狂った日常
コツ、コツ、コツ。
軽快なリズムを取りながら、私は上へと上った。
午後の授業は、あの嫌味な数学教師だ。
どうせ、義務教育は終わったんだから、無理に授業に出る必要もないだろう。
そう思いながら、階段を上り続けた。
ハァ。 ハァ。
こんなことで息切れをする自分に嫌気がさす。
顔を上げれば、屋上の入り口が見えた。
ドアノブに手をかけ、ゆっくりと回した。
ギィィと、耳障りな音を立ててドアが開いた。
開いた瞬間、ぶわっっと風が私を襲った。長い髪がバサバサと波打って、私の視界が真っ黒に塗り潰された。冷たい風を肌で感じて止むのを待った。 少しずつ視界を取り戻しながら、霞んだ世界を見た。
いつもと変わらない風景の中、違和感を見つけた。
柵の向こう側に、人間がいたのだ。
「なにしてんの?」
なんて呑気に質問しながらその方向へ向かった。
そいつは隣の席の相澤だった。なにかと縁があって、2年間同じクラスだった。かといって仲が良かった訳でもない。 単なる他人。と言ってしまえばそれだけのことだ。
「見ててわかんない?」
質問を質問で返された。質問したのは私なんだから答えてくれたっていいじゃない。
「あーー。 空飛ぶの?ムリムリ、アンタに翼なんか生えてない。」
本当はこんな答えじゃないってわかってるけど、私は微笑って相澤に言った。
そうでなかったら良いと願っていたのかもしれない。
「そんな訳ないだろ。どう見ても飛び降りようとしてんだけど。」
「いやね。もしかしたら飛ぼうとしてるかもって可能性もあったからさ。そんな人に自殺するのっていったらかわいそうでしょ。」
呆れた顔で相澤はこっちを見た。
でも、何処か感情が欠落した様な顔だった。何もかも受け入れた顔だった。何もかも諦めた顔だった。これを人間と呼ぶのは相応しいだろうか?
「死ぬの?」
生死なんてさして関係ないかのように問い掛けた。
実際、私達にそんな事どうでもいい。
私たちはもう、死んでいるようなものだから。世界は私たちを受け入れてはくれなかった。
「さぁ? どうだろう。俺はただ、自分の居場所を探しに行くだけだから。死ぬなんてそんなに考えてない。」
「でも、そんな所にいるんだから死ぬんでしょ。」
「かもね。」
「じゃあ、死ねば?」
まるで日常会話かなにかのように、ただ淡々と言葉を紡いだ。
嗚呼。 目の前に広がる現実が分からなくなったのはいつだったか。
「一人の人間が死のうとしてるのに、君は止めようとしないのか?」
「止めたってアンタは聞かないくせに。」
間髪いれずに私は言った。
私は無意味なことはしたくない主義だから。アンタが死んだって私は哀しくなんか無いし、寂しくもない。世界は何も、変わりはしない。
「じゃあ、何を待ってるの?」
「君が来るのを待ってた。」
「へぇ。」
よく私が此処へ来ると判ったことに感心しながら
口の端を吊り上げて、さも面白いかのように次の言葉を待った。
「死ぬ前に、ちょっと色々と聞きたいことがあったから、聞いておこうと思って。」
「なぁに。」
「この世界にさ、意味なんてあるのかな。」
手前の柵にひじをついて、やる気があるのか無いのか分からない顔で言った。
こいつと話をしていると、
隠し持った感情がばれそうな気がしてならない。
「何を今更。世界に意味なんてあったら人間なんて生きていけないよ。」
世界に意味なんてあったら、出来損ないの私なんて創らないよ。
意味が無いから私達は生きていけるんだ。
「じゃあ、生きる意味は必要?」
「さぁ。 それは人それぞれだと思う。
でも、ほとんどの人は生きる意味を持っていないよ。」
「そんなものかな。」
他人事のように、何の感情も感じられない声音だった。
否、他人事なのかもしれない。
「俺はさ、生きる意味が分からなくなった。自分の居場所を捜しているうちに生きる意味を無くしてしまった。
君は、何のために生きてる?」
「私は生きるために死に、死ぬために生きてる。」
「へぇ。 君に生きる意味があったんだ。」
相澤は、少し口を引きつらせて嫌味を言った。
笑った顔は無気味に見えてならない。私も、こんな風に見られているのだろうか。
「別に意味ってわけではないけど、よく居るでしょ 生きる意味は皆にある。生きる意味を探すために生きてるって言う人。そんな人に言い訳するために考えてみた。
私はこの世界では生きていけないから死ぬしかないし、でも、死ぬためには生きないと死ねないから。」
そうでしょう、って皮肉を込めて微笑って見せた。
このどうしようもなく、くだらない世界で生きていく術を生憎私は持っていないから。
誰も、与えてはくれなかったから。
「私もあんたと同じで、幸せを探して意味をなくした。」
「失くしても、何故生きる? 生きていける?
意味が無いと知って怖くないのか?」
駄々をこねる子供のような双眸で見据えてきた。私はそれを一瞥しただけで、空を見上げた。
何故か、雲ひとつ無い空に無性に嫌気がさした。
「生きる意味が無くったって、ヒトは生きていける。意味なんて始めから無かったのに、今更脅えたって遅いでしょ。」
意味が欲しいなんて、私が言う権利も資格も無い。
私は只、堕ちていくだけ。
深い、深い
孤独の淵へ。
「私に意味なんて要らない。私が幸せだと感じることができたら、それだけで生きていける。」
意味なんて求めないから、幸せくらいくれたって良いじゃない。
他は何も望まないからさぁ。
ひとつだけでいい
ひとつだけ。
一瞬だけでもいい。幸せだと呼べるもの与えてよ。
「でもさ、この壊れた世界に幸せなんてあるのかな?
現に、君は幸せを持っていないだろ。」
しっかりとした口調で、確信を持って相澤は言った。
そう。それは紛れも無い真実で、事実で、否定することが出来ない。
それでも私は、
「アンタに私の幸せなんて解らないでしょ。
何が幸せで、何が不幸かなんて、自分自身で決めることなんだから。」
嘘を吐く事でしか生きて行けないんだから、
これ以上、何も言わないでよ
私は、壊レタク ハ ナイ カ ラ
アンタみたいになりたくない。
アンタみたいに受け入れたくない。
「それでも、君の心は満たされてなんかないよ。満たされてたら、こんな所に一人でいないだろう。」
どうしてアンタは、私の中に入ってくるの。いつもいつも、ヒトの心を見透かして、
虫唾が走るわ。
「あははは!! そうね! 私は満たされてなんかない。中身なんて空っぽだから。何にも入ってなんかない。」
声を上げて、笑って見せて、全て投げ出した。
どうせ私は、弱い自分が創り上げたかりそめの虚像でしかない。
「それは違う。」
きっぱりと言葉を告げた。
私の顔から表情が消えた。一体何が、
「一体何が、違うというの?」
私の中は空っぽで、どうしようもないくらい不安なのに、なんで?
「どこが違うって言うの?」
何が、何が?
アンタに何が解るって言うの?
「君は満たされてもないが、空っぽでもない。別のもので埋め尽くされているんだ。」
思考静止。理解不能。
アンタの言っていることがさっぱり解らない。嗚呼、私もとうとう完全に壊れてきたかも。
誰でもいいから、この腐敗を止める術を教えてください。
「じゃあ、一体何が私を埋め尽くしているの?」
「君は憎いだろう。この世界が。嫌いで、憎くて、不公平で、理不尽で。どうしようもないだろう。」
そんなの、憎くて当たり前じゃない。
この不公平さを、
この理不尽さを、
全て受け入れろって言うの?
「まぁ、その全てを例え受け入れても、何の変わらない。幸せにもなれない。どっちにしてもそんな感情しか待てなかったら幸せには為れない。」
幸せ・・・ねぇ。
知っているんだろうな、自分は。
この世界に自分の幸せがないってことに。それでも、それでもソレを求めている自分はもう手遅れ。
「まぁ、そうだね。相澤の言う通りかもね。
人間はさぁ、最終的には一人なんだよ。孤独からは絶対に逃げることは出来ない。私はそれが怖いんだよ。どうしようもなくね。だから、自分を偽って他人と仲良しごっこに付き合って、幸せだと思うことしか出来なかったんだよ。」
幸せさえも偽って、私は何がしたかったんだろう。
幸せってそんなに重たい物だったのかなぁ。
私の幸せはなんだったのだろう。
何が、欲しかったんだろう。
「幸せが手に入らなかったのに、君は自分の居場所を持っているのか?」
もうそろそろ話が終わるんだな、なんて漠然と考えてみたりして、探してみた。自分の居場所を。
「在るよ。」
これは私にとっての唯一の真実。
もし、自分の居場所さえも無かったら、今を生きていくことも出来なかったろう。
「在るよ。 居場所。」
「何処に?」
少し眉を寄せて、納得いかない顔で私を見据えた。
「此処だよ。此処。私の場所が、私の世界が自分の居場所。どんな醜い世界でも、其処でしか私は生きれない。」
「そうか・・・・・。」
それだけ言って、相澤は何も言わなくなった。
其れが何だか虚しくなったけど、それ以外は何も思わなかった。
もう、私に対する質問は終わったのだろう。
なら、
「私からもさ、質問していい?」
アンタにしか聞くことは無いだろう質問を。
少し驚いたアンタの顔ほど、面白いものはないだろうと思いながら。
「アンタは、幸せだったの?」
こんな単純で難しい質問を、他人はいとも容易く応えていくんだろうな。
其れが真実でも、偽りでも。
其れがその人の答えなのだから。
「どうだろう。幸せだったのかな?そうだったかも知れないし、そうでなかったのかも知れない。どっちにしろ、俺には意味が無い。」
どうせ
どうせ 私達が求めているものが無くったって、生きていける。其れに、変わりは無いって事なのかな。 ホント どうでもいい。
「もしかしたら、もしかしたら
君といた場所が、時間が、幸せだったのかもな。」
はぁ。
ホント、最後の最後に凄い事ぶっちゃけるな。其れでも、死に行くものかよ。
「君といたら、居場所が出来たかも知れないな。」
「そしたら、私の居場所がなくなっただろうな。他人に邪魔されない世界こそが私の世界なんだから。
今更、後戻りなんて出来ないんだよ。」
そう、もう何もかも遅いんだ。戻ることなど、許されない。
永遠など在りはしないんだ。
いずれ人は死ぬ。
只、速いか、遅いかの違いだけ。死から逃げる事は出来ない。
欲望のオマケとして創られた私達は、無理矢理生きることを背負わされて、無理矢理死ぬ定めを背負わされて、無責任なこの世界へと、次々に放り出されるんだ。
確実に、私達は死へと向かっている。
何処かの誰かが言っていた。
自殺することは逃げることなんだよ、と。
私にとっては、自殺も他殺も死ぬことに同じことに変わりは無かった。
でも、
其の人は、この理不尽な世界を、残酷な世の中を、必死で生きていた。もしかしたら、目の前の相澤も必死で生きていたのかもしれない。
「そろそろ、逝くよ。」
もう私を見ていない相澤は、自分の居場所を見つけに行くんだ。これは逃げにいくんじゃないと、私は想った。
「私もすぐ、追いつくと思うよ。」
アンタとは違う場所で。
祈ってるよ、居場所が見付かりますように。幸せになりますように。
口には出さないけど。
「一緒に死にたいなんていうなよ。」
「アンタとなんか死にたくないよ。」
なぜか相澤は、こっちを向いた。
「 」
「えっ?」
又しても、私は風に覆われた。其の向こうで人影が姿を消した。
人は呆気なく死ぬ。消える。忘れられる。
誰かが死んだって、世界は廻り、何も変わらない。いつでも世界は人間をおいて過ぎ去っていく。
人が死んだ。相澤が死んだ。
フェンスの向こうに、血塗れでひしゃげた抜け殻があるんだろう。
三歩歩いて立ち止った。私にとって相澤が死のうが生きようが知ったことではない。興味などない。私が今知ることは、相澤が居なくなった世界がどうなったかだ。
どこまでアイツは私の中に根付いているのか。でもどうせ、この感情が揺らぐことはない。何も変わりはしないだろう。
後ろを振りかえって、ドアに手をかけた。
相澤の最後の言葉が、蘇った。
どうして最後に、そんな言葉を残すの。私は何もしていない。そんなことを言われる筋合いなんてないじゃない。
ギィィと、耳障りな音を立てて、ドアが開いた。
私は振り返り、フェンスを見た。
「どういたしまして。」
バタン、とドアが閉まった。
この声が相澤に届きませんように。