第36話 視線
いったい何が起きたのかわからなかった。
突然持ち上げられた体。そのままくるりと回ったのだろうか?
気がついた時にはまたがるように私たちは向かい合っていて、私はさっきよりも高い位置から九条くんを見下ろしていた。
私の本能的な反射によって、ギリギリ座ることなく膝立ちをしている。
が、それでも近すぎる顔と顔。
私を見上げる九条くんの視線が痛い。つい逃れたくてソファーについている膝に力が入る。
「逃げろ」「危ない」と頭の中の警報がガンガンに鳴っている。
でも、がっちりと腰に回された手は組まれていて、まったく動く気配がない。
さらには私のその反応をそれを許さないというかのように、グッと腰を引っ張るように力がかかる。
最後の砦は、九条くんの胸に当てた腕がなんとか勝ち取った30センチメートルほどの距離。
「だからさ、なんで逃げるの?」
上目遣いで見つめる九条くんの目はギラギラしていて、その低い声に頭がしびれる。
私は返事をしなくてはと思ったが、声がかすれて出ない。
九条くんは再び私の腰へ回した手にグッと力を込める。
さっきのは遊びだったんだなとわかるほど、簡単に体を引き寄せられてしまった。
真っ直ぐに伸びていた手がぎゅっと折りたたまれれば、その距離は5センチメートル。
私たちの顔は息遣いがわかるほど近い。もし私が手に力を入れるのをやめてしまったら、九条くんの体に埋もれてしまいそうなほどに。
「俺もドキドキしてるの、わかる?」
私の中に響く鼓動。でもこれが九条くんの音なのか、私の音なのかはわからない。
なんならそれを考える余裕もまったくもってない。
「姫奈乃、めっちゃいい匂いする」
私のおでこと九条くんのおでこがくっついた。
もう息をすることもできないし、目を開けているのも限界だった。
つい目が閉じかけた時、急に私を持ち上げてソファーに下ろす九条くん。
私の視界に映るものが、九条くんの顔ではなく足へと変わる。息遣いの遠さが私たちの距離を教えてくれた。
解放された?
ようやく息ができた私は、思わずソファーに寄りかかる。ふーっと長い息を吐いた時、上から感じる痛い視線。
見上げた私の呼吸は再び止まった。
「――ねぇ、何安心してるの?」
甘くて苦い声と鋭い目つき。
ソファーがドンッと沈み、私の顔に影がかかる。
頭の両側を挟むようにして置かれた手。
思わず口を手で覆いたくなるほど近い顔。
光のない視線が、目を逸らすことは許さないと言っている。
獲物を捕らえたと勝ち誇る笑み。
――ああ、勝てる気がしない。




