十年間「子どもはいらない」と言い続けた妻が、秘書の子を妊娠していた
浮気をしている人間ほど、家に帰ると伴侶に優しくなる――そんな話をよく聞く。
だから、清香が七年ぶりに俺を買い物へ誘い、東央都蒼京区にある老舗百貨店へ迷いなく入っていったとき、胸の奥に小さな違和感が生まれた。彼女は紳士服売り場で新作のスーツやシャツを次々と選び、紳士雑貨のショーケースから銀色のカフリンクスを取り出すと、俺の袖口に合わせて真剣な顔で見比べた。
「ほかに欲しいものはない? 気に入ったなら、まとめて買えばいいわ。家のウォークインクローゼットも空いているし、そろそろ全部入れ替えてもいいでしょう」
結婚して十年。彼女が俺の服を選ぶのは、七年ぶりだった。
鏡越しに清香の横顔を見ながら、俺は突然の優しさを問いたださなかった。結婚したとき、俺たちは彼女の姓を選んだため、戸籍上の俺は御影朗になった。ただし、記者としての記事や著書では、結婚前から使っていた高瀬の姓を通している。
十年前、清香は俺を捜すため、危険を承知で紛争地へ入った。その記憶がある限り、たとえ疑いが芽生えても、すぐに彼女を切り捨てることはできなかった。
少なくとも、その夜まではそう思っていた。
1
午前三時、枕元で淡く光る画面に目を覚ました。
隣では清香が静かな寝息を立てている。スマートフォンはロックが解除されたままで、姓名判断アプリの画面が開かれていた。
表示されていたのは、恋愛相性診断の履歴だった。
御影清香。
相沢文哉。
相性度、九十九パーセント。
目が痛くなるまで画面を見つめたあと、俺は清香の肩に触れた。
「清香。これは何だ?」
彼女は眉を寄せて目を開け、画面を一度見ただけでスマートフォンをナイトテーブルへ戻した。
「文哉は私の秘書よ。仕事中に私のスマホを触ることくらいあるわ。あの子が勝手に何をしたかまで、いちいち把握できないでしょう。若い子がよくやる遊びみたいなものなのに、本気で気にしているの?」
清香は小さく息をつき、眠そうに髪をかき上げた。
「気になるなら、これからは個人用のスマホに触らせない。それでいい?」
まるで、俺が意味のないアプリに過剰反応しているだけのような口調だった。
俺は反論せず、ナイトテーブルの一番下の引き出しを開けた。以前から弁護士に準備してもらっていた離婚協議書と離婚届を取り出し、彼女の前へ置く。
「ここまでにしよう」
「相性診断ひとつで?」
「そうだ」
寝室に沈黙が落ちた。清香は書類へ視線を落とし、疲れたように眉間を押さえると、離婚協議書をテーブルの端へ押し戻した。
「もう三時よ。こんな時間に、どうしても話さなきゃいけない? 続きは明日にして。今日は本当に疲れているの」
そう言ってバスルームへ向かう背中は、これまでの口論のときと同じだった。先にその場を離れ、俺が自分の言い方を反省し、あとから謝りに来るのを待つ。俺も長いあいだ、その流れに慣らされていた。
あの夜も反射的に立ち上がりかけたが、椅子のそばに落ちたものが目に入って足を止めた。
清香のジャケットのポケットから、濃紺のネクタイが滑り落ちていた。拾い上げた瞬間、数か月前に彼女へ見せた、男性向けのコーディネート動画を思い出す。
あのとき、清香は画面を一瞥しただけだった。
「販促用の動画でしょう。ネクタイなんて、どれも同じに見えるわ。私には分からない」
手の中のネクタイは、どう見ても俺のものではなかった。
分からなかったのではない。
俺のことを、見ようとしていなかっただけだ。
ナイトテーブルの上で、特別に設定された着信音が鳴った。画面には「文哉」と表示されている。
清香はすぐにバスルームから出てきた。俺を一度だけ見たあと、スマートフォンを手に窓辺へ移動する。その声には、さっき俺へ向けたものとは違う柔らかさがあった。
「どうしたの? 指を切った? 水には触れないで。清潔なガーゼで押さえておいて。すぐ行くから」
通話を終えると、清香は脱いだばかりのジャケットを手に取った。焦っているのか、ボタンを二度も掛け違えている。
「清香。俺を裏切ったのか?」
二十五歳の清香なら、そんなことを口にした俺を抱きしめ、髪に口づけながら笑っただろう。どうしてそんな馬鹿なことを考えるのかと呆れながら、一生あなただけを愛すると何度でも言ってくれたはずだ。
三十五歳の清香は、俺と目を合わせなかった。
「変なことを考えないで、もう寝て。文哉が料理中に手を切ったの。一人暮らしだし、少し様子を見てくるだけ。すぐ戻るわ」
俺はボールペンのキャップを外し、離婚届の横へ置いた。
「署名してくれ」
清香の胸が大きく上下し、目に苛立ちが浮かぶ。
「朗、いつまでこんなことを続けるつもり?」
俺はペンを彼女の手元へ押しやった。
「本気だ」
数秒間見つめ合ったあと、清香は離婚協議書と離婚届の両方に署名した。俺をなだめるために形だけ応じれば、今回もこれまでと同じように、時間がすべてを曖昧にしてくれると思っていたのだろう。
玄関のドアが閉まる鈍い音を聞きながら、俺はベッドの端に座ったままだった。
清香は、一度も振り返らなかった。
2
清香が出ていったあと、十年を過ごした寝室を見渡した。彼女の服はいつの間にか減り、ベッド脇の写真立てには薄く埃が積もっている。この部屋が夫婦の寝室だった証拠は、壁に残った結婚写真くらいしかなかった。
清香が帰宅しない夜が、これまでに何度あったのか思い出せない。出張、会食、会社での仮眠――その言葉の裏に何があったのか、もう調べる気にもなれなかった。
夜が明けると、俺は弁護士に離婚書類の内容を確認し、エルザン王国行きの航空券を予約した。エルザンはカルディア共和国と国境を接しており、国際報道機関が現地へ入る際の主要な中継地になっている。
スマートフォンを置いた直後、LINEに知らないアカウントからメッセージリクエストが届いた。
相沢文哉。
プロフィール画像は、雪の中で横顔を見せる写真だった。俺は名前を頼りに彼のInstagramを探し、公開されている投稿を開いた。
若い頃の俺と、驚くほど似ていた。
目元や輪郭だけではない。細身の体つき、服の合わせ方、写真に映るときの首の傾け方まで、二十五歳の俺の写真を参考にしたのではないかと思うほどだった。
文哉は東央総合大学経営学部を卒業し、御影ライフ株式会社へ入社したあと、社長付き秘書として働いている。清香より十歳年下で、俺が彼女と出会った頃と同じ年齢だった。
LINEの入力中表示が長く続き、やがて複数のメッセージが送られてきた。
「御影社長は仕事でかなり疲れています。パートナーなら、あんなことで追い詰めるべきじゃないと思います。昨夜、離婚届は破ると僕に約束してくれました」
続いて、一枚の写真が表示された。
清香がマンションのキッチンで膝をつき、文哉の指に包帯を巻いている。椅子に座った彼は、負傷した手を彼女の掌へ預けていた。親密さを見せつけるために撮ったとしか思えない構図だった。
その写真を見て、二年前、カルディア国境付近で発生した武装衝突を思い出した。当時の俺はフリーの戦場記者で、取材班が滞在していた地域では暴動が起き、外部との連絡が一時途絶えた。
知らせを受けた清香は、進行中だった取締役会を中座した。保険会社と危機管理会社に確認を取り、入国手続きと退避経路を整えたうえで、隣国のメディア連絡拠点まで駆けつけた。
俺を見つけた瞬間、彼女の目は赤くなった。
「朗、自分がどれだけ心配をかけたか分かってる? もし本当に何かあったら、私はどうやって生きていけばいいの」
その出来事をきっかけに、俺は前線取材からいったん離れた。もう二度と、死亡通知を待つような時間を過ごしたくない――清香にそう言われ、東央都へ戻って国際情勢の記事を書きながら、家のことも多く引き受けるようになった。
夫婦で決めたことだと思っていた。
今になって振り返れば、俺は自分の人生を少しずつ畳み、すでに腐り始めていた結婚の中へ押し込んでいただけだった。
文哉から、さらにメッセージが届いた。
「清香さんは妊娠しています。僕の子です。最初は、清香さんとの間に子どもが一人いれば、それで満足できると思っていました。でも、人は欲張りになるものですね。今は、彼女と本当の家族になりたい。朗さん、清香さんを僕に譲ってくれませんか」
添付されていた超音波検査の画像は、患者名や医療機関名が見えないよう加工されていたが、続く文面だけで十分だった。
清香は結婚前から、子どもを望まないとはっきり言っていた。俺たちは何度も話し合い、彼女の意思を尊重すると決めた。俺が家族の形について迷いを見せたときも、清香の考えは変わらなかった。
それなのに文哉のためには避妊をやめ、妊活のために婦人科へ通っていた。
胃の奥から強い吐き気が込み上げた。俺は画面を閉じ、清香へ電話をかける。
呼び出し音が長く続いたあと、先に若い男の声が聞こえた。
「誰?」
その直後、清香が声を潜める。
「静かにして。朗から」
向こうの様子には触れず、俺はスマートフォンを握り直した。
「昨日、離婚届に署名しただろう。財産分与については弁護士から連絡する。書類は予定どおり提出する」
長い沈黙のあと、清香は戸惑ったように息を漏らした。
「離婚届って、何の話?」
やはり覚えていなかった。
清香は会食で酒を飲むと、翌朝に細かなやり取りを忘れることがある。昨夜は受け答えができる状態だったが、あの二枚の書類を本気で受け止めてはいなかったのだろう。
「離婚協議書にも離婚届にも、君の署名がある」
「そこまでしたいなら、勝手にすれば。今は話せない」
それが、清香がしらふで示した答えだった。
「分かった」
俺は通話を切った。
思い返せば、二人の関係には以前から兆候があった。
文哉と初めて会ったのは、二年前、清香がカルディアまで俺を捜しに来たときだ。出張手配は秘書室が担当し、文哉は航空券、保険、現地との連絡を任されていた。それなのに出発当日、彼は随行秘書として自分の荷物まで持って現れた。
清香はあとで、重要な出張だと勘違いして同行したのだと説明した。今思えば、あまりにも都合のいい話だった。
初対面のとき、俺の視線が文哉の顔に止まると、清香はすぐに俺の手を握った。その表情はあまりにも自然で、疑う余地などないように見えた。
「初めて見たとき、私も若い頃の朗に似ていると思ったわ。でも、顔で秘書に選んだわけじゃない。経営学部を出ていて、英語もエルザン語も話せるし、実務能力にも問題はない。気になるなら別の部署へ異動させてもいい。たかが秘書一人、朗より大事なわけがないでしょう」
あの頃の俺は、その言葉を信じた。
それから数週間、俺は荷物と資産関係の書類を整理した。弁護士が離婚届を確認し、成人した知人二人に証人欄を記入してもらったあと、蒼京区役所へ提出した。
受理された日、戸籍上の姓も高瀬へ戻った。
もう、御影朗ではない。
高瀬朗に戻ったのだ。
俺名義になっていた御影ライフの株式については、未公表の内部情報を把握している可能性があるため、一切売買せず、関係書類ごと弁護士へ預けた。以前仕事をしていた東央国際通信社にも連絡を取り、カルディア取材班の安全計画と入域経路を確認する。
その頃、清香は文哉を連れて各地を旅行していた。二人がリヴェラ共和国でジェラートを食べている頃、俺は荷造りを終えた。ノルディア諸島でオーロラを見ている頃には、取材機材の輸送手配を済ませ、フロレーヌでブランド映像を撮影している間に、高危険地域取材訓練を修了した。
弁護士を通じて、清香からは何度か連絡があった。財産関係の手続きを止めろ、離婚は認めない――そう主張していたが、離婚届はすでに受理されている。
彼女は、結果を受け入れたくないだけだった。
フロレーヌから帰国した清香は、高級マカロンの箱を土産に持ち帰った。
彼女が俺へ贈り物をするのは、二年ぶりだった。だが俺は甘いものが得意ではなく、クリームの強い菓子を食べると気分が悪くなることさえある。
清香は箱をダイニングテーブルへ置き、遅すぎた機嫌取りのような笑みを浮かべた。
「開けてみて。ずいぶん迷って選んだのよ」
選んだのが彼女なのか、文哉なのかは聞かなかった。
清香はようやく、部屋から多くのものが消えていることに気づいた。ウォークインクローゼットは半分ほど空き、書斎にあった取材資料や撮影機材も片づいている。彼女はクローゼットの中を見回し、自分に都合のいい答えを見つけたらしい。
「服はどうしたの? ようやく買い替える気になった? あのスーツはもう処分してもいい頃だったでしょう。いつも同じものばかり着ていたし、ネクタイだって顔色に合っていなかった。文哉に何着か選ばせるわ。あの子、最近のものには詳しいから」
スマートフォンを取り出す彼女を見ながら、俺は静かに尋ねた。
「いつから、俺に似合うネクタイが分かるようになった?」
清香の指が止まった。短い沈黙のあと、彼女は髪に触れる。
「会社には男性社員も多いもの。普段からそういう話を耳にするのよ。古いものは捨てればいいでしょう。人に選ばれるのが嫌なら、今度は私が百貨店へ付き合うわ」
清香は嘘をつくとき、無意識に髪を触る。俺がそれに気づいたのは、つい最近のことだった。
七年前の彼女は、俺のために温かい飲み物を買おうと、雪の中で二時間も列に並んだ。今は仕立てのいいスーツを着て俺の前に立ち、スマートフォンには別の男とのやり取りを表示したままだ。
「清香の言うとおりだ」
この家にあるものは、もう何一つ自分のものではないように思えた。
「古くなったものは、捨てるべきだな」
3
一週間後、御影ライフ株式会社の新商品発表会が開かれた。
会場は蒼京湾国際コンベンションセンター。取引先や販売代理店のほか、経済紙やライフスタイル誌の記者も招かれている。予定より早く到着した俺の前に、清香は文哉と腕を組んで現れた。
文哉が着ていたのは淡いグレーのスーツで、首元には寝室で拾った濃紺のネクタイが結ばれていた。二人は舞台裏の通路から出ても、すぐには離れなかった。
清香が人混みの中に俺を見つけた瞬間、文哉の腰に添えていた手が離れた。
取引先企業の常務執行役員がグラスを持って近づき、三人の様子を見比べる。
「高瀬さんもいらしていたんですね」
そのまま立ち去ろうとする相手を呼び止め、俺は文哉へ手を向けた。
「もちろんです。ご紹介します。こちらは相沢文哉さん。御影社長が最も信頼している秘書です。東央総合大学の経営学部を出た、若くて優秀な方ですよ」
清香が俺の袖をつかみ、声を落とす。
「朗、何をするつもり? さっき少し具合が悪くて、文哉に支えてもらっただけよ。ここで騒がないで」
俺は笑っただけで答えなかった。
文哉は一歩前へ出た。表情は穏やかだったが、目には隠しきれない挑発が浮かんでいる。
「高瀬さんにそう言っていただけるなんて光栄です。今の僕があるのは、御影社長にご指導いただいたおかげです」
彼は最初から、清香の陰に隠れ続けるつもりなどなかった。若い頃の俺を真似し、いつか俺の場所へ立つことを望んでいたのだ。
俺は清香の腕を取り、メインステージへ向かった。文哉は当然のように後ろをついてくる。
新商品の紹介が終わると、ブランド映像が流れるはずだった大型スクリーンが暗転した。
俺は司会者からマイクを受け取る。
「最後のプログラムに入る前に、御影ライフにとって非常に重要な方をご紹介します」
清香の表情がわずかに強張った。
俺は文哉を壇上へ促した。
「相沢さんは、本当に頭のいい人です。彼が選んだ一歩一歩は、すべて御影社長の心を正確に捉えていた」
スクリーンが再び点灯する。
映し出されたのは、社内の公益通報窓口に寄せられ、監査役会が外部弁護士へ調査を依頼した資料の一部だった。入退館ログ、法人カードの利用明細、海外出張名目で購入された航空券とホテル代、深夜に二人が社長室を出る廊下の防犯カメラ画像。
個人情報や調査上の秘密に触れる箇所は加工され、法的に開示可能な範囲だけが示されている。文哉の私用マンションは社宅制度の対象外だったにもかかわらず、撮影スタジオの賃料として関連会社から支払われていた。
最後に表示されたのは、文哉が自ら送ってきたLINEの文面だった。超音波画像そのものは映さず、清香の妊娠と、自分が父親だと認める部分だけを抜粋している。
会場中でシャッター音が鳴り始めた。清香は血の気を失い、俺の手からマイクを奪おうとしたが、俺は一歩下がった。
「資料はすでに監査役会と社外取締役へ提出されています。今後、会社がどう判断するかは、もう俺には関係ありません」
清香は反射的に腹部をかばった。その仕草を、記者たちは見逃さなかった。
文哉が彼女の隣へ駆け寄る。
「もう清香さんを責めないでください! 彼女は妊娠しています。僕の子です!」
会場がどよめいた。
俺は書類ケースから、蒼京区役所が発行した離婚届受理証明書を取り出し、カメラへ向けた。
「もう一つ、お知らせがあります。離婚届は正式に受理されました。法律上、俺と御影清香はすでに夫婦ではありません」
俺は隣に立つ文哉へ視線を移した。
「だから相沢さんは、もう誰かの陰に隠れる必要はない。今日から堂々と、御影社長の隣に立てます」
記者の質問とシャッター音が、会場を埋め尽くした。
清香は文哉の前へ出て、カメラが近づくのを防ぎながら、スタッフへスクリーンを消すよう指示しようとしている。普段なら冷静に現場を掌握する人が、短い命令すらうまく口にできていなかった。
その姿を見て、昔の記憶がよみがえった。俺を笑わせるために、清香は何度も大げさな顔や不器用な真似をした。
あの頃の彼女は、俺を愛していた。
今は、別の男を守っている。
「いつからだった?」
口に出した瞬間、自分が思っていたほど冷静ではないと気づいた。
清香は動きを止め、混乱する人々の向こうから俺を見た。その目には罪悪感と、隠しきれない動揺が入り交じっていた。
「朗、全部知っていたのね。お願い、まず話を聞いて。家に帰ってから、ちゃんと説明するから」
その呼び方を聞くのは久しぶりだった。
いつからか、彼女は俺を「朗」と呼ばなくなった。親しい呼びかけは消え、普段は曖昧な「ねえ」で済ませ、口論になれば「高瀬朗」と距離を置くようになっていた。
俺はマイクを下ろし、壇上を降りた。
清香はジャケットを脱いで文哉の肩へ掛けると、俺を追ってくる。
「朗、待って」
彼女の庇護を失った文哉へ、さらに多くのカメラが向いた。青ざめた彼は、肩に掛けられたジャケットを強く握りしめる。
「清香さん! 今日その人についていくなら、僕はもう二度とあなたの前に現れません。子どもにも会わせない!」
清香は俺の手首をつかんだまま、足を止めた。振り返った顔には、はっきりと迷いが浮かんでいる。
あまりにも滑稽だった。
若い恋人を失いたくない。それでも、離婚した夫も手放せない。自分が苦しそうな顔をすれば、周囲がその身勝手さを理解してくれるとでも思っているのだろうか。
文哉は清香がまだ俺をつかんでいるのを見ると、壇上から降りてきた。
「どうしてまだその人を引き止めるんですか。もう離婚したんでしょう? 発表会を台無しにして、僕たちをこんな目に遭わせたのはその人です。僕か、その人か、どちらかを選んでください」
俺は手首を強く引き抜いた。
「二人でゆっくり決めればいい」
それ以上は振り返らず、記者とスタッフの間を抜けて会場を出た。
4
タクシーがコンベンションセンターを離れた直後、東央国際通信社から電話が入った。
カルディア北部の情勢が急激に悪化し、現地取材班の一部が安全上の理由で撤収したという。編集部は、隣国側の国境地域で取材を引き継げる経験者を探していた。
俺はすでに危険地域取材訓練と保険審査を終え、エルザンへの入国許可も取得している。
「高瀬、最短でいつメディア連絡拠点に入れる?」
時刻を確認した。
「明日の夜です」
運転手に行き先の変更を頼み、そのまま東央国際空港へ向かった。本来なら発表会のあと、受理証明書を清香へ直接渡すつもりだったが、もう必要はない。
俺には、戻るべき仕事があった。
清香が会場の外へ飛び出したとき、タクシーはすでに幹線道路へ入っていた。
背後では記者たちが質問を浴びせ、広報担当者と警備員が彼女を人混みから引き離している。文哉は会場で過呼吸を起こして倒れ、救急搬送された。
発表会は中止され、監査役から緊急報告を受けた取締役会は臨時会を開いた。第三者委員会の調査が終わるまで、清香を代表取締役の業務執行から一時的に外すことが決議された。
それでも、清香の頭には何も入らなかった。
遠ざかるタクシーと、振り返らずに去った朗の背中だけが残っていた。
清香は病院へ行かず、月見台の自宅へ戻った。
玄関のセンサーライトが点灯しても、部屋の中から生活の音はしなかった。清香は靴を脱ぐことも忘れ、何度も朗の名を呼んだが、返事はない。
シューズボックスから彼の靴はすべて消えていた。長年履いていた室内用のスリッパは、ごみ袋に入れられ、玄関脇へ置かれている。
寝室へ向かいながらも、清香はわずかな可能性にすがっていた。朗はただ怒っているだけで、部屋の中にいるのかもしれない。説明を待ち、昔のように自分から抱きしめれば、まだ間に合うのではないか。
扉を開けると、ウォークインクローゼットは半分空になり、ベッド脇にあった結婚写真も消えていた。
その瞬間になって初めて、持ち出された服と撮影機材が何を意味していたのか理解した。
朗は、彼女が折れるのを待っていたのではない。
もう出ていったのだ。
清香はスマートフォンを取り出し、何度も電話をかけた。電源は切られたままで、LINEに送ったメッセージにも既読がつかない。
どれほど激しく言い争っても、朗は連絡手段まで断つような人ではなかった。姿を消して相手を罰することも、わざと心配させることも嫌っていた。
だからこそ、今回の完全な沈黙が恐ろしかった。
着信は何度もあったが、表示されるのは文哉の名前ばかりだった。七回続けて切り、八回目に画面が光ったとき、清香は一瞬だけ朗からだと思った。
名前を確認したあと、文哉をブロックした。
窓の外が明るさを失っていく。
ベッドの端に座った清香は、自分がいつ一線を越えたのかを、初めてまともに振り返った。
文哉と出会ったのは、御影ライフの秘書室採用面接だった。彼は立ち上がる際にコーヒーを倒し、慌ててペーパータオルで机を拭いた。顔を上げた瞬間、清香は十年前の朗を見たような錯覚に陥った。
似ていたのは顔立ちだけではない。緊張すると唇を結ぶ癖まで同じだった。
個人的な感情を人事に持ち込むことなど、これまで一度もなかった。それでも、その日だけは文哉を採用した。学歴と語学力は基準を満たし、仕事ぶりも際立って優秀ではない代わりに、大きな失敗もしなかった。
清香には、それで十分な言い訳になった。
その後、朗が滞在していたカルディア国境地域で暴動が起きた。
清香は秘書室へすぐに渡航手配を命じ、文哉が航空券、保険、現地連絡を担当した。ところが出発当日、彼は自分の荷物を持って空港へ現れ、緊急対応のため同行したほうがよいと主張した。
残るよう命じることもできた。
だが、若い頃の朗に似た顔を前にして、清香は許してしまった。
メディア連絡拠点へ到着すると、清香は現地のセキュリティ・コーディネーターに文哉を預け、自分だけで朗のいるキャンプへ向かおうとした。それでも文哉はついてきた。
途中で騒ぎが起きるたび、彼は清香より細い身体を前へ出し、守るように立った。
そのとき初めて、清香の心が揺れた。
朗の無事を確認したあと、その感情は胸の奥へ押し込めた。帰国後には、文哉を商品企画部へ異動させようとしたこともある。
だが、朗が何気なく彼のことを尋ねたとき、清香は自分でも理解できないほど動揺した。
大きな過ちは、最初は小さな芽にすぎない。
早く摘み取っていれば、何も起こらなかった。
清香は、そうしなかった。
ある夜、会食で酒を飲みすぎた清香は、そのまま会社へ戻った。
朗が酒の匂いを嫌うことも、仕事のために無理な飲み方をする自分を心配していたことも知っていた。少し酔いを醒ましてから帰宅するつもりだった。
文哉は酔い止めの薬と水を持ってきて、濡らしたタオルで彼女の額を拭いた。
ぼんやりした意識の中で、清香はその顔を若い頃の朗だと思った。
そして、文哉の手をつかんだ。
その後に起きたことを、酒のせいにはできなかった。本当に人違いをしたのか、それとも酔いを口実に、自分で間違いを許したのか。清香自身が一番よく分かっていた。
それから一年半、二人は関係を続けた。出張先の夜、会食後の深夜、誰もいない社長室。あらゆる場所が密会の場になった。
文哉は、表向きの立場はいらない、二人の子どもさえいればいいと抱きついてきた。
清香は朗に対し、自分は決して母親にはなりたくないと言い続けていた。それなのに避妊をやめ、文哉と一緒に婦人科で妊活の相談を受けた。
露見したあとのことなど、真剣に考えたことはない。
朗と離婚するつもりもなかった。
清香にとって朗は、絶対に失われない家だった。文哉は、その外側で味わう刺激にすぎなかった。
どちらも手に入れたままでいられると思っていた。
ひどく、思い違いをしていた。
5
夜明け前、清香は会場から出たときに見たタクシーの車両番号を思い出した。
すぐに秘書へ連絡し、弁護士を通してタクシー会社へ照会するよう命じる。個人情報保護の観点から詳しい走行記録は開示されなかったが、緊急連絡先として必要な資料を提出した結果、最終降車地が東央国際空港だったことだけは確認できた。
さらに、朗がすでに出国していることが分かった。
行き先はエルザン王国。
カルディア北部へ入るための中継国だった。
航空券を手配する前に、病院から電話が入った。
文哉は救急搬送後の経過観察中に病棟を抜け出し、立入制限のある屋上庭園で柵の外側へ身を乗り出しているという。病院はすでに警察と消防へ通報しており、救助隊員と警備員が現場で待機していた。
文哉は、清香に会うまで戻らないと繰り返していた。
清香が到着したとき、彼は手すりを握り、身体の半分を外へ出していた。
「清香さん、どうして僕をブロックしたんですか。僕がどれだけ怖かったか分かっていますか? 来てくれなかったら、本当に飛び降ります」
清香は職員に椅子を用意させ、手すりから数メートル離れた場所へ腰を下ろした。
「戻りなさい。あなたは飛ばない」
文哉の表情が止まった。
清香は温度のない目で彼を見た。
「姓名判断アプリを開いたままにしたのは、あなたね。朗へ写真とメッセージを送ったのも、弁護士からの電話を自分の内線へ転送し、履歴を削除したのも。全部、あなたがやったことでしょう」
文哉の顔から、少しずつ血の気が引いた。
清香は急かさず、ただ待った。
すべての手段が通用しないと悟った彼は、ようやく手すりの内側へ戻った。救助隊員と警備員がすぐに身体を確保し、病室へ連れ戻す。
病室の扉が閉まると、文哉は清香の袖をつかんだ。
「たしかに僕が仕組んだこともあります。でも、清香さんを愛していたからです。一年半も一緒にいたのに、一度も本気にならなかったなんて言えますか? 今は離婚したばかりで混乱しているだけです。少し時間がたてば、僕たちはやり直せます」
清香はその手を振り払った。
「最初から朗の代わりになるつもりで近づいたのね。服装も髪型も、ネクタイの選び方まで調べて真似していた」
文哉の目に一瞬だけ動揺が走り、すぐに笑みへ変わった。
「だから何ですか。好きだったのは清香さんでしょう。僕がどれほど朗さんに似ていたとしても、あなたにその気がなければ、ベッドまで行くことなんてできなかった」
清香は彼の襟元をつかんだ。
「黙りなさい。あなたは朗じゃない。どれだけ真似をしても、朗にはなれない」
文哉は抵抗せず、まっすぐ清香を見返した。そこには、これまでの媚びるような色は残っていなかった。
「朗さんが去ったのは、僕のせいだけじゃない。相沢文哉がいなくても、いつか別の誰かが現れていました」
襟を締め上げられ、息を乱しながらも彼は笑った。
「清香さんは、今の朗さんに飽きていた。戦場へ行き、世間を驚かせる記事を書いていた若い頃の彼を懐かしみながら、自分の手でその生き方をやめさせた。家に残った朗さんをつまらないと思い始めたところへ、僕が現れたんです」
文哉は途切れ途切れに言葉を続けた。
「僕を身代わりにすれば、自分の責任から目をそらせる。全部が壊れた途端、悪いのは僕だと言い出す。でも、朗さんを裏切ったのは最初からあなたです」
清香は彼を強く突き放した。
文哉の身体がベッドの縁へぶつかり、清香も体勢を崩す。下腹部がベッドサイドの棚へ強く当たり、激しい痛みが走った。
淡い色のスカートに、赤い染みが広がっていく。
清香は救急外来へ運ばれた。
超音波検査で胎児の心拍が確認できず、出血も止まらなかった。医師は子宮内容除去術を行ったが、妊娠を継続することはできなかった。
文哉は廊下に一人で座ったまま、手術室の灯りが消えるまで清香と会えなかった。
退院後、清香は文哉に関する人事判断から外れた。会社のコンプライアンス委員会は、業務連絡の隠蔽、通話記録の削除、経費不正への関与を調査し、最終的に会社と文哉は合意退職の手続きを取った。
病室で清香が彼を突き飛ばした件については、個人の代理人を通じ、治療費と示談金が支払われた。
それ以降、清香は文哉と会わなかった。
ほどなくして、朗の所在が確認された。
彼はエルザン側の国境地域に設けられた国際プレスセンターへ入り、東央国際通信社の取材班と合流していた。カルディア北部の核心地域は退避勧告が出る最高危険区域だったため、取材班も国境近くの臨時キャンプへ移動していた。
清香は翌朝一番のエルザン行きを手配した。
しかし、その夜、カルディア北部で再び大規模な武装衝突が発生する。ニュース映像には、ナシール郊外で相次ぐ爆発が映っていた。
朗の取材班が活動している地域だった。
6
民間の定期便は欠航していた。
清香はエルザン首都へ向かうチャーター便に乗り、そこから危機管理会社が手配した防弾車で国境の国際プレスセンターへ向かった。
カルディア北部の核心地域には退避勧告が出ており、日本の在外公館も渡航中止と退避を強く求めていた。東央国際通信社も、危険地域訓練を修了し、安全協定へ署名したうえで、現地フィクサーとセキュリティ・コーディネーターが同行する取材班以外の立ち入りを認めていない。
記者でもスタッフでもない清香は、エルザン側の国境拠点から先へ進めなかった。報道機関と援助団体を回り、朗の消息を尋ね続ける。
三日たっても、返事はなかった。
四日目、ナシール方面から撤収した写真記者の一団が、国境近くの臨時プレスキャンプで日本人記者を見たと教えてくれた。
五日目の朝、カルディア側の戦闘が国境付近まで拡大したため、朗の取材班はエルザン側のキャンプへ撤収してきた。
清香は人混みの中に、ようやく彼を見つけた。
朗は怪我をしていなかった。ただ、以前より痩せ、強い日差しで肌が焼けていた。
清香はほとんど駆けるように近づき、その身体を抱きしめた。
しかし、すぐに押し返された。
「朗、無事でよかった。今さら何を言っても遅いことは分かってる。それでも、まずここを離れて。エルザンの首都まで戻ったら、どんな話でも聞く。会いたくないなら、もう無理に追わない。ここはいつまた戦闘が始まるか分からないの」
* * *
突然現れた清香を前にして、俺はなぜ彼女がここにいるのか、すぐには理解できなかった。
発表会のときよりも頬がこけ、顔色も悪い。それでも、再会を喜ぶ気持ちは一つも湧かなかった。
「来るべきじゃなかった」
清香は俺の腕をつかんだ。
「仕事を永遠にやめろと言っているわけじゃない。今の戦闘区域から離れてほしいだけ。情勢が落ち着けば、どこへ取材に行っても止めない」
俺はその手を外した。
「清香にとって、ここは危険だから逃げる場所なんだろう。でも、俺にとっては仕事をする場所だ」
彼女が何か言う前に、言葉を続けた。
「俺に仕事をやめさせたのも清香だった。今度は、いつなら安全で、いつなら働いていいのかまで決めるつもりか?」
清香の唇が動いたが、声は出なかった。
俺は彼女を見つめ、最後の線を引いた。
「俺たちはもう終わっている。御影清香、ここまで来るべきじゃなかった」
そのとき、キャンプに警報が鳴り響いた。
現地のセキュリティ・コーディネーターが、全員に防弾車へ移動し、南側の退避地点へ向かうよう指示する。清香は再び俺の腕をつかみ、自分が乗ってきた車両へ連れていこうとした。
俺はその手を振りほどいた。
「取材班には取材班の退避計画がある。現場を混乱させるな」
清香がなおも近づこうとした瞬間、国境の向こう側で大きな爆発音が響いた。
地面が激しく揺れた。
7
最初の砲弾は、キャンプから離れた国境道路へ落ちた。続いて二度目の爆発が後方で起こる。
全員が身を低くし、警備員の指示に従って遮蔽物へ走った。車両での移動はできず、取材班はコンクリート造りの廃倉庫へ一時退避することになった。
俺は清香の手首をつかみ、壁の陰へ向かって走った。
遠くから銃声が重なる。
混乱の中、背後から誰かが俺へ覆いかぶさった。
清香だった。
一発の銃弾が、彼女の背中へ入った。
身体が大きくこわばったが、清香はその場で倒れなかった。歯を食いしばり、俺と一緒に崩れた壁の陰まで進んだ。
警備支援が到着し、前線救護所へ運ばれて初めて、彼女のジャケットが血で黒く染まっていることに気づいた。
「清香」
担架の上で、彼女の呼吸は少しずつ浅くなっていた。
傷口を押さえても、血は指の間から止めどなくあふれる。清香はゆっくり手を上げ、俺の指を握った。
発表会で追い詰められたときの狼狽も、痛みに歪んだ表情もなかった。
その瞬間だけ、二十五歳の頃の彼女へ戻ったように見えた。
「朗……ごめんなさい」
医療搬送ヘリが到着する前に、清香の呼吸は止まった。
8
清香の遺体は、身元確認と領事手続きを経て日本へ戻された。
葬儀のあと、遺骨は御影家の墓所へ納められた。俺は月見台のマンションへ戻らなかった。
離婚時に未処理だった財産分与については、双方の代理人と清香の遺産管理人に任せた。
その後も俺は国際報道の仕事を続けた。ただし、明確な退避計画と安全体制のない前線取材は引き受けないようになった。
編集者から、戦場へ戻ったことを後悔しているかと聞かれることがある。
俺は一度も、はっきり答えたことがない。
長い時間がたった今も、カルディア国境で過ごしたあの午後を思い出す。
最後に清香が俺を救ったことは認めている。
あの瞬間、銃弾の前へ立った人が、かつて心の底から俺を愛していたことも知っている。
けれど、最後の一発で返されたのは、俺の命だけだ。
彼女が自分の手で壊した十年を取り戻すことはできない。
もう一度、清香を愛していた頃へ戻ることもできなかった。




