飼い犬に手を噛まれるとはよく言ったものだわ
気持ちの良い風を顔一杯に受け止めて、リズムよく両足を前に進めていく。
これからいいことがあるわけではない。ただたんにバイト先へと向かっているだけ。
ちょっと前までは、バイトが嫌で嫌で仕方がなかった。けどそれも昔のこと。
今となっては、ちょっとばかしではあるが、楽しみになりつつあった。
女装して接客するのが楽しいなんてのは、正気の沙汰ではないのかもしれない。
だけど、こんな経験はなかなかできるものではない。それに加えて、バイト仲間も良い人ばかり。
僕が男だと分かっても、気持ち悪がったり、軽蔑してきたりしない。むしろ、今まで以上に可愛がってくれさえする。そんな最低だけど最高のバイトは他にない。
そうだな、僕は胸を張ってこう言いたい。「ビバ、メイド喫茶! ビバ、男の娘!」とな。
と、これじゃあまるで、僕が女装愛好家みたいだ。
違う違う、好きではないんだ。そうじゃなくて、女装とは一種の芸術のようなもの。
僕の全てを表現すべく、僕はバイトしている時にだけ男の娘となる。
くどいようだが、普段はそんなことは決してしない。
いつの日か向坂に言われたことがあったっけ。何故お前は部活をしないのか、と。
そう聞かれたあの時、僕は言い淀んでしまった。
けど、もう答えなんて決まっている。
僕はバイトが楽しいから、部活なんてやらないんだ。
「琴乃さん、こんにちは」
あれこれと考えているうちに、気づけばもうぴゅあラブに到着。
中に入ればいつものように、琴乃さんが温かく迎えて――
「渚、あたしの分のコーヒー淹れておいて」
……そんなことなかったわ。
だいたい、この人が僕に優しくしてくれた試しがない。
それは今日だって例外ではない。これじゃあまるで、僕は本物のメイドみたいじゃないか。
コーヒーなんて自分で淹れろよ。僕はあんたのお世話するためにここにいるんじゃないっての。
気怠そうに雑誌を読んでいる琴乃さんに、僕はとりあえず一言。
「嫌です」
はい、よくできました。嫌なことは嫌だと言わなきゃだめだ。言いたいことも言えないようじゃ、この厳しい世界はやっていけませんから。
「嫌よ」
いやいや、何故あんたが拒否する。僕が嫌だといって、あんたはそれを嫌だという。
ああ、なんだか頭が混乱するような話だが、とりあえずもう一言。
「だから、僕は琴乃さんのためにコーヒーなんて淹れたくないです」
ここまで言えば、さすがの琴乃さんでも諦めるだろう。
「だから、それを嫌だと言ったんだけど?」
さすがは三十路独身。自分の過ちを認めない。様々な苦い体験から人生のノウハウを培い、その挙句に辿りついたのは強情さ。
うかうかしていたら男に逃げられ、結婚できずに人生終了。そうならないためにも、常に自分の我がままを押し通し、都合のいいようにことを進める。
しかし悲しいかな、そんな女になど男が寄り付くはずもなく、結局のところ事態は悪化するのみ。
男を欲するが故に傲慢になったはいいが、皮肉なことに、それでは男は逃げていく。
負のスパイラルとはこのことだ。
「ちょっと? なにそのポーズ?」
気づいた時には、僕は両手を合わせて合掌していた。
だって、あまりにも不憫なんだもん。
「チーン……」
「あたしはまだ死んでないんだけど……?」
それは違う。あなたはもう……あなたの心は既に死んでいる。
「あ、僕コーヒー淹れてきます」
「え、ええ……ありがとう……」
口を開いて間抜けな顔した琴乃さんを背にして、僕はコーヒーを淹れるべくキッチンへ向かった。
どうして気変わりしたのか、まあそれは言うまでもないことだ。
一人暮らしの息子が、久しぶりに実家に帰ってきて親孝行染みたことするように、まさしく僕は三十路孝行するわけだ。
インスタントのコーヒーを作り、砂糖もミルクも入れずに持って行く。
琴乃さんはいつもブラックを好むのだが、きっと、琴乃さんにとってコーヒーとは人生そのものなのだろう。
とても苦くて、だけども温かい、コーヒーとはあの人にとって人生だ。
「お待たせしました」
女王様然として座る琴乃さんの前に、ゆっくりとコーヒーを置いて献上する。
僕の優しさに当惑したのか、落ち着かない様子である。
「あ、ありがとう」
「いえ、これぐらいどうってことないですよ」
そう、どうってことなどないのだ。
そうだな……これからは、コーヒーぐらいは淹れてあげてもいいかも。
「それじゃあ、僕着替えてきます」
「いってらっしゃい……」
ズズッと一口啜った琴乃さんを横目に、僕はトイレへと着替えに向かった。
フリフリしたスカートの袖を軽く叩いて、付いていた埃を払う。
鏡の前で顔を確認。続いて笑顔の練習。よし、完璧だ。
あと少しで開店するので、僕は急いで準備に取り掛かる。
椅子がきちんと並んでいるか、机に汚れは残っていないか、これらを確認する作業は簡単に見えるものの、割と重要だったりする。
そうした取りこぼし一つで、店の信用はガタ落ちになるのだから。
「はーい、みんな? お店開けるわよー」
琴乃さんは店の奥から顔を出し、締まりのない声で言う。
僕はメイドに集合をかけ、円の形になったのを見計らい一斉に掛け声をかけていく。
「ぴゅあラブ~~~」
僕は大きな声を張り上げながら、周りをぐるりと見渡す。
全員いることを確認し、それから大きく万歳。
「「ナンバーワン!」」
ほんとこのダサい掛け声どうにかならないのかな。
もうさすがに恥ずかしいとは思わないが、入った当初はそれはもう嫌だったね。
少し昔のことを思いだし、懐かしい気持ちが押し寄せる。
そうだな、過去の自分に言ってあげたいものだ。ぴゅあラブのバイト、最高だってことを。
開店してから少し経つと、今日初めてのお客さんが登場する。
「「お帰りなさいませ、ご主人様!」」
姿勢よく背中を曲げて、最大限の敬意を払う。
ちらりとお客さんの顔を見れば、どうやら初来店のようだ。
「あ、えっと、渚ちゃんって人は今日いますか……?」
決まりに決まって初めての人は、いつもだいたいこんな感じだ。
オドオドしていて、どこか落ち着かないような顔をする。
だが、ここが僕の腕の見せ所だ。きっと噂を聞きつけて、わざわざここまで足を運んでくれたのだろう。
その思いを無碍にはしないよう、精一杯のおもてなしで迎え入れてあげようじゃないか。
「はーい、僕が渚ですっ! それではお席へご案内しま~すっ!」
何事も吹っ切ることが大事なのだ。普段は決してこんな喋り方はしないが、こんな時ぐらいはこうしてみるのも悪くはないと思うんだよね。
「こちらへどうぞっ!」
「あ、ああ、ありがとう……」
うーむ、どうにもまだ緊張がほぐれていないようだ。
「呼び方のオーダーはどうしますかっ?」
出来るだけ甘ったるい声でこの男に話しかける。
低い声より高い声の方が、相手は緊張感を感じにくいんじゃないかと思ってな。
「ああ、ええと、ご主人様でいいです……」
で、だと? おいおい、そんな妥協されちゃあ困りますぜ、お客さん。
僕は男の耳元で小さく囁く。
「下の名前……教えてもらってもいいですか……?」
なにやらビックリしたようで、目を真ん丸にして僕を見つめる。
「たくや、ですけど……?」
よしよし、たくやか。さすがにそのまま本名で呼ぶのはまずいから、あだ名でもつけて呼んでやろう。
そうだなぁ……たくちゃん、たくたく、いや、たっくんだ!
これは素晴らしいではないか。我ながら自分のセンスに脱帽したよ。
「たっくん、って呼んでもいいですかっ?」
「な、何故私の昔のあだ名を知っている……!?」
いや知らないよ、あんたの昔のことなんて。
けどまあ、これはかなりいい線いってるんじゃないか?
だって、こんなにも嬉しそうな顔してるじゃん。間違いなく大成功だ。
「たっくん、で、いいですよねっ?」
「ももももももちろんですとも! いやはや、なんだか昔を思い出しますな! これでも私には、学生時代には彼女がいましてね、いやあ、その当時の彼女も私をたっくんと呼んでいたんですよ!」
いきなりキャラ変わったな、おい。その上どうでもいい思い出を語り始める始末。
このままでは話し込まれると思った僕は、適当に話を変えてみる。
「そうなんですかっ!? それじゃあ今日は、そんな昔の彼女さんに負けないように、頑張りますっ!」
そうそう、当たり前っちゃ当たり前だけど、基本なんでもオーバーリアクションすることが大切だ。
しょうもない話をふられても、とにかく出来る限りの反応をするんだ。
そうすると、だいたいのお客さんは気を良くして、一気に距離感が縮まるのさ。
「うんうん、是非ともそうしてくれたまえ!」
「それでは、ご注文が決まりましたら、渚ちゃ~んって呼んで下さいっ!」
「はいはい、それじゃしばらくメニュー見てるよ」
ぺこりと一礼してから僕は戻る。どうもまだ他のお客さんは来ていないようで、他のメイドたちは暇そうだ。
あくびをする者や、メイドどうしでおしゃべりする者、僕はそんなメイドたちを見て一喝いれてやろうと構えるも――
「渚ちゃん、注文してもいいかい?」
なんて空気の読めないやつなんだ。いや、これはむしろその逆か。空気を読んだ結果がこれなのだろう。
「はーい、少々お待ちくださーい!」
仕方がないので、注意するのは後回しにして、僕は急いで注文を聞きに行く。
「それじゃあ、このメイド特性オムライスとアイスティーちょうだい」
「かしこまりましたっ! たっくん、料理が出来るまで、もう少しだけ待っててねっ? 我慢できないからって、覗きにきたりしたらダメなんだからねっ?」
「はは、そんなことはしないよ! いやあ、思い出すね、当時の彼女と同じようなこと言うものだから」
こいつほんとに彼女いたのかぁ……? さっきから都合よすぎだろ。こんな偶然が何度もあってたまるものか。
これじゃあまるで、僕とこの男が運命で結ばれてるみたいじゃないか。
ああ、なんだか寒気がしてきたぞ……。
とりあえず僕は、あのレトルトのオムライスをレンジでチンして、買いだめしてあるアイスティーのペットボトルをグラスに注ぐ。
あと三分ほど待てば出来上がり。先に飲み物を届けようと、僕がグラスを掴んだその瞬間、いきなり大声が響き渡った。
「何故あなたがこの店にいるの!? 冷やかしなら帰ってちょうだい!」
何が起きたのかと様子を見に行けば、そこには怒りをあらわにした加奈子の姿と、そんな加奈子に怯えているあの男の姿が。
いまいち状況が理解できなかったものの、僕は急いで駆け寄ることにした。
「ど、そうしたんだよ加奈子……? 何があった?」
お客さんの前で素に戻るわけにはいかないので、僕は声を潜めてそう聞いた。
「この人のせいで……この人のせいで……私の家族は……」
この人……? 家族……?
涙を流すまいと、歯を食いしばりながら耐える加奈子を目にし、僕は思った。
推測ではあるが、この男は加奈子の父親なんじゃないか、と。
そうでなければ、加奈子がここまで感情をさらけ出すはずがない。
遊び呆けて借金を踏み倒し、家族に多大なる迷惑をかけたというあの加奈子の父親が、もしこの男と同一人物であるならば、果たして僕はどうするのだろう。
他人事とはいえ、加奈子は僕が少なからずの好意を抱いている女性だ。
その加奈子にとっての、いわば仇とも言える存在を前にしてもなお、僕は冷静でいられるのだろうか。
恐らくそれは無理。文句の一言や二言と言わずに、三言とも四言ともぶつけてやりたいぐらいだ。
「加奈子」
居ても立っても居られなくなった僕は、加奈子に話しかける。
「……何かしら……」
「もしかしてこの人、お前の親父さんか?」
返答次第では、僕はこの男を殴りつけるかもしれない。
沸々と沸き起こるこの感情を、今はどうにか押さえつけて、僕はジッと言葉を待つ。
「先輩には……関係のないことよ」
はぐらかして言ってはいるものの、もうこれはつまりそうだと言っているのと同じことだ。
両腕に力がこもり、掴みかかろうとした瞬間、この男はなんでもないように言ったのだ。
「いやいや、私の娘が失礼したね。この店でバイトしてると聞いたもので、一度顔を見てみようと思ったんだ」
失礼してるのはお前のほうだろう、よっぽどそう言ってやろうかと思った。
しかし、僕が言葉を発するよりも先に、加奈子は反応する。
「私はあなたの顔など二度とみたくはない。そう言ったはずなのだけれど?」
口調こそいつものようではあるが、その心はどうだか。
肩を小刻みに震わせて、何かに打ちひしがれているようで、とてもいつも通りとは言い難い。
加奈子の親父は、こんな状況でもなおあっけらかんとした態度である。
「そんな冷たいこと言わないでおくれ。だってお前は、私の娘なんだから」
「やめてちょうだい! 私はもうあなたのことを父親だとは思っていないわ!」
さきほどこの店に入ったばかりなのだろう、いまだ学校の制服姿のままの加奈子は、スカート袖を強く握りしめて必死になにかを我慢している。
涙や悲しみといった、そんな単純なものを我慢しているのではなく、もっと複雑なものを我慢している、僕の目にはそう映った。
「酷いな、お前を育ててやったのはいちよう私だぞ?」
「すいませんが、加奈子のお父さん。今さらそんなことを言う権利があなたにはあるんですか?」
このまま黙って聞いていることが出来ず、僕はつい口を出してしまう。
もうこの男を殴ることになど意味は感じられない。人の痛みが分からないやつに、暴力で訴えかけても無駄だ。
隣で加奈子は目を見開いて、それからようやく慌てて僕を止めにかかる。
「ちょ、ちょっと先輩? あなたには関係のないことよ? 私たちの家族がどうであろうと、それはあなたには無関係じゃない?」
人の家族にああだこうだと口出しするのは、確かに筋違いなのかもしれない。
だからといって、はいそうですかと引き下がれるわけがない。
何故かって? 簡単なことだ。僕と加奈子の家族はまったくの無関係なのは否めない。だけどな、僕と加奈子は無関係でもなければ赤の他人でもない。
余計なお世話だと言われてもいい。お人好しだと言われてもいい。それでも僕は、加奈子の傷つく姿を見たくないんだ。
僕は加奈子の肩を掴み、真剣な面構えで言う。
「加奈子、お前はいつもいつも一人で背負い込み過ぎだ。これはお前個人の問題なのかもしれない。けど、お前が悲しんでるのなら放っておけないんだよ……。お前は、僕との関係を単なる先輩と後輩って考えてるかもしれないが、僕は違うぞ……」
頬を赤く染めて、静かに僕の目を見つめている。
そんな加奈子が愛おしくて、どうしても守ってやりたくて、だから僕は声を大にして言ってやった。
「僕は……僕はなぁ……お前のことが好きなんだ! それもどうしようもないくらいに!」
「い、いきなり何を言い出すのあなたは!? 場を弁えなさい!」
場を弁えるだと? ふん、そんなものはどうでもいい。今はそんなもの気にしてられるか。
「好きなやつを助けてやりたいと思うことのどこが悪い!? 僕はお前が傷つく姿は見たくないんだ……だから僕は、お前の力になってやる! お前を傷つけた親父さんを許さない! 何か文句あるか!?」
勢いよく話したせいで呼吸が乱れる。
目の前でいきなり告白されて驚いているのか、ただ黙って僕の荒い息を、その小さな顔で受け止めている。
するとどうしたものか、親父さんは笑い出し、僕を小馬鹿にしたように言い放つ。
「いやいや、これは驚いた。まさか父親の目の前で、娘に堂々と告白してみせるとは」
「ああ、悪いな……気分を害しちゃって」
もはや親父さんがお客さんであることも忘れて、僕は失礼にも敬語を使わなかった。
だけど、こんな男に敬語を使うなんて、それこそどうかしてる。敬う必要なんて微塵にもないだろう。
「いや、いいんだ。別に気にしてなどいないよ、私は」
席をゆっくりと立ち、僕へと近づいてくる。
ニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべ、そして言った。
「加奈子、私はお前に謝罪をしに来たんだ。私の勝手な我がままで、お前たちには迷惑をかけてしまったのだから。だからどうか、許して欲しい」
言葉と表情がまったくもって一致していない。本当に申し訳ないと思っているのなら、笑うことなどできない。
それなのに、この男は笑っている。果たしてこれが、謝罪と言えるだろうか。
「もうどうでもいいことよ。例えあなたが謝ろうと、私はあなたを決して許さないのだから。もう帰ってちょうだい。これ以上話すことなどないわ」
男は「そうか」と、だけ言って、まるで事務的な作業を終えたように、やれやれといった顔をした。
正直僕は、もう完全に飽きれてしまった。
自分がしたことを悪いとは思っていないんだ。だからこうも、淡々した様子でいられる。
けど、まだ終わらせてはいけない。加奈子の思いは、そんな単純なものじゃないはず。
「なあ加奈子、お前は本当にこんなんでいいのか? もっと他に、言いたいことがあるんじゃ?」
加奈子は僕にクルリと背を向けて、そうしてから深いため息をついた。
「とんだ迷惑だわ。私はもう、この男と話したくなどないの。顔を見るだけでうんざりするわ」
「今ここで本音を言わなかったら、一生後悔するかもしれないんだぞ? それでもいいのか?」
「……」
「この男に何を言っても通じないのは分かってる。けど、だからってお前が本音を押し殺してまで我慢する必要もないだろ」
「無駄だと分かっていることをするほど、私も愚かではないのよ」
「いや、お前は愚か者だよ。本音も言えないようじゃ、お前が苦しむだけだろうが。どうしてその苦しみを、この男から味あわされた苦しみを、お前が背負い込まなくちゃならない」
加奈子は手をきつく握り締め、声を絞り出す。
「……じゃあ逆に聞くけれど……私が本心を曝け出せば、この気持ちは全て晴れるとでも言うの……?」
「晴れるさ。確かに全てを拭い去ることはできないかもしれない。それでも、お前が面と向かって言うことに意味がある。お前はきっと、本音が言えないから苦しんでたんじゃない。本当は、何も言えないでいる自分を一番憎んでるんじゃないのか?」
今にも泣きだしそうな顔を僕に向ける。
そんな表情を見て僕は、確信するのであった。
僕が言った通り、加奈子は自分に嫌気がさしていたのではないだろうか。
それはもちろん、父親への強い憎しみはあるのだろう。
けれど、そんなことよりも、ただ現状を受け止めて、何もすることのできなかった自分が最も恨めしかったんだ。
こういう経験は僕にもある。
状況こそまったく違うが、僕がいじめられていた時、その当時は我慢してひたすら耐えていたが、今になってあの時こうしておけばよかったと、思うことはある。
要するに、いじめてきたやつらのことよりも、その状況に甘んじていた自分が一番憎いんだ。
あの時、行動を起こしたからと言って何かが変わったとは思えない。
そんなことは分かってるのに、後々になって後悔の波が押し寄せるものなんだ。
こんな思いは二度としたくないし、加奈子にはさせたくない。
だからもう一度僕は言ってやるさ、いや、何度でも言ってやる。
「自分に負けるな、加奈子! その男にちゃんと言ってやれ! 何もかもを言ってやれよ!」
いよいよ我慢し切れなかったのか、加奈子はボロボロと大粒の涙を流した。
いつもの凛とした姿はなく、ただのか弱い女の子だ。
両手で目頭を押さえるものの、一度溢れ出した感情は止めることはできない。
僕はそっと抱き寄せて、大事な宝ものを抱えるように、優しく包み込む。
「うっ……うっ……」
嗚咽を漏らして泣きじゃくる加奈子。
そしてそれを抱擁する僕。
通常では考えられない光景だが、今この瞬間だけはそれでいいんだ。
強く抱きしめると壊れてしまいそうで、少しでも目を離せば消えてしまいそうで、こんなにも脆いものなのかと思った。
「こんな小さな身体で、こんな大きな苦労を抱えてたんだな、お前……」
「バカ……バカバカバカ……! これも全部あなたのせいよ……!」
ようやく涙がおさまったのか、鼻をすする音だけが聞こえる。
僕の胸に顔を埋めて、いつものように罵倒してみる。
けど、そんな罵倒ですら心地よく感じてしまう。
「困ったもんだな……僕は何も悪いことしてないのに……」
「……女の子を泣かせるなんて……やっぱりあなたは最低よ……」
「そうだな、そうに違いない……僕は最低だよ……」
くしゃくしゃになった顔を上げて、精一杯の笑顔で泣き顔を呑みこんでいく。
「けれど……私はあなたみたいな最低男……嫌いじゃないわ……!」
これはいい意味でとらえていいんだよな?
まさかこのタイミングで嫌味を言ってくるとは思えないし、ていうか、そうじゃないと僕は落ち込む。
「そいつはどうも……」
さて、それじゃあ最終決戦といきますか。
僕はそっと加奈子から離れて、親父さんのほうを見る。
困惑や驚愕といった表情などしていなくて、好奇なものでも見るかのような眼差しだ。
気に食わないけど、まあいいとしよう。
「私は……私は……」
徐々に徐々にと声を振り絞って、加奈子は決着をつけるべく親父さんに立ち向かう。
「私は! あなたのことが大嫌いよっ! 自分勝手に私たちを振り回して……困らせて……滅茶苦茶にしたのだから! 私はあなたを一生許さない! 軽蔑して嘲笑していつまでも憎んでやるわ!」
親父さんは黙って聞いている。
「だから……だから……! もう二度と私の前にあらわれないで!」
「……そうかい、分かったよ。そこまで嫌いだと言うなら、私はおとなしく引くことにする。それにしても、飼い犬に手を噛まれるとはよく言ったものだな」
「ふん、何とでも言うがいいわ。それに、私はあなたの飼い犬になど成り下がった覚えはないわ。さあ、もう用は済んだのでしょう? とっとと消えてちょうだいな」
よし、良く言ったぞ加奈子。
自分の娘を畜生扱いするとは、とんだいかれた父親だぜ。
「はいはい、分かったよ。おお……怖い怖い」
ヘラヘラと笑いながら、お代だけおいて立ち去っていった。
僕は残されたお金を見て、あることに気づいた。
「おいおい……三百円足りないぞ……?」
もう一度確認するも、やはり足りない。
ここまでの屑だと、もはや見上げたものだ。
「あら、それは本当?」
加奈子はヒョイと顔を出して、僕と同じように確認する。
が、やはり、足りないみたいだ。
「仕方ないか……不足分は僕が出すよ……」
ため息まじりそう言うと、加奈子がニコッと笑ってみせる。
その表情が妙にすがすがしいので、僕は不思議に思った。
しかし、その理由もすぐに分かる。
「あらあら、困ったものね。飼い犬の躾がなっていなかったみたいだから、ここは私が払っておくわ」
飼い犬の……躾……?
「飼い犬に手を噛まれるとはよく言ったものだわ」
「ぷ……ふふ……あっはっはっは! そりゃ言えてるな! 確かにそいつは言い得て妙だ!」
さすがは強気な女、四条加奈子様ときたもんだ。
実の親父さんを犬扱いしてみせるとはな。
とまあ、こうして、穏やかでない親子喧嘩は、多分加奈子の勝利で幕を閉じたのであった