第36話 恐怖の山の回想
アマルディアーノを手に、僕たちはオルガノ山の体験をダロドネスに語った。
インプにオーガ、そしてグーラーとの遭遇――
霧深い山での出来事を、身振り手振りを交えながら披露する。
狩人は興味深そうに、時おり席から脂ぎった身を乗り出しながら、僕たちの話に耳を傾けていた。
座談会めいた時間がひと息ついた頃。
僕はふと、引っかかっていた違和感を口にした。
「そういえば、下山中にはぐれたとき、アドルフさんとベンジャミンさんはずっと一緒だったんですか?」
軍人と植物学者が、一瞬だけ重い視線を交わす。
先に答えたのは植物学者だった。
「実は、私たちも霧の中で離れ離れになりましてね」
「えっ、そうだったんですか。でも、僕と再会したときは二人一緒でしたよね」
「そのときはすでに合流できていて……私は、危うくグーラーの餌食になるところでしたが」
「グーラーと遭遇したんですか?」
ベンジャミンは落ちかけた眼鏡を押し上げ、こくりと頷く。
ダロドネスが「ほお」と声を上げ、前傾姿勢で話の続きを待っていた。
「私は、二人と違って武器を持っていません。正直、あの山で骨になる覚悟すらしていました」
「じゃあ、どうやって逃げたんです?」
「それが自分でもよく分からなくて……ただ、これのおかげかもしれません」
彼が懐から出したのは――手のひらサイズの鉄製の小刀。
山麓の民宿の店主にもらったものだ。
「それで、グーラーを追い払ったんですか?」
「戦ったわけではありませんよ。ふと小刀のことを思い出して、とっさに握ったら……なぜかグーラーが怯んだように後退して、霧へ消えていったんです」
鉄の小刀が、グーラーの弱点?
アドルフとオーガの一件といい、山では理屈の通らない出来事が続いている。
ベンジャミンが持つ小刀と同じものを、僕も懐から取り出す。
片手に収まったそれは、真冬の水のようにひやりと冷たい。
店内の光を受けて鈍く輝く表面に、ふと影武者の横顔を見た気がした。
「眼鏡の兄ちゃんよ。それ、ちょいと見せてくれや」
ダロドネスは、受け取った小刀を灯りに透かし、爪先で弾いた。
酒場のざわめきに、硬い金属音が混じる。
やがて、興味を失ったように植物学者の手元へ返すと、
「珍しい品じゃねえな。名工の作にも見えねえ」
「宿のご主人も言ってましたよ。大した代物ではないが、お守りに持っておけと」
「それが、オルガノ山での魔除けになったわけか」
アマルディアーノを飲み干したダロドネスに、僕は思い当たって言う。
「そういえば、宿のおじいさんが言ってました。それは旅人への餞別だって。ダロドネスさんも寄れば貰えるかも」
「残念だが、俺は逆方向から山に入るつもりでな。行くなら下山後だ」
「そうですか。あそこで出たグリ草のスープ、とても美味しかったですよ」
ベンジャミンの手持ちの小樽には、さすがに残っていなかった。
ダロドネスが無事に山越えできることを、祈るばかりだ。
「まあ、魔物の話が聞けただけ収穫だ。ギルドじゃ、ろくな情報も得られなかったからな」
「さっきのギルド、そんなに不親切なんですか?」
僕の問いに、狩人の男は「いいや」と首を振る。
「俺も新参だ。ギルドってのは、あんたらが思っている以上に縄張り意識が強い。古参優遇で、新入りはよほど気に入られなきゃ仲間にもなれねえ。特に冒険者ギルドは、新入りの顔を徹底的に疑う」
顔を疑う――その言葉に、僕は自分の頬を指でなぞる。
「あれ? あそこはたしか、旅人ギルドでしたよね」
「冒険者ギルドは、三つのギルドをあわせた呼称だ。剣の目印が冒険者ギルド、片足ブーツが旅人、弓矢が狩人。資格があれば、複数にまたがって登録できる」
「一括りにされているだけで、中身は別組織ってことですね。じゃあ、ダロドネスさんは狩人ギルドに所属しながら、旅人ギルドにも?」
「そうさ。結局は追い返されたがな……あんたらも加入するなら覚えておけ。上の連中に気に入られりゃ、入るのは比較的簡単だ」
ドリンクのグラスを空っぽにしたアドルフが、会話に割り込む。
「その“上の人”ってのは、どうやって会うんだ?」
「ギルドによりけりだ。冒険者ギルドでは、ちょっとした加入試験がある。メンバーのお眼鏡にかなえば、上に面通ししてくれるさ」
ギルドの世界は、想像以上に閉鎖的だ。
僕のような影を追う者が、容易に立ち入れる場所ではないのかもしれない。
「まあ、ここで会ったのも何かの縁だ。どこかですれ違ったら声をかけてくれや」
店を出るとき、ダロドネスは一枚の古い銀貨をアドルフに渡した。
エルディアでは見たことのない、不思議な紋様が刻まれている。
「昔、東大陸を旅したときに貰った銀貨だ。正直、そいつにゃ金銭的価値はねえ……だが、何となく手放せなくてな」
「いいんですか? 大事なものじゃ」
尋ねた僕に、猫背の男は鷹揚に笑う。
「お宝や形見なんて大層なもんじゃねえよ」
銀貨を受け取ったアドルフは、所持金の中から古い金貨を取り出し狩人の男に渡した。
「おいおい。俺の銀貨にゃこれほどの価値はねえぜ」
「それは、俺が昔行った戦地で拾った戦利品だ。通貨としての価値はない」
ダロドネスは大事そうに金貨をしまう。
くたびれた帽子のつばをくいっと持ち上げ、
「あばよ、旅の三人衆。会えて良かったぜ」
短く言い残し、あっという間に人の波へ姿を消す。
籠を背負う後ろ姿が、別れ際の「あばよ」という台詞が、なぜか“もう会わない”と告げているように聞こえた。




