ロリコンじゃない、シスコンだ その④
夏休みが終わる直前というのは、切なさや後悔といったものが残るものだ。
やり残したことがあるのに気づいて、来年こそは、と早くも計画を立て始める人もいるかもしれない。
はたまた、学生生活最後の夏休みに、感慨深いものを感じている人がいるのかもしれない。
そして僕は朝っぱらから部屋にこもり、全国の学生を窮地に追いやる宿題という名の試練を乗り越えんとしているのであった。
「もっと早めにやるべきだった……」
後悔先に立たず。今さら悔やんでも仕方がない。
まあそれはいいとして、この状況はどういうことなのだろうか。
そこにいるはずのない、いてはいけない存在が、僕の背中をじっと見つめているのだ。
先に言っておくが、幽霊とかそういう類のものではない。人間だ。
もう一つ言っておくと、妹でもないぞ?
妹よりかは幾分ましな存在と言えるだろう。
ただ、それはましというだけであって、この場にいることは望ましくないのは確かだ。
「で? お前なんでここにいるわけ?」
椅子をクルリと回転させて、ベッドに腰掛けるその招かれざる客へと質問を投げかける。
「ですから、何度も言ってるじゃないですか? 凛ちゃんがうちの相手してくれなくて困ってるって」
「それはもう何度も聞いた。そうじゃなくてだな、だからと言って、なんで僕の部屋に来る必要がある? 凛子は今家にいないわけだし、もう用は済んだだろ?」
「いえ、そうもいきません。凛ちゃんがいないというのなら、お兄さんに相手してもらいます」
どうしてそうなる。ていうか、このやりとり何回目だよ。
僕は深いため息をついて、再び宿題に手を付ける。
すると、パタパタと足音をたててこちらに近づいて来た。
「お兄さん? ため息つくと、幸せが逃げちゃいますよ?」
ため息じゃなくてお前のせいだよ、もし幸せが逃げるとしたら。
「なあ? 僕は宿題が残ってるから、今日のところはもう帰ってくれないか、銀?」
そう、この僕の勉強の邪魔をしているのは紛れもなく、あの妹の親友の白樺銀だ。
「そうもいきません。パンがなければお菓子を食べればいいと、かの有名な女王様も言っていますし」
「いや、意味わからん」
正確には、パンがなければブリオッシュを、って言ったんだけどな。
そもそもあれって、その女王様が言ったのかどうかよく分かってないらしいけど。
銀は僕の机をバン、と叩いてから、さらに意味不明な言葉を言った。
「つまるところ、妹がいなければお兄さんを、とうちは思うのですよ?」
「そうかい。お前の言い分はよく分かったから、もうとっとと帰ってくれ」
「うちの話聞いてました?」
聞いてたさ。聞いた上でこう言ってんだよ。
僕は右手を振って、出て行けというジェスチャーをした。
僕のこのジェスチャーをどうやら、こっちへ来い、という意味だと勘違いした銀は、ズイッと僕に顔を近づけて、嬉しそうな表情を浮かべながら言う。
「仕方ないですねえ……近くに来い、とお兄さんが言うなら、うちはとことん顔を近づけるまでですよっ!」
「近い近い近いっ!」
僕の真横には銀の顔が、そしてそんな状況に慌てふためく僕。
「そ、そんなに照れられると……うちまで恥ずかしくなっちゃいます……」
「いいからとにかく離れてくれ……」
ようやく僕の言うことを聞いて離れていく銀。ボスンとベッドに腰を下ろし、再び話は戻る。
「何度も言うけど……僕には宿題があるんだ。だからせめて、終わってからにしてくれないか? お前の相手すんのはさ」
いやね、こんな僕みたいないい人いないと思うよ?
だってさ、こいつの言ってることはまったく理屈が通ってないもん。
凛子がいないからといって、その代わりに兄である僕がこいつの相手してやる義務なんかない。
けどまあそうは言っても、僕らは完全なる他人ってわけでもないし、少しぐらいは相手してやってもいいかなとも思う。
そうだな……ちょっとイジメてみるか、こいつ。
「あーあ、お前がもうちょっと気の利いたこと言ってたら、僕はすぐにでもお前と遊んでやったんだけどなあ……」
顎に手をあてしばらく考えこみ、銀はどこか腑に落ちないような様子だ。
「ではお聞きしますが、うちは何て言えば正解だったんですか?」
ふっ、のってきたな。
「そうだな……例えば、『お兄さんにどうしても会いたくなっちゃったんで来ちゃいました。だってほら……今日は夏休み最終日ですし、最後の日ぐらいお兄さんと過ごしたじゃないですか』とか?」
「うわぁ……」
銀はもの凄い顔を引きつらせながら、どうにか笑顔をつくろうと必死になっていた。
そんなドン引きされるようなこと言ったかな、僕?
まあいいか。とりあえずこの調子で話を続けてみよう。
「あとはそうだな……『実はうち、お兄さんのことが好きなんです』とかさ?」
「もうそれ以上聞きたくないです。それからうちの声真似してるみたいですが、とてつもなく似てない上に不快です。今すぐやめてください」
「あ、ああ……ごめん」
酷い言い草だな、おい。
「で、結局お前はどうすんのよ?」
投げやりに僕は言った。もうさ、このやりとり永遠に続きそうな気がする。
横目で時計を確認すれば、時刻は既に午前九時を回っていた。
まいったな。もうかれこれ十分は時間を無駄にしちまった。
一人頭を抱えて落ち込んでいると、そんな僕の様子に気づいた銀はこう言った。
「お兄さん、さきほどの自らの気持ちの悪い発言を、今さら悔いても仕方がありません。言葉は取り消せない、そういうものですから」
いや、別にそのことに関してへこんでるわけではないんだが。
むしろ、あの発言のどこら辺が気持ち悪かったのかいまだに疑問に思うぐらいだ。
「それでお兄さん? 宿題が終わったら、って話は本当でしょうか?」
「ああ嘘じゃない。けど、宿題が終わったらの話だからな?」
念を押しておかないと。きっとこのペースじゃ夜までかかりそうだし、そのうち諦めて帰るだろ。
僕は決して嘘などついてないし、これなら問題ないだろう。
すると、何かを決心したように銀は立ち上がり、僕の腕を掴んでこう言った。
「分かりましたっ! うちはできる限りお兄さんをサポートしますっ!」
意気揚々と言ってのけた銀を尻目に、僕はやれやれといった感じで素気無く聞いてみた。
「お前になにができるんだ? さすがに中三に高二の勉強を手伝わせるわけにはいかないし……」
妹と比べてしまうと貧相に見える胸をポンと叩いて、口角を上げて銀は言う。
いや、別に僕は妹をそういう目で見てるわけじゃないからな。
「まあまあ、百聞は一見に如かずですよっ!」
「お、おう……」
そう言い残して銀は部屋を出ていった。なにをされるのか予想できない。
この言いようのないドキドキ感……。違うな、これは不安感ってやつだ。
銀がいなくなった後も、これから何が起きるのかとソワソワとしてしまい、まったく宿題にも手が付かない僕であった。
「だめだ……集中力が……」
ペンを置いて一度大きく背伸びをする。そのまま脱力してひとまず宿題は中断する。
どうにかなるだろ、と後回しにしてしまうのが僕の悪い癖だ。
こんな切羽詰まった状況でもなお、この有様である。
そしてまた、悪い癖だと自覚しているにも関わらず、それを改めようとはしない。
なんてダメ人間なんだ……僕は……。
二度、三度とかぶりをふって自己嫌悪寸前の自分を否定する。
だめならだめなりにやりようはある。
集中力が足りないなら、効率重視で進めていこう。
「よし、やるか!」
拳を高く突き上げて、勢いよくペンを握る。ノートを開いて、再び隣に問題集を置く。
いけるいける……すこぶる調子がいいじゃないか。
このペースなら夕方には間に合いそ――
「お兄さんっ! サンドウィッチ作ってきましたよっ!」
わずか一分で僕のスーパー集中タイムは終了した。
サンドウィッチだと? わざわざ僕のために作ってくれたのか?
確かにその心遣いは大変ありがたい。けど今はまずかったな。
人の好意を無駄にするのはいささか気分が悪いものだ。仕方ない……。
「お、おおっ……ま、まじかよ! ちょうどいまお腹すいてたんだ! いやあ……なんてタイミングがいいんだ……ははっ……」
銀の作ったサンドウィッチを一気に平らげ、「美味いな」と一言感想を言う。
僕の言葉に気を良くしたのか、銀は得意げにこう言った。
「まあ、お兄さんのことは、凛ちゃんの次によく理解してるつもりです! ですから、こんなことぐらいで喜んでもらっては困りますね!」
「そ、そうか……そいつは嬉しいな……」
ほんとは全然嬉しくないけどな。有難迷惑とは正しくこのことだ。
「それでお兄さん、宿題の進み具合はどうですか?」
お前のせいで予定よりも遅れてるよ、とは言えず……。
「まあ、順調かな?」と答えざるを得なかった。
とにかく、これ以上の時間のロスは許されない。そう思った僕は、銀にこう提案してみた。
「あのさ、特になにもしてくれなくていいから、もうそこでジッとしててくれないか?」
「ジッと……ですか?」
「そう。なんならそのベッドで寝ててもいいし」
「そうですか……それでは、不本意ながらそうさせてもらいます」
「ああ、悪いな」
健気にも僕の役に立とうと頑張ってくれていたのは分かる。
だけど、そう甘いことも言ってられないのだよ。
銀の落ち込んだ顔を見ると、罪悪感で僕の胸が締め付けられる。
「仕方ねえ……早目に終わらせるか……」
ぼそりと独りごちって、まだ空白だらけのノートにペンを走らせていくのであった。
だが、やはりあの銀が黙っていられるのも時間の問題であった。
銀が完全に沈黙してから約一時間がたったころ、ふと後ろに視線を送ると、そこには枕に顔を突っ伏せて、いかにもかまって欲しそうなオーラを醸し出す銀の姿があった。
顔は枕で隠れているので、どんな表情をしているかは分からない。
けどきっと、非常に不満気な顔をしているのは間違いないだろう。
時計を見ればまだ午前十時。休憩するにはまだ早いが、あんまり女の子を放置しておくわけにもいかないだろう。
先に言っておくが、もうみんなは十二分に理解しているとは思うが、言わせてもらおう。
決して邪な感情でこんなことしたわけじゃないからな?
僕は銀の側へと近寄り、わき腹をツンツンしてみた。
「んっ……」
身体をピクんとよじらせて、くすぐったいのを我慢している様子だ。
僕はこうすれば起きると思ったのだが、どうやら銀は寝たふりをしているのか、起き上ることはなかった。
「おーい、お前寝てるのか?」
「……」
「そのまま寝たふりすんならもう一回やるぞ?」
「……」
応答なしか。
いいだろう……これは勝負だ。
僕が銀を降参させるか、もしくは銀が僕を降参させるか、ふふ……いざ尋常に!
手始めに、さきほどと同じようにわき腹をつつく。
が、予めそうくると予想していたのだろう、微動だにしない。
じゃあどうする? 答えは簡単だ。まさかそうくる!? と思うようなことをしてやればいいのさ。
僕は鼻息を荒くして……ん? これじゃあ僕が変態みたいだな。仕切り直しだ。
僕は中学三年生の少女の寝姿に興奮して、試しにその少女の耳に息を吹きかけてみることにした。
「あう……ダメ……」
勝負あったな。気持ち良さとくすぐったさのあまり、甘い声が漏れているではないか。
「おい、もうお前の負けだ。そろそろ起きろ」
そうして降参を促すも、依然として起きようとはしなかった。
参ったな……。まさかここまで頑固なやつだったとは。
だがな、そうは言っても僕だって負けず嫌いなのだ。
このままいそいそと負けを認めてしまうのは気が進まない。
耳がだめなら……どこをどうすればいい?
足……いや違うな。王道といえば王道だが、それではつまらない。
なら顔か? これも違う気がする……さすがに顔に触れるのはまずいだろう。
おいおい、僕としたことが何も思いつかないとは。
こいつ……なかなかの強者だぞ。
ここらでざっと状況を確認してみよう。
まず銀はベッドでうつ伏せになって寝ている。
そして僕は、そんな銀の隣に腰を下ろしている状態。
じゃあ次は銀の服装だ。ショートパンツにニーソで、ショートパンツにニーソだ。そしてショートパンツにニーソというわけだが……。
おっと失礼、さっきからショートパンツにニーソしか言ってないな。
とにかくまあ、銀はショートパンツにニーソだと思ってくれてかまわない。
上はもうなんでもいいだろ? それさえ分かれば問題ない。
ハッ……あるじゃないかっ!
ショ――(以下略)――ときたら、絶対領域だ。
これしかなかろう……舐めまわ、じゃなくて、銀を降参させるならここしかない。
並々ならぬ自信を胸に秘めた僕は、布団をゆっくりと引き剥がして、うつ伏せになった銀を確認する。
うつ伏せじゃだめだな、ひっくり返そう。
もはや起きてるか寝てるのかなどどうでもよくなった僕は、銀をゴロンと仰向けにしよう、とするのだが……
「うおっ、なかなかベッドから手離さないぞ、こいつ」
僕のベッドに必死にしがみついて、決死の覚悟で離れようとはしない。
この時点で銀は寝たふりをしていたのは確定したため、もう勝負はついたはずだった。
しかし、絶対領域をこの目に焼き付けようと躍起になっていた僕には、そんなことはどうでも良かったのだ。
「ぐぬぬぬぬぬ……いい加減に……離れろ……」
「うぐぐぐぐぐ……そうも……いきません……よ」
はたから見たらバカ丸出しの二人であった。
「きゃっ!」
とうとう銀は力尽きて、ベッドから手を離した。
そこまでは良かったんだが……この体勢はどうなんだろうか。
「わ、悪い……」
「あ、いえ……うちこそ……その……すいません……」
ベッドの上で銀が僕に覆いかぶさるような形で抱き付き、そして顔と顔とがキスする間近みたいな距離感である。
銀が呼吸をすればその息が僕の顔にかかり、そしてまた僕が呼吸をすれば同じように銀に息がかかる。
下手すれば銀に聞こえているのではないかと思うほど、僕の鼓動は速まっていく。
目をそらすこともできずに、ただ二人は見つめ合うばかり。
銀の瞳はどこか蕩けたようで色っぽく、それでもって何故か悦に入るようでもあった。
「ごめんな、すぐに離れるから」
しばらく頭がぼうっとしていた僕であったが、さすがにこれはまずいと思ったのでそう言った。
しかし、そんな僕の言葉は、次の銀の意外な一言によって打ち消される。
「もう少し……このままでいてください……」
「えっ?」
えっ? えええっ!? まじで言ってんの? この子?
もう少しこのまま、ということは抱き付いたままでってことだよな?
これは事故みたいなもんだし、お互いにさらっと流しちゃえばそれで済む話なのに。
それなのに何で、銀は僕から離れることを拒んだんだ?
僕から離れたくない、僕と一緒にいたい、そういうことなんだろうか?
いやいやいや! 待てよ落ち着け、僕。冷静に考えてそれはない。
だって前に言ってたじゃないか。こいつは女の子にしか変態なことはできないとかなんとか。
要は、こいつは男に興味がないってことだろ?
だったらなぜ、今こうなってる。分からない……理解できない……。
ぐちゃぐちゃと頭で思考するものの、結論は導くことはできない。
僕の胸に顔をうずめた銀は、そのまま僕と目をあわせることなくポツリ、ポツリと言葉を紡いでいく。
「うちも、なんで自分がこんなことしてるのか分かりません……。だけど、変なんです……」
「へ、変? 変ってなにが?」
「それも分からないんです……。とにかく胸がドキドキして……息をするのが苦しくて……だけど、それがなぜか心地よくて……」
「ドキドキ? でもお前って、男には興奮とかしないんじゃなかったのか……?」
依然として僕に顔を見せようとしなかったが、その代わりに僕の服をギュッと強く握りしめた。
「そうだと思ってました……けど、それはもしかしたら……勘違いなのかもしれないです。だってほら――」
銀は言葉の途中で僕の手を掴み、そしてそのまま自らの胸へとあてる。
「え、ちょ、ちょっと待ってくれ! なにす――」
「分かりますか? 鼓動が……こんなにも速くなってる……」
僕はそのままじっとして、そしてようやく銀の行動の意味を理解した。
銀の心臓がドクン、ドクンと脈打つたびに、僕の鼓動まで加速していく。
「何て言えばいいんでしょう……緊張というか、愛しさというか……温もりというか……男の人と触れ合うのって、こんなにも気持ちのいいものなんですね?」
待て、その言い方は誤解を生むからやめてくれ。
僕は赤面しながら、どうにか言葉を返す。
「そ、そうか。そりゃよかったよ」
「はい。でも多分……うちがこんな気持ちになれたのは、お兄さんだから、だと思います。もしかしたらこれは、最初で最後なのかもしれませんけど」
そう言って銀は僕から離れていった。服をパンパンと叩いて、ベッドから下りる。
そして僕に背を向けたままこう言った。
「凛ちゃんの言ってること、ちょっと分かったかも」
そう言い残して銀は部屋を出て言った。
呆気にとられていた僕は、正気に戻って銀を追いかけるも、もうその時には既に銀は家にいなくなっていた。
「どういう意味だったんだ、さっきの」
銀の残していった意味ありげな言葉を、何度も何度も思い返す。
だが、とうとうそれは分からないまま、僕の高校二年生の夏休みは終わりを迎えるのであった。