なお世話だと言われてもいい。お人好しだと言われてもいい。それでも僕は、加奈子の傷つく姿を見たくないんだ。


僕は加奈子の肩を掴み、真剣な面構えで言う。


「加奈子、お前はいつもいつも一人で背負い込み過ぎだ。これはお前個人の問題なのかもしれない。けど、お前が悲しんでるのなら放っておけないんだよ……。お前は、僕との関係を単なる先輩と後輩って考えてるかもしれないが、僕は違うぞ……」


頬を赤く染めて、静かに僕の目を見つめている。

そんな加奈子が愛おしくて、どうしても守ってやりたくて、だから僕は声を大にして言ってやった。


「僕は……僕はなぁ……お前のことが好きなんだ! それもどうしようもないくらいに!」


「い、いきなり何を言い出すのあなたは!? 場を弁えなさい!」


場を弁えるだと? ふん、そんなものはどうでもいい。今はそんなもの気にしてられるか。


「好きなやつを助けてやりたいと思うことのどこが悪い!? 僕はお前が傷つく姿は見たくないんだ……だから僕は、お前の力になってやる! お前を傷つけた親父さんを許さない! 何か文句あるか!?」


勢いよく話したせいで呼吸が乱れる。

目の前でいきなり告白されて驚いているのか、ただ黙って僕の荒い息を、その小さな顔で受け止めている。


するとどうしたものか、親父さんは笑い出し、僕を小馬鹿にしたように言い放つ。


「いやいや、これは驚いた。まさか父親の目の前で、娘に堂々と告白してみせるとは」


「ああ、悪いな……気分を害しちゃって」


もはや親父さんがお客さんであることも忘れて、僕は失礼にも敬語を使わなかった。

だけど、こんな男に敬語を使うなんて、それこそどうかしてる。敬う必要なんて微塵にもないだろう。


「いや、いいんだ。別に気にしてなどいないよ、私は」


席をゆっくりと立ち、僕へと近づいてくる。

ニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべ、そして言った。


「加奈子、私はお前に謝罪をしに来たんだ。私の勝手な我がままで、お前たちには迷惑をかけてしまったのだから。だからどうか、許して欲しい」


言葉と表情がまったくもって一致していない。本当に申し訳ないと思っているのなら、笑うことなどできない。


それなのに、この男は笑っている。果たしてこれが、謝罪と言えるだろうか。


「もうどうでもいいことよ。例えあなたが謝ろうと、私はあなたを決して許さないのだから。もう帰ってちょうだい。これ以上話すことなどないわ」


男は「そうか」と、だけ言って、まるで事務的な作業を終えたように、やれやれといった顔をした。


正直僕は、もう完全に飽きれてしまった。

自分がしたことを悪いとは思っていないんだ。だからこうも、淡々した様子でいられる。


けど、まだ終わらせてはいけない。加奈子の思いは、そんな単純なものじゃないはず。


「なあ加奈子、お前は本当にこんなんでいいのか? もっと他に、言いたいことがあるんじゃ?」


加奈子は僕にクルリと背を向けて、そうしてから深いため息をついた。


「とんだ迷惑だわ。私はもう、この男と話したくなどないの。顔を見るだけでうんざりするわ」


「今ここで本音を言わなかったら、一生後悔するかもしれないんだぞ? それでもいいのか?」


「……」


「この男に何を言っても通じないのは分かってる。けど、だからってお前が本音を押し殺してまで我慢する必要もないだろ」


「無駄だと分かっていることをするほど、私も愚かではないのよ」


「いや、お前は愚か者だよ。本音も言えないようじゃ、お前が苦しむだけだろうが。どうしてその苦しみを、この男から味あわされた苦しみを、お前が背負い込まなくちゃならない」


加奈子は手をきつく握り締め、声を絞り出す。


「……じゃあ逆に聞くけれど……私が本心を曝け出せば、この気持ちは全て晴れるとでも言うの……?」


「晴れるさ。確かに全てを拭い去ることはできないかもしれない。それでも、お前が面と向かって言うことに意味がある。お前はきっと、本音が言えないから苦しんでたんじゃない。本当は、何も言えないでいる自分を一番憎んでるんじゃないのか?」


今にも泣きだしそうな顔を僕に向ける。

そんな表情を見て僕は、確信するのであった。


僕が言った通り、加奈子は自分に嫌気がさしていたのではないだろうか。

それはもちろん、父親への強い憎しみはあるのだろう。

けれど、そんなことよりも、ただ現状を受け止めて、何もすることのできなかった自分が最も恨めしかったんだ。


こういう経験は僕にもある。


状況こそまったく違うが、僕がいじめられていた時、その当時は我慢してひたすら耐えていたが、今になってあの時こうしておけばよかったと、思うことはある。


要するに、いじめてきたやつらのことよりも、その状況に甘んじていた自分が一番憎いんだ。


あの時、行動を起こしたからと言って何かが変わったとは思えない。

そんなことは分かってるのに、後々になって後悔の波が押し寄せるものなんだ。


こんな思いは二度としたくないし、加奈子にはさせたくない。


だからもう一度僕は言ってやるさ、いや、何度でも言ってやる。


「自分に負けるな、加奈子! その男にちゃんと言ってやれ! 何もかもを言ってやれよ!」


いよいよ我慢し切れなかったのか、加奈子はボロボロと大粒の涙を流した。

いつもの凛とした姿はなく、ただのか弱い女の子だ。


両手で目頭を押さえるものの、一度溢れ出した感情は止めることはできない。

僕はそっと抱き寄せて、大事な宝ものを抱えるように、優しく包み込む。


「うっ……うっ……」


嗚咽を漏らして泣きじゃくる加奈子。

そしてそれを抱擁する僕。


通常では考えられない光景だが、今この瞬間だけはそれでいいんだ。


強く抱きしめると壊れてしまいそうで、少しでも目を離せば消えてしまいそうで、こんなにも脆いものなのかと思った。


「こんな小さな身体で、こんな大きな苦労を抱えてたんだな、お前……」


「バカ……バカバカバカ……! これも全部あなたのせいよ……!」


ようやく涙がおさまったのか、鼻をすする音だけが聞こえる。

僕の胸に顔を埋めて、いつものように罵倒してみる。


けど、そんな罵倒ですら心地よく感じてしまう。


「困ったもんだな……僕は何も悪いことしてないのに……」


「……女の子を泣かせるなんて……やっぱりあなたは最低よ……」


「そうだな、そうに違いない……僕は最低だよ……」


くしゃくしゃになった顔を上げて、精一杯の笑顔で泣き顔を呑みこんでいく。


「けれど……私はあなたみたいな最低男……嫌いじゃないわ……!」


これはいい意味でとらえていいんだよな?

まさかこのタイミングで嫌味を言ってくるとは思えないし、ていうか、そうじゃないと僕は落ち込む。


「そいつはどうも……」


さて、それじゃあ最終決戦といきますか。

僕はそっと加奈子から離れて、親父さんのほうを見る。


困惑や驚愕といった表情などしていなくて、好奇なものでも見るかのような眼差しだ。

気に食わないけど、まあいいとしよう。


「私は……私は……」


徐々に徐々にと声を振り絞って、加奈子は決着をつけるべく親父さんに立ち向かう。


「私は! あなたのことが大嫌いよっ! 自分勝手に私たちを振り回して……困らせて……滅茶苦茶にしたのだから! 私はあなたを一生許さない! 軽蔑して嘲笑していつまでも憎んでやるわ!」


親父さんは黙って聞いている。


「だから……だから……! もう二度と私の前にあらわれないで!」


「……そうかい、分かったよ。そこまで嫌いだと言うなら、私はおとなしく引くことにする。それにしても、飼い犬に手を噛まれるとはよく言ったものだな」


「ふん、何とでも言うがいいわ。それに、私はあなたの飼い犬になど成り下がった覚えはないわ。さあ、もう用は済んだのでしょう? とっとと消えてちょうだいな」


よし、良く言ったぞ加奈子。

自分の娘を畜生扱いするとは、とんだいかれた父親だぜ。


「はいはい、分かったよ。おお……怖い怖い」


ヘラヘラと笑いながら、お代だけおいて立ち去っていった。

僕は残されたお金を見て、あることに気づいた。


「おいおい……三百円足りないぞ……?」


もう一度確認するも、やはり足りない。

ここまでの屑だと、もはや見上げたものだ。


「あら、それは本当?」


加奈子はヒョイと顔を出して、僕と同じように確認する。

が、やはり、足りないみたいだ。


「仕方ないか……不足分は僕が出すよ……」


ため息まじりそう言うと、加奈子がニコッと笑ってみせる。

その表情が妙にすがすがしいので、僕は不思議に思った。


しかし、その理由もすぐに分かる。


「あらあら、困ったものね。飼い犬の躾がなっていなかったみたいだから、ここは私が払っておくわ」


飼い犬の……躾……?


「飼い犬に手を噛まれるとはよく言ったものだわ」


「ぷ……ふふ……あっはっはっは! そりゃ言えてるな! 確かにそいつは言い得て妙だ!」


さすがは強気な女、四条加奈子様ときたもんだ。

実の親父さんを犬扱いしてみせるとはな。


とまあ、こうして、穏やかでない親子喧嘩は、多分加奈子の勝利で幕を閉じたのであった


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ