第29話 奇妙な旅人
「誰だ、あんたは」
剣の柄に指をかけたまま、アドルフが警戒心むき出しの声で問う。
その背中越しに、霧の中で佇む人物を観察した。
白い――何もかもが。
肌も、腰まで垂れる髪も、風に揺れる布地の服も。
彫刻めいた美貌が霞むほどに、その白さが際立ちすぎていた。
人族か、あるいは精霊の類いか。
彼女から魔力の波は感じられない。
けれど、自身の魔力が弱まっている今、断定はできなかった。
「あなた方も、私と同じ旅の人でしょう?」
女性は、鈴を転がすようにささやく。透き通るほどに美しい声で。
いや、透き通りすぎて冷たいほどだ。
まるで、生者の体温をもたないかのように。
私と同じ旅人。彼女はそう言った。
それは変だ。
直感を働かせるまでもなく、一目瞭然である。
くるぶしまで隠れるほどの白いロングドレス。
山を歩いたのなら、裾に泥はねくらいあるはずだ。
山道に不釣り合いな底の浅い布靴は、ぬかるみに踏み込んだ跡すらない。
家を出てその辺の街をちょっと散歩しています――そんな恰好。
険しい道を行く旅人には、とても見えない。
アドルフとベンジャミンも、同じ違和感を抱いているのだろう。
それぞれ警戒の眼差しを女性に向けている。
軍人の指先は、いまだ剣の柄にかけられたままだ。
「俺たちに、一体何の用だ」
静かに問うアドルフ。
女性は、花開くようにふわっと笑みを浮かべた。
「実は私も、旅をしていて……山の中で迷ってしまったのです。もしよろしければ、麓までご一緒させていただけませんか?」
長旅用の装備で大きな荷物でも抱えていれば、「ならば一緒に」と応じたかもしれない。
だが、彼女の言葉と見た目には矛盾が多すぎる。
僕とベンジャミンは互いに視線を交わし、最終的な判断をアドルフに預けた。
「悪いが俺たちは急いでいる。あんたの歩調に合わせる余裕はない。旅の道連れならほかを探すんだな」
女性の顔も見ず、さっと横を通り過ぎた。
残った二人も、俯き加減でその背を追う。
十数歩ほど進んだところで、ふと後ろを振り返る。
女の姿は霧に呑まれ、とうに見えなくなっていた。
◇◇◇
「不思議な人でしたね……何と言いますか、旅人にしてはあまりに」
「不自然すぎる」
ベンジャミンの言葉を、アドルフが引き取った。
「あの女は旅人なんかじゃない――俺たちを、森へ引き込むつもりだったのかもしれん」
「彼女が、魔物の類いだと?」
「そうかもな……あの女からは、死人の臭いがした」
アドルフの後ろで、ベンジャミンと僕は「死人?」と口を揃える。
「女のあの肌……血の通った人族にはとても見えなかった。目つきも虚ろで、足取りもふわついてた」
「たしかに、異常な肌の白さでしたね。ですが、まさか彼女が魔物だなんて」
植物学者の口調には、戸惑いが滲んでいる。
「魔物とは限らんさ。ただ、万一またあの女と遭遇しても、絶対に連れて行くな」
軍人の腰で、長剣がガチャリと重く鳴る。
僕とベンジャミンは、霧越しに「分かりました」と異口同音に頷いた。
それからしばらくの間、三人は無言でひたすら歩き続けた。
いつの間にか、辺りを包む霧が薄くなっている。
呼吸も次第に楽になり、胸の重さがほどけていく。
心なしか、足取りも軽く感じはじめていた。
この調子で進めば、麓まであと少しの辛抱だ。
インプやオーガの襲撃にも何とか耐えた。
魔物の臓物と恐れられる山とも、ようやくおさらばできる。
胸の逸りを抑えながら、坂道を下っていたとき。
…………?
微かな声が、耳をかすめたような気がした。
きっと、空耳だ。
そう思いながらも、後ろ髪を引かれるような感覚が拭い去れない。
歩きながら、肩越しにちらと後ろを振り返る。
――なんだ。誰もついてきてないじゃないか。
ほっと息を吐き、視線を前に戻す。
瞬間、ドクリと胸が跳ねた。
「……アドルフさん? ベンジャミンさん! どこですか?!」
植物学者の灰色の頭も、軍人の逞しい背中も――どこにも見当たらない。
早まる鼓動を無理やり抑えながら、もう一度声を張り上げた。
「アドルフさん、ベンジャミンさん! 聞こえてるなら返事をしてください!」
仲間を求める声が、霧に吸い込まれる。
自然と足が止まり、呆然とその場に立ち尽くした。
二人の声も、足音も、葉擦れの音さえ聞こえない。
自分の息遣いまでもが、山の魔力に奪われてしまったかのよう。
完全な静寂の中で、僕ひとりが世界に取り残されていた。




