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第37話 くちびる




 


「――ねぇ、何安心してるの?」




 

 その言葉に勝てないと悟った時、もうすでに手遅れだった。



 ソファーに座る私は、九条くんに囲われている。逃げ場はない。


 


「俺が簡単に解放してあげると思った?」



「あ、えっと、その……」




 目と目が合った。たったそれだけ。


 しかしゾクゾクするほどのその視線に、私の手がかすかに震えた。


 


「ほんと、かわいいね」


 


 その言葉に似合わないほどの低い声。その声で私は、自分の心臓の音が耳元で聞こえた気がした。

 


 不敵な笑みが恐ろしい。


 会話の間すら、私をクラクラさせる。




 誤魔化すために何か言おう何か言おうと思うが、何も言葉が見つからない。



 

 そんな私を置いて、先に動き出したのは九条くん。



 

 追い詰めるような姿勢は変わらないのに、そっと優しく私の顎を掴みほほ笑んだ。


 


 


 ――唇に柔らかい感触。



 



「晴って呼んでって言ってるでしょ」



 


 ……え?




 目の前の九条くんの瞳に映る自分と目が合った。



 

 ほんの3秒。たった3秒が永遠に感じるほど、世界の動きがゆっくりになる。

 


 さっきまでの鋭い視線から甘い視線へと変わる。


 体に響くほどの低い声が嘘だったかのように、あまりにも静かで優しい口づけ。

 



 気がつけば九条くんはしゃがみ込み、私の顔を覗き込んでいる。


 

 

 全てを理解した私はカーッと全身が熱くなって、思わず唇に人差し指を当てる。




「湯船、張ってくるね」




 ひとりおいてけぼりになった私は、九条くんがいなくなってからようやく理解した頭に心が追い付いた。



 

 私と九条くんが?

 

 

 狼のようだった九条くんは、一瞬でほほ笑みを浮かべる王子様へと変身した。


 


 体はとうに離れているのに、まだ少し残る温もりが夢じゃないと言っている。


 


 九条くんが私に?



 私の中でこの一瞬のできごとがつながった時、口から言葉がこぼれた。


 



「初めてのキス……しちゃった」





 人生で1度だって彼氏ができたことのない私。当然キスをしたこともないわけで。



 そもそも大人になって男の子と手をつなぐことだって、九条くんが多分初めて。



 そんな私が九条くんとキスをしたの?




 信じられない私は、もう1度唇を触ってみる。


 夢?



 

 立ち上がることもできず、私はソファーに沈み続けた。




 

 扉の向こうでシャワーの音が鳴っている。



 


 「湯船を張る」という言葉が、遅れて頭の中に聞こえてきた。



 


 お風呂?



 私、今からお風呂に入るの?




 初めてのキスで頭がいっぱいいっぱいで、もう先のことは考えられなかった。



 

 



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