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残硝

作者: 氷星凪
掲載日:2026/04/08

 晴天。顔を上げても、視線を落としても、青空。足首まで浸る白群色の水がどこまでも続いており、地面を果てしなく埋めている。歩く、という指示を脳から送り、その神経運動に反応して足が動き出す。コールドスリープスーツの重たい生地が全身に覆い被さっているが、実際に体を動かすのは内蔵された演算ソフトであり、僕は何も面倒に思う必要はない。

 右に、左に、頭を動かす。視線の端に流れていく白々とした清潔感のある建物の石壁は、所々が倒壊していた。ヒビが入っていたり、または、ぽっかりと穴が開いて中が見えてしまっていたり。どこを見ても、入り口を塞ぐように水が浸っているビルばかりの光景に思わず息が詰まる。正真正銘の水没都市。都市といっても人の気配は一切しない、その事実がまるで自分を責めているような気がして、思わず足の動きを早めてしまった。

 離れの河川敷に着き、顔を覆うガラスカバーの中でふーっと息を吐く。川辺に近づき、しゃがむ、という指令を脳から出して足を屈ませる。一つずつ行動を命令しないと中々反応をしてくれない。当たり前だ、まだ試作の初期段階にも関わらずこの状態での生活を強いられてしまったのだから。文句を垂れて、許容して。この周期を僕は何年続けてきたのだろう。

 大人しく右手に持っているワイングラスを川にくぐらせる。随分と機械的な動き。グラスが無ければ水を掬うことすらままならないため、これを研究室の隅で見つけられたのは、まさに怪我の功名と言える。表面張力がありありと分かるほど掬われた、街にある水とは色の違う、正真正銘の無色透明な水。そうだ、これでないとだめなのだ。片方の手で頭の上にあるハッチを開けて、小さな穴を露わにし、そこにグラスを傾けて水を流し込んでいく。それが口へと直接つながっているホースを通して、段々と喉を通る。ゴキュン。ゴキュン。体の中が潤される感覚。まるで自分を肯定するかのように、それらはすぐに体に馴染んでいった。ハッチから伸びるホースの口は狭く、水しか入ることはない。逆説的にそれは水だけで生命維持が可能だという事実を表す。今の僕の体が何よりのエビデンスだ。もう一度しゃがみ、水を掬い、穴に流す。ゴキュン。ゴキュン。

 流石に満足した。またしゃがみ、水を掬う。今度はその隣のハッチを開け、また別の穴に水を流す。全身に沿うような多くの細い管の中をそれが流れていくのを目で追いながら、立ち上がる。水を特殊な技術で凍結させて脳と内臓以外の冷却を促し、部分的な仮死状態を作り出す。老化を防ぎつつ意識を保ちながらの行動を可能にしたこのコールドスリープスーツの仕組みはやはり画期的なものであった。本来は更なる改良を重ね、全自動水補給機能も搭載するつもりだったのだが……。元研究員としての矜持を頭の中で呟き、僕は再び足を進めた。

 オフィス街に戻ってきて、適当なビルを一つ決める。決め手は、ビルの階層のほとんどが内装が見えるほど派手に崩れていて目に止まった、たったそれだけ。今日はここの探査をしよう。絶対に入り口では無いであろう、豪快な壁の割れ目からビルの一階に入り込む。そこに広がるのは、もう人の影など見えないオフィスの光景。デスクの上で倒れているパソコン。歩くと、白群色の水に浮いているマウスやキーボード、ファイルが波の影響で揺れる。壁に掲示されているほとんどが擦れていて読めないフロアマップを確認しながら、しばらくして地下への扉を発見する。扉が閉められていて、恐らく日光が当たっていないだろう。ここが重要だ。早速入りたいところだが、オフィス内に水が溜まっているせいかノブを引いてもびくともしない。

「レーザー」

 グラスを左手に持ち変え、右手の人差し指を扉の方に構えてから唱える。そうすると指から一直線の強い光が飛び出し、当たった部分に穴が開いていく。後は脳で指令を送り、そのまま指を右に動かす。鉄製の扉はあっという間に半分に切れ、切れた部分は奥に続く部屋側に落ちた。跨ぐようにして扉を乗り越え、地下へと続く階段を降りていく。水がない分いつもより足の動きが良い。

 両脇から奥に部屋が何個か続いていると思われる長い廊下。地下は薄暗く、少し湿っていた。そんな暗闇を怪しく照らす、白群色の光が点々と床に見える。その光の主は、黒と灰の間の色をした粘体の様相をしている。宇宙の神秘を感じられる煌々とした粒子を纏うそれは、研究員時代に渦を表す英単語「vortex」から取って名付けた「T-vortΔ」という半生命体であった。蠢く彼らは僕というタンパク質が来たことに反応し、ゆっくりとこちらに近づいてくる。スーツの膝についたボタンを押して、お腹のハッチが開いたのを確認すると、僕はそこからノートとペンを取り出し、代わりにグラスを入れて閉めた。鈍重な動きで床を這うΔ。他の個体との違いは見られないが、一応気づいたことをノートに書き殴る。観察記録、No.121。あまりにも移動速度が遅いからつい油断してしまいそうになるが、一度こいつが人類を滅ぼしたのは事実なのだ。足を掴まれないよう、廊下を歩きながら筆を走らせる。

 すると。

「……誰か!」

 一番奥の突き当たりの、左の部屋からだった。声。しかも、はっきりとした言葉を話す女性の声。足音で気づいたのか。思わずその扉の前に駆け寄る。固唾を飲みながら、久しぶりに聴く生気のある声に耳を傾けて。

「……誰か! いるんでしょ!?」

「いるぞ」

「……! に、人間……?」

「ああ」

 あちらも息を飲んだような沈黙が一瞬、場を包む。

「よかった……。あなた、何か武器は持ってる?」

「武器?」

 僕は自分の人差し指を見る。光熱レーザー。物体の切断ツールとしか想定はしていなかったが、一応鉄を切れるほどの性能はある。十分武器にはなるだろう。

「光熱レーザーはある。鉄を焼き切れるほどの」

「……な、なんでもいいわ! 武器を持ってるのね、それなら入って!」

 彼女の口ぶりに疑問を残しながらも、とりあえずノブを捻り、扉を開ける。だが、そこに広がっていたのは想像もし得ない光景だった。

 六畳ほどの、それなりの広さの部屋。その部屋の真ん中に一人たたずむ声の主。そんな彼女の下半身は見慣れた人間の足ではなく、Δの塊が山となっているもので、それは地面に張り付いていた。そしてその塊がくっついている上半身、両腕、顔、いずれの部分にもΔが張り付いており、血走った様子で水色の目をこちらに向けてくる。黒い髪を揺らす彼女は、憔悴しきったような表情で声を絞り出し。

「私を、殺して」

 絶句した。言葉が、出そうにも出せない。それほどの光景だった。彼女は、完全にΔと融合していた。下半身の代わりをしている積み上がった黒くおぞましい粘体の中を、無数の白群色の光がまるで目のように蠢いている。じっとこちらを見つめる女性の姿。狼狽えながらも、僕は目線を合わせて。

「……動けないのか?」

「そうよ。何年もずっと、ここで、」

 彼女の水色の目から溢れるΔの光が、涙に見える。言いかけて天を仰いだ後、彼女は繰り返す。

「ずっと、一人だった。死ぬことも出来ず。でも、あなたが来てくれたから、やっと……」

 両手で自分の顔を包み、上半身を震わせる。彼女は細やかに嬉々とした表情で、スーツ姿の僕をまるで希望のように見つめていた。反して。目線の先にある僕の目は、酷く乾いていた。眉を顰めながら、彼女の言葉を冷たく遮るように言い捨てる。

「殺さない」

「……え」

 僕は彼女の体を、じっと見つめる。つぎはぎというように無理やり繋げられた人体とΔ。異形となり、悲嘆の表情を浮かべながら「私を殺して」と催促するその姿。こんなの、僕が望んでいたものではない。こんなことを望んで、開発を始めたわけじゃない。

「な、なんでよ! 私はこの苦しみから解放されたいの! だから早く」

「レーザー」

 動揺する彼女の言葉に被せるように、唱える。人差し指から光熱レーザーが発射され、彼女の頭めがけて向かっていく。一瞬の出来事。だが、その光は山から上半身を伝い、顔まで這い上がってきたΔ達によって吸収された。レーザーを下半身から上半身に満遍なく当てる。その全てが尽くΔによって吸収されてしまい、一刹那たりとも彼女の体を貫くことは無かった。その様子を見ていた女性は言葉を失い、僕の目を見る。僕は最初から分かっていた、何十年こいつを研究したか。

「嘘……」

「だから、殺せない。簡単に殺してくれなんて吐くな、以上だ」

 僕はレーザーをしまい、振り返ってノブを握る。その力は入ってくる時よりもずっと強く、ずっと乱暴で。

「ま、待って!」

 背中に受けた声を掻き消すように、鉄製の扉を勢いよく閉める。大きく、それでいて獰猛な音が廊下中に響くと、すぐさま来た道を戻っていき階段を上って地上へと戻った。足を水に取られながら外へと出る。崩れた建物達を視界に据えたまま、僕は拳を強く握る。やり場のない気持ちを込めて、雄叫びを上げながらそれを地面に目掛けて振り下ろす。その勢いとは対照的に、拳は地面に届かず、白群色の水が緩やかに揺れたのみだった。


 水を汲み、飲み。水を汲み、冷却装置に入れ。地下へ探り、意味もなく観察記録を書き。単調な生活を繰り返すのは、そこまで難しくなかった。とある日、水に埋まった土地の中で唯一盛り上がっている小ぶりの丘に座り、僕は一息ついた。ここは、よく景色が見える。残酷にも崩れた世界がここにいる時だけ、美しく見える気がして。

 ────私を、殺して。

 思わず頭を押さえる。あれから数日。脳裏にこびりついた彼女の声が、嫌というほど僕に是非を問うてくる。顔を見上げて、崩れた建物が立ち並ぶ景色をあの日の光景と重ねてしまう。街を這い、人々を飲み込んでいく巨大なΔ。それらを駆除するために市街地に撃たれた、軍保有のミサイルの数々。効くはずもないそれは市民への二次被害を起こし、多くの命が失われ。

「くっ……!」

 思い出すだけで、全身が強張る。あの地獄絵図を引き起こしたのは、やはり僕達なのだろうか。僕達がΔを医療転用しようなんて言わなければ。あの日、宇宙での実証実験をしようと計画することも無かったのだ。ロケットが墜落して、世界にΔが降り注ぐことも……全て。それでも拭えない、頭の深く底にある母親の顔。みるみる衰弱し、苦しみながら死んでいった母親の姿。

 地下室の彼女の姿が思い起こされる。下半身が無いのは恐らく兵器による二次被害。そこにΔが何らかの要因で結合し、培養を始めたのだろう。動けない状態で、生きることも死ぬことも出来ずに何年も一人でいる孤独感。そして体を蝕まれ、苦しむ姿。僕は手に持ったグラスを見つめ、ゆっくりと腰を上げる。今ここにいる僕が、責任を取らなければいけないのだ。

 歩き出す。頭の中で何度も光景を反芻していたからか、道は思いの外覚えていた。壁の割れ目から水没したオフィスに入り、半分に切れた鉄扉を跨いで階段をゆっくりと降りていく。薄暗い廊下。前と同じく床を這うΔが目に入る。僕は再びじっとグラスを見つめる。深呼吸。もう一度。

「また水が飲める日まで」

 しゃがみ込み、床を這うΔをグラスで掬い上げる。一個体を掬い上げたら、また別の個体をグラスに入れていく。いずれの動作も、くれぐれもスーツにΔが触れないよう注意しながら。廊下にいた三個体を全て移すと、中にある黒い粘体はグラスの七割を埋めた。十分だろう。そのまま彼女のいる部屋の扉の前まで歩くと、僕はノブを力強く掴み、重々しく開けてからゆっくりと中へ入っていった。

 下半身の光が蠢く中、女性は顔を上げる。水色の目という慣れない様相でも、不思議とこの前よりも光がないということは分かった。静寂。僕は芯の通った声を、彼女へ強くぶつける。

「まだ考えは……変わってないか」

「……。ええ」

 喉の震えを抑えられずに、一つ一つの言葉を紡ぐので精一杯というような印象だった。両肩を震わせながら体を不規則に動かし、その度に体を這うΔが光を見せる。僕はそんな彼女から目を逸らすことなく、足を進めて近づいていく。

 握手が出来るほどの近さに来ても、彼女の体を這うΔは僕に反応しない。よほど彼女の体と癒着しており、離れないのだろう。そんな彼女の口にグラスを当てる。

「飲め」

 困惑する彼女の表情を捉えながら、僕はグラスを押し込み、そのまま傾けた。中のΔが一歩、また一歩と、着実に彼女の口へと歩みを見せる。それを彼女も受け入れて青紫色になった喉を開く。徐々にそこを通っていくΔは彼女の体の深層へと落ちていった。全て入れ終わると、下半身の山の部分から白群色の光が全身を駆け巡っていき、彼女は全身を瞬間的に痙攣させる。

「これ、は…………?」

「一番早く殺すには、あなたの体をこの黒い粘体と同化させることだ。これから僕は、毎日これを色んな場所から汲んで君に飲ませる。少量ずつになるから多少時間はかかるが、確実で手っ取り早い」

 グラスに目をやる。全て入れ切ったと言っても、物質の粘性ゆえΔの跡がべっとりとガラスに張り付いている。もうここに水を入れて補給をすることは出来ないだろう。顔を俯かせる彼女が細々と呟いて。

「この前の……レーザーでは、だめだったじゃない」

「こいつは外部からの刺激は受け付けないんだ。唯一死滅させる方法は日光に当てること、そうすれば体全体が白群色の水に変化し、溶ける。だが、それが完全に行われるのは日光に当たってから軽く一年以上はかかってしまうんだ。だからこの方法が一番君にとっては良いと思う」

 顔を背けたままの彼女。沈黙が薄暗い部屋に漂う。僕は振り返り、彼女に背中を見せたまま静かに呟く。

「また、来るよ」

 声がまだ響く中、口を真一文字に固く閉じて唇に強く力を込める。歩き出し、鉄扉のノブを掴んで重々しくそれを回す。

「……ありがとう」

 軋みながら開く扉の音に簡単にかき消されてしまうほどの、微かな声。だが、僕はその様々な感情が混じった彼女の言葉を、はっきりと背中に受けた。頭で響く声の余韻にもたれたまま、僕は振り返ることなく部屋の外へと出た。大きな音と共に扉が閉まる。

 これで、よかったのだろうか。地下室の廊下を歩きながら何度も反芻される問いに答えを出せないまま、気づいたら全身に日光を浴びていた。白を基調とした崩れかけたビルと白群色の水のコントラストが、お互いに陽光を押し付け合うように反射し、煌々と荘厳な景色を形作っている。それを見て、僕は深い思考の海に浮かんだまま歩くことを決めた。

 あらゆる地下室を巡り、Δを見つけては掬う。一回でなるべく多くの量を摂取させたいが、グラスの外へゆっくりと這い出ようとするΔの動きを加味するとどうしても七割程度に収めて彼女の元へ向かうしかなかった。掬って、彼女にそれを飲ます。今度は、そんな生活の繰り返し。喉の渇きを感じそうになると、それを忘れたいがために足を直ぐに動かす。もちろん個体の観察も忘れた日はない。

 彼女への投与を、手足の指で数え切れるか怪しい程の回数こなした頃。いつものように部屋を出て行こうと振り返る前に、彼女はその水色の目でこちらを見ながら呟いた。

「外は……一体どうなってるの?」

 見上げて、目線を合わせる。侵食は着実に進んでいる様子だ。彼女の体を覆うΔの面積が増え、癒着具合も強い。彼女の体に沿うように黒い粘体が這っているのを横目に、僕は一瞬天井に視線をやって。

「あの日の、ままだ」

「あの日?」

 中に残ったΔを押し出すように、グラスを振る。彼女の額に蠢く白群色の光を無意識に目で追ってしまう。

「2015年8月17日。人類は、滅亡した。君に引っ付いているその黒い粘体の巨大な個体が、ビルを這って人間を食いつくしたあの日。覚えている記憶は?」

 質問返しに、面食らったようで体をほんの少しのけぞらせる彼女。少し押し黙って、自分の頭に手を添えたまま。

「……出勤、してた。いつも通りの退屈な業務をこなして。でも、突然轟音が聞こえてきて外に出たの。そしたら目の前が爆発して、衝撃で気を失って……。次に意識を取り戻した時にはこうなってた」

「ヴォルト、レイン」

「え?」

 僕は近くの机にグラスを置く。彼女の疑問符を宙に浮かせたまま椅子に座り、腿の上に両肘を置いてため息を一つ。

「僕は、あの日の出来事をそう呼んでいる。元々その黒い粘体、通称T-vortΔを僕達研究チームは医療転用のために様々な実験を行った。だが、その一つのプロジェクトの途中で起きた事故により、人類は僕とあなた以外滅びた」

「なぜ、あなたは助かったの?」

「ちょうどその時、僕はこのスーツの実証実験中だったんだ。それも初回の。着用して数個の機能を試してみる程度のはずだった。そしたらいきなり轟音が鳴って研究センターは崩れ、他の研究員達は飲み込まれ、気づいたら取り残されていた。それからは、ずっと外の世界を彷徨っている」

 あまりにも人間らしい、彼女の息を飲む姿。深い沈黙。僕は、それを突き破る。

「外の世界は、T-vortΔの溶けた水で浸って、建物はボロボロで瓦礫がそこら中に落ちていて、見るに耐えない」

「……」

「でも。太陽が青空に現れ、差してきた陽光が水に反射した時。なんだか嫌になる程、全てが荘厳で綺麗で整って見える。この世界には、もうそれだけしかない」

「ここに比べたら、十分すぎるほどよ」

 彼女は部屋をゆっくりと見回す。暗闇の中、迸る白群色の光が彼女の存在証明をする。僕は「そうか」と煙を吐くように呟くと、グラスを持って立ち上がり。

「……君がこうなってしまったのは、僕の責任だ。だから、君の苦しみは僕が終わらせる」

 腰を据えたはっきりとした物言い。ガラスカバー越しでもその言葉は強く部屋に響いた。彼女は、何も言わなかった。ノブを捻って扉を開ける。

「また来るな」


「そういえば、なんでいつもワイングラスなの?」

 日課の投与を終えた時だった。鎖骨までΔに体を包まれた彼女が、顎で僕の右手に握られたグラスを指す。言われて、改めて考えてみる。確かこのグラスは研究室の跡地で自分が使っていたデスクの引き出しから引っ張り出してきたものだ。だが、思い返せば自分でこれを買った記憶は無い。

「これ……は、研究室の跡地から拾ってきたんだ。何か使えるものがないかって、自分のデスクを漁って」

 言いながら、記憶を辿る。引き出しの中。赤い布の上に置いてあったそのグラスは、高級感のあるケースに入ってあったような気がして。

「思い出した……!」

「えっ?」

「あ、いや……」

 少し言い淀んだ後、隠す必要なんてないと思った。

「……これは、母親からの贈り物なんだ。研究に没頭していた僕のために、わざわざ」

 ろくに自分の家にも帰らずにひたすら研究室で寝泊まりする日々だった。そんな様子を見かねて、母親が大切な相手の一人でも作りなさいという思いで贈ってくれたペアグラス。その片割れが今僕の手に握られているものの、正体だった。

「……わざわざ研究室で使ってたのね」

 水色の目が、撫でるようにグラスに見つめる。同じくグラスを見つめながら、僕は思わず言葉を漏らしていた。

「母親は、優しい人だった。幼少期から自分を支えてくれた恩人。だけど、僕が成人する前に彼女は癌で死んだ。あんなに優しい人が、あんなに苦しみながら。だから僕はもう母親のように苦しむ人を減らしたくて、T-vortΔの研究を始めたんだ。なのに……」

 唇が震えてしまう。首を横に振った後、頭を下げて「すまない」と彼女に伝え、すぐに振り返る。足早に扉へと歩みを進めた、その瞬間。

「待って」

 彼女の声で足を止める。ゆっくりと振り返って見えた彼女の姿はもう顔以外Δに覆われていた。微笑と悲壮の間のような皺の寄り方が、鮮烈な表情で。

「今日は、ここにいてくれない?」

 ぽたり、と天井から雫が落ちる。

「ずっと……一人だったの。気の遠くなる時間、ここに。だから今日ぐらい、見えるとこにいて」

 澄んだ、それでいて心からの言葉。彼女の目線が閃光のように僕の目に飛び込んでくる。静観、それが続く永遠に時の止まった瞬間。グラスを机に置き、僕は湿り気のある木製の椅子に座り込んだ。

「分かった」

 背もたれに体重をかけながら、彼女の姿を視界の端で捉える。「ありがとう」とか細く呟くその声の主はもはや人間からは程遠く、心の中でもうじきだなと思った。その時、心に吹いた隙間風が僕の頬をさらう。なぜ隙間が開いていたのか、それが一向に分からず僕は考え込むしか無かった。

 遠くで唸り声が聞こえる。なんだ。その声は段々大きくなり、絶叫、そして発狂へ。その瞬間、頭が震えて視界がはっきりとする。いつの間にか寝ていたのか。声はまるで耳元で叫ばれているように脳に響いてきていた。声のする方に顔を向ける。叫んでいたのは、彼女だった。

 Δが遂に顔の外周を覆い始めており、彼女の絶叫で口の近くの粘体が震えている。全身がほとんど黒色に染まっている中、まだ空気に触れている青白い肌が異常に目立っている状態。僕は勢いよく立ち上がったものの、その蠢く黒い暴力性の迫力に圧倒され、呆然と見る事しか出来ないままだった。

「やっぱり……私……」

 白群色の光が、放たれた家畜のように彼女の体の上を勢いよく動き回る。涙混じりのしゃがれた声。際立つ水色の双眸の中に見える瞳孔は大きく開いているが、そこから感じられる必死さとは反して、今にも消えてしまいそうな口ぶりで彼女は言葉を紡ぐ。

「死にたくない……」

 その瞬間。黒い粘体の山の中から、Δで形作られた胴体、両腕、両足が姿を表し、そのまま彼女は床に倒れ込んだ。液体と固体の中間。人型ながら不定形な肉体は空気中でゆらめき、地面に当たる度に形を変化させる。だが彼女は必死に手をつき、立ち上がりながら扉の方へと歩みを進めていた。

「何をしてるんだ!」

「最後に……見たいの……! あなたが語ってくれた、外の世界を」

 ゆっくりと歩を進める彼女の後ろには、Δが重々しくついてきている。彼女の寿命はわずかだ。それなら、僕に今出来ることは。僕に今出来る贖罪は。

 近づいて彼女の肩を持つ。体と粘体が絶妙なバランスで癒着しており、触っているのに通り抜けそうになる不思議な感触。Δの滴る歪んだ顔の中で、彼女は微かに笑っていた。僕は扉をすぐさま開け、何度も往来したあの廊下を今度は二人で歩く。一歩、また一歩進み、階段も必死で上った。半分となった鉄扉を跨ぎ、白群色の水に沈みそうになる彼女の手を引いて外に出る。今日は稀に見る快晴だった。僕はお気に入りのあの丘の上へ彼女を案内し、その頂上で二人は座った。

 肩に預けられた彼女の顔。その黒い肌は温かく、久しく触れていない人肌の感覚がして。僕の目に映る、太陽、ビル、水、そのコントラストが生む壮大な景色。彼女と視界を共有していると理解した瞬間、人生の答え合わせが始まった気がした。体が熱を帯び始める。命令していないのに手が震える。遂に彼女の顔をほとんど侵食するΔ。最後、それが口を覆う時、彼女は放った。

「苦しんだ甲斐、あったよ」

 そして、全身が黒い粘体に包まれると、彼女だったものは一瞬にして大きなΔと変貌した。腰は丘から離れない、もう体を動かす気も無い。ここで死んでも、僕は。だが、そのΔの塊は僕を襲うことなく、そのまま白群色の水に浮かび、どこか遠い場所へと行ってしまった。スーツの中に入ったΔも一切無く、頬を流れる涙が霜柱となっただけだった。


 日光の力は絶大で、もう都市を埋めていた水は大分蒸発して随分歩きやすくなった。右手には、新品さながらのワイングラス。家を探してみた甲斐があった、まさかもう一方の片割れをベッドの下にしまっていただなんて。急勾配の中、掬った水を溢さないよう慎重に歩みを進める。丘の頂上に着いた時、そこには未だ黒い粘体がこびりついているワイングラスが一人ポツンと僕を待っていた。ただこの軌跡も、あと少しで水になってしまうのだが。

 置いてあるグラスに半分水を注ぐ。そして、そのグラスに自分の持っているグラスをぶつける。カーン、と高鳴りのような音が響いた。

 乾杯。ハッチを開けて、水を流し込む。随分綺麗な水を取ってきたはずだが、少し塩味が効いていた。

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