最終話:空の神座
とりあえず最終話から
かつての大聖堂の鐘の音は、もう聞こえない。
代わりに王都を支配しているのは、規則正しく刻まれる魔導時計の低い駆動音と、街路に張り巡らされた「灯火の回路」が発する微かな唸りだった。
かつて「奇跡」と呼ばれたものは、今や「仕様」と呼ばれている。
学問所の一角、かつては異端審問官の待機室だった冷たい石造りの部屋で、アルフォンスは最後の一行を書き終えた。
彼が突き止めたのは、この世界の魔法が神の慈悲などではなく、大気中に偏在する未知のエネルギーが特定の幾何学模様に反応し、物理的な熱や運動に変換される「ただの演算」に過ぎないという真実だった。
その時、重厚な扉が音もなく開き、一人の使者が現れた。
男は漆黒の外套に身を包み、顔を深く隠している。その胸元にちらりと見えたのは、この大陸を数百年統治してきた聖教国の裏側に君臨する、「七賢枢機」の紋章だった。
使者は何も語らず、一通の手紙を机に置くと、霧のように消えた。
アルフォンスは震える指で封を切り、ランプの光に羊皮紙をかざした。文字は、高貴な者が用いる優雅な筆致で綴られていた。
「貴殿が神を、秩序を殺した。
魔法を数式に、祈りを効率へと変えた今、人はもはや天罰を恐れぬ。
奇跡を願うことも、己の罪を神の前に懺悔することもない。
我々は、神という名の巨大な嘘によって、かろうじてこの愚かな民たちの暴走を抑えてきたのだ。
貴殿は、寄る辺を失った民に、これから何を信仰させればいいと言うのだ。
空の神座に、何を据えて統治せよと言うのだ。
貴殿がしてもたらしたのは光ではない。
法も道徳も持たぬ、底なしの自由という名の混沌だ。」
アルフォンスは手紙を読み終え、深い溜息をついた。
窓の外を見れば、夜の街が明るい。かつては聖職者に高額な寄付をしなければ得られなかった「聖なる光」が、今や安価な石板に刻印を施すだけで、酒場の軒先を照らしている。
酔客たちは神を罵り、奇跡に感謝することなく、ただその便利さを享受していた。
「……信仰か」
アルフォンスは独りごちた。
彼は部屋の隅にある古い鏡の前に立った。
そこに映っているのは、神を殺した大罪人であり、人類を救った英雄であり、そして誰よりも孤独な、一人の老いた学者の姿だ。
だが、その胸の奥、衣服の下には、微かに青白く発光する幾何学的な紋章が刻まれている。
儂は神を殺した。
いや、あれは単なる古代人だった。
かつて不朽体と呼ばれ崇められた古代人の遺体を処理したあと、あの遺物は動作を止めなかった。
そこで一つ、思いついてしまったのだ。
生きたまま永久に保存されることはできるのか、と。
エネルギーの収集を始めた遺物を解析し、儂は古代人さえ至れなかった「生きたままの永久的な保存」の数式を完成させた。
仕方なかったのだ。
研究者ならわかるであろう。
できるのであれば、やる。それだけだった。
実行したあと、かつて王都全域を覆っていた毒無効の遺物の出力があれば、もっと少ないエネルギーで、かつ自動で自身を維持し続けられることに気づいた。
儂は元の巨大な装置からコアを取り出し、儂自身に埋め込んだ。
その瞬間、儂は完全な不朽不死となったのだ。
アルフォンスは鏡の中の、八十歳という年齢で固定された己の瞳を見つめた。
心臓は鼓動を止めているが、血は腐らず、細胞は一ミクロンも変化しない。時間は、いくらでもある。
彼はペンを執り、手紙の裏に、返信でもあり自分自身への遺言でもある言葉を書き記した。
「諸君。
君たちの嘆きは正しい。
私は秩序を殺した。
だが、代わりに差し出したものがある。
それは『責任』だ。
神がいないのであれば、隣人を殴った時、その痛みは神が裁くのではなく、殴った者自身が引き受けねばならない。
魔法が奇跡でないのなら、その力で誰かを焼いた時、それは神の意志ではなく、己の選択となる。
人は、神のせいにして逃げることができなくなったのだ。」
彼は書き終えた手紙を、机の端で燃え続ける魔導ランプの火にかざした。
炎は美しく、そして冷徹に紙を灰に変えていく。そこには何の神秘もなく、ただの酸化反応という名の物理現象が横たわっているだけだった。
「これからは、祈りではなく、対話と法が秩序となるだろう。
それは神の奇跡よりもずっと泥臭く、不完全で、途方もない時間がかかる作業だ。
だが……」
アルフォンスは窓を開けた。
冬の冷たい風が部屋に流れ込む。
空には星が輝いている。
かつては神の瞳と信じられていた光。
今はただの、遠く離れた巨大な燃える石の塊であることを、彼はすでに知っている。
「それでも、人間は自分の足で歩き始めたのだ。
神という名のゆりかごを、私は壊したに過ぎない。」
夜明けが近づいていた。
東の空が白み始め、世界から最後の「魔法の闇」が消えていく。
アルフォンスは新しい羊皮紙を広げ、タイトルを書き込んだ。
『新時代の倫理学:神なき後の人間について』
儂はまだまだ研究を続けるよ。
時間はいくらでもあるのだから。
人間とは、つくづく貪欲なものだな。
ペンが走る音だけが、静かな部屋に響き続けた。
なんで?




