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第40話 本を逆さに読む男の店


 レンガの壁を抜けたときと同じ魔術で、どうにか路地裏へ戻ってきた。



 壁の中からスライムのように這い出た瞬間、膝が砕けそうになった。

 同時に、両脇から二人分の手が差し伸べられ、なんとか自力で立ち上がる。

 軍人と植物学者に支えられ、縺れる足を踏ん張りながら路地を抜けた。

 


「やっと戻ったのか。待ちくたびれたぞ」


「一生壁から出てこないのではないかと、冷や冷やしましたよ」



 狭い路地を抜けた途端、軍人からは小言を浴び、植物学者からは気遣われた。

 けれど、僕の頭はまだ壁の出来事に囚われたまま。

 二人の声が、街行く人の喧騒が、右耳から左耳へ空気のように素通りする。



「ネイサン……おい、聞いてるのか」



 アドルフの分厚い手が両肩を乱暴に揺さぶる。

 視界が大きく揺れ、やっと現実の感覚が戻ってきた。



「ああ……すみません。心配をかけさせてしまって」


「夢でも見ている顔だな。一体何があった」



 二人に体を支えられたまま、近くのベンチへ座り込む。

 そこでようやく、壁の中での出来事をぽつぽつと話し始めた。



「占術師の女ねえ。胡散臭いな」



 ばっさりと切り捨てるアドルフ。

 対して、ベンジャミンはいつもの学者らしい分析を始める。



「ですが、その女性はネイサンと同じく魔力を扱う人物ではあるはずです。それに、ネイサンが口にしていないことを言い当てたのでしょう?」


「正直、僕も最初は胡散臭いなと思ったのですが」



 誰にでも通じる言葉のはずなのに、僕の未来にだけ刺さる鋭さ。

 心の奥底を見透かすような、冴えた眼差しが今も脳裏に焼きついている。



「とにかく、路地裏の冒険はここまでだ。そろそろ街を出ないと、次の宿へ着く前に日が暮れちまう」



 すくっと立ち上がるアドルフ。

 膝の震えを抑えながら、僕はせっかちな軍人の服の袖を引っ張った。



「待ってください……一箇所だけ、探したい店があるんです。“本を逆さに読む男”の店を」




 ◇◇◇




 謎かけめいた女の言葉を頼りに、僕たちはオラカロンの街を歩き回った。


 本を読む、というくらいだ。

 古書商を中心に、一軒ずつ虱潰(しらみつぶ)しにあたる。

 だが、どの店の軒先をのぞいても、それらしい男は見つからない。


 窓越しに店内をのぞくたび、ガラスに映る自分の顔に、つい肩をすくませる。

 どこにいるとも知れない、もう一人の「影」に急き立てられているかのよう。


 店を一つ、またひとつと通過するたび、全身の疲労感に反して歩調は速まり始めていた。



 しばらく街を一巡りして、三人は広場で合流した。

 旅を急ぎたい軍人の声には、うっすら苛立ちが滲んでいる。



「その占い師に担がれたんじゃないか。そんな男、この街にはいないんだろう」



 そうなのだろうか?

 魔力の歪に迷い込んだ旅人を、ただ面白半分に揶揄(からか)っただけなのか。



『僕は、自分の成すべきことを分かっています。そのために旅をしている』



 占術師の言葉を疑うことは、自分の言葉を疑うことと同じに思えた。

 ここで諦めれば、僕は一生、僕の()()たちに追いつけない。そんな気がする。



 逡巡する僕の背中を押したのは、ベンジャミンの一言だった。



「街の西側に、古書商専用の区画があります。最後にそこへ行ってみましょう」



 植物学者に案内されたのは、オラカロン中心部から外れた閑静なエリア。

 古びた看板がぽつぽつと立ち、人の往来も少ない。

 酒場や商人のテントが乱立する賑やかな中心街とは、まるで別世界だ。



「随分店が減ったな……昔は、珍しい古書を売る店がたくさんあったのに」



 寂しげに語るベンジャミン。

 対して、アドルフは道沿いに並ぶ店を興味もなさそうに流し見していく。



「本を逆さに読む店、本を逆さに読む店」



 僕はぶつぶつと独り言を繰り返しながら、店の看板を一つひとつ確認する。

 昼の食事もなおざりに、ただひたすら夢中に探し続けた。


 占術師の言葉に呪われたかのように。ただ、ひたすらと――。

 

 

 そして――あった。

 枯れかけた蔦にびっしりと覆われている外壁。

 その奥で静かに埋もれる、「逆さの本」が刻まれた看板。



「あった……ここです、間違いありません! 占術師が言っていた店です」


 

 二人の反応も待たず、店の扉を力いっぱいに押し開ける。

 カラン、というベルの音と同時に、店の奥から主が顔を出すと思いきや――



「……すみません。誰かいますか?」


 

 一歩踏み入った瞬間、カビと埃の臭いが鼻を刺す。

 窓から差し込む外の光だけが、薄暗い店を辛うじて照らし出していた。

 再び呼びかけるが、返事どころか物音さえしない。



「留守なんじゃないか」



 閉まりかけた扉の隙間から、アドルフとベンジャミンが身体を滑り込ませた。

 僕たちの声と、床を踏みしめる軋み音だけが、伽藍洞(がらんどう)の中で不気味に響く。



「でも、たしかにここのはずなんだけどな……」


「肝心の店主がいないんじゃ、確かめようもないな」



 今にも店の外へつま先を向けそうなアドルフ。

 一方、古書好きの植物学者は吸い寄せられるようにふらふらと書棚へ近づく。



「わあ……この本にこんなところでお目にかかれるとは。あ、こちらもかなりの貴重書ですね」



 ()()()()()()()()ページをめくり、夢中で漁り始める。

 彼が本を取り出すたび、薄光の中で埃の粒子がふわりと舞い上がった。



「あの、ベンジャミンさん。店主もいないようですし、そろそろ引き上げま――」


「誰じゃ。わしの収集物(コレクション)を勝手にいじっておるのは」


 

 腐った果実のようなしわがれた声が、店内に落ちてきた。


この話あたりから、1話あたりの文字数が少し増えて2,000~3,000字程度になります。

3,000字超えにならないよう調整し、読みやすさを心がけて執筆しています。

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