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雨雨、黒猫。

作者: 小西和紀
掲載日:2026/08/14

「はぁ……つかれたぁ」


 雨の気配を感じ、急いで家に帰った結衣は、一直線に寝床へダイブした。こうすると血が巡るのか、疲れた脚の芯から温もりが滲んでくる。

 しかし、結衣は眠気を振り切るため、沈み込んだ体を勢いよく起こし、仕事着を部屋着に着替えた。金曜日の夜はお酒を飲みながら、映画を観て眠るのが、入社して以来の習慣なのだ。


 大学入学時に門出祝いで両親が贈ってくれた小振りの冷蔵庫。そこから、キンキンに冷えたビールのロング缶を2本取り出す。お供を探そうと下段の冷凍庫を開くと、結衣は愕然とした。

 そこにあるのが、少しの保冷剤だけだからだ。


「うぅ、買うの忘れてたぁ」


 結衣は突然、どうしようもない虚無感に襲われた。繁忙期の尾を引く忙しい平日を、この日のために走り抜けたのに、冷凍食品を買うことすら先延ばしにしたツケが、いま回ってきた。

 おつまみのない映画鑑賞なんて、寂しすぎる! 結衣の頭には、完璧な布陣を整えるという使命感が芽生えていた。


 壁越しに遠く聞こえる雨の響きが、買い出しに行くのを億劫にさせるが、それ以外に選択肢はない。玄関へ向かうと、脱ぎ捨てられた革靴をそそくさと整え、サンダルを履く。ビニール傘を片手に扉を開けると、小雨が大雨に変わるみたいに、雨音が輪郭を持った。


「思ったより激しいなぁ……」


 結衣は雨除けのある外廊下を渡って、サンダルが脱げないよう慎重に階段を降り、雨中へ踏み入った。雨に打たれたビニールの生地が大袈裟に騒ぎ始める。

 傘に蓋をされた視界では、頭上の水玉やアスファルトを這う雨水、そこに起こる水柱などからしか、夜に隠れた雨の姿を確かめることはできない。


 徒歩10分ほど離れた最寄り駅は、大路の歩道橋を渡った通りに位置し、コンビニもその付近にある。歩道橋の上からは、遥かに聳える摩天楼の端で、赤く明滅する光が雨空に延びるのが見えた。

 普段なら顔を顰めるようなバイクの騒音も、少しは雨が和らげてくれる。結衣はそれに乗じて、鼻歌を始めた。


 やがて、結衣は漸くコンビニの手前に辿り着いた。街灯に添う街路樹が、光のうちに姿を曝す雨の片鱗に、闇に透く青葉を撓ませている。結衣は偶然、木の下の茂みに、雨に濡れた地面と見分けがつかないほど黒い、蠢くものを見た。

 結衣に気づいたそれは、黄月色の双眸を覗かせ、甘い声で鳴いた。猫らしい。黒猫特有のしなやかで優雅な体躯が、却って雨夜に弱々しい感じを醸し出している。


 暗がりに溶ける黒毛の境が時折、照明に毛の起立を浮かばせているため、濡れてはいないことがわかる。けれど、黒猫の人たらしな鳴声に当てられた結衣の心には、心配の念が込み上げた。結衣はおつまみを買うついでに餌でも買ってあげようと思い、急いでコンビニに入った。


 与えやすそうなチューブタイプは、複数個まとめて売っているものしかない。結衣は猫を飼っている友人を思い浮かべ、構わずカゴに入れた。おつまみは枝豆やスルメイカ、ポテトチップスなどのちびちび食べられるものを選んで手早く会計を済ませた。が、外へ出た結衣を待っていたのは、雨上がりのしっけた夜だけだった。黒猫の姿はない。


「行っちゃったか」


 結衣は不意に漏れた声がずいぶん響くことに驚いた。チューブタイプの餌はしばらく置物になるだろう。それでも結衣は、いつもより軽やかな気持ちで帰路についた。

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