第35話 密入国者の噂
身を乗り出したダロドネスの肘が、ぐらりとカップを押しやった。
甘ったるい香りを含んだ湯気が揺れ、今にもテーブルの端から落ちそうだ。
「さっきも言った通り、エルディア帝国からの脱獄者について情報を集めてる」
会話の主導権は、アドルフに委ねた。
ダロドネスはぼさついた眉を片方だけ持ち上げ、半眼でこちらを探る。
「脱獄者ってんなら、よっぽどの罪人だろ。まさか、国家反逆か?」
「詳細は伏せられている。とにかく脱獄者の行方を追い、見つけ次第身柄を拘束せよとの命を受けている」
「ふーん、脱獄者の確保ねえ……で、こいつらもあんたの仲間かい」
狩人の視線が、真向かいに座る僕と、隣の植物学者を交互に射抜く。
アドルフは僕らを見もしないで、
「そいつらは、旅の道中で偶然出会った。目的地が同じ方向なので便乗しているだけだ」
ベンジャミンはともかく、僕の正体がエルディア帝国皇位継承者であるとは、口が裂けても言えない。
アドルフ即興の設定に、僕たちは無理にでも合わせるしかなかった。
「脱獄者の捜索なんて、賞金稼ぎあたりの仕事だろう。帝国軍の軍人さんが、どうしてまたそんな命令を受けたのさ」
「余計な詮索に付き合う気はない」
「つれねえなあ……まあいい。脱獄者かどうか知らねえが、妙な噂なら耳にしたことがある」
濁った灰色の眼が、僕たち三人を順に見回す。
「ここから南へ下った先に、タリア王国って国がある。帝国の侵略を受けていない神権国家だ」
「神権国家?」
聞き馴染みのない単語につい問い返す。
ダロドネスは「ああ」とゆっくり頷くと、
「神の名のもとに支配された国。国を統治するのは、預言者やシャーマンと呼ばれる怪しい連中だ。そうした連中が自ら王を名乗って国を動かしているのさ」
王自らが神の名を語り、神の信託を受けて一国を統べているというのか。
俄かには信じがたいが、ダロドネスの口調は至って真面目だ。
「で、その国が脱獄者とどう関係する」
アドルフが続きを促すと、赤ら鼻の狩人はアマルディアーノで喉を湿らせる。
「少し前、そのタリアに密入国者が現れたって噂を聞いた。国境という国境を要塞で固めたような国だぞ? どうやってすり抜けたんだか」
「その密入国者が、エルディアからの脱獄者かもしれないと?」
鋭い目つきになるアドルフ。
ダロドネスはひょいと肩をすくめると、
「さあな。ただ、脱獄者と密入国者の時期が妙に近いとなれば……ま、無関係とは言い切れねえな」
「その、密入国者の見た目とか、分からないんですか。子どもとか大人とか、性別とか。どんな服装をしていたとか」
矢継ぎ早の問いに、ダロドネスは怪訝な目で僕を見返す。
「噂話の域を出ねえよ。ただ――薄汚れた身なりのガキだったとか。どっかの孤児院から逃げてきて隠れたんじゃねえかって話もある」
子ども……それがもし、僕と同じ年頃なら。
影武者の少年たちは、僕と同じように魔法使いの才覚がある。
彼らが脱走し、他国で身を隠しているのなら、変化魔術で外見を誤魔化しているはず。
だが、影武者の魔力には父上が強い制限をかけた。
彼らが自らに変化魔術を使うとき、年齢と性別だけは変えられない。
つまり、どんな姿に化けても「十四歳の少年」であることは隠せないのだ。
だとしても、魔力を持たない者よりは要塞突破の難易度は格段に下がるだろう。
「タリアへ行くとすれば……南へ真っすぐ、だが距離は相当だな」
アドルフが、いつの間にかテーブルの上に地図を広げていた。
男四人、肩を寄せて紙の上へ影を落とす。
「ただ真っすぐ行くだけなら、そりゃ簡単さ。“魔物の臓物”みたいな山やら地獄みたいな道がなけりゃ」
狩人はヒヒヒ、と喉の奥で笑う。
オルガノ山の記憶が蘇ったのか、ベンジャミンが顔を引きつらせていた。
「タリアまでの旅路は未知数だ。臓物なんて可愛く思えるほどの魔境もあるかもしれんぞ」
ダロドネスもアドルフも、二人して恐怖を煽らないでほしい。
植物学者はすでに顔面蒼白、今にも椅子ごと倒れそうだ。
「まあ、タリアへ行くなら覚悟しておけってこった――で、そろそろ聞かせてくれよ。“魔物の臓物”であんたらが遭遇したモンスターの話をさ」




