第28話 霧の中より
「下山では、登るときより死人が出やすい」
ゆっくり坂を下りながら、アドルフが言う。
「下山は下り坂になる分、重力が味方になって足が勝手に進む。だからこそ足元が不安定になり、急坂や段差で転ぶ。その一瞬が、生死を分けることすらある」
白く沈んだ空間の中で、彼の声だけが妙に鮮明だ。
「しかも、登山ですでに体力を削られている。疲労で集中力も鈍る。だから、急ぐとは言ったが焦って走れという意味じゃない。丁寧に、乱さず、一歩ずつ。呼吸と歩幅を揃えろ」
「さ……さすが軍人さんですね。言葉に重みがあるというか……」
そう返すベンジャミンは、すでに息が荒い。
そろそろ小休憩を、と思い始めた頃、アドルフが空気を読んだように宣言した。
「よし。このあたりで少し休むか」
道が開け、小さなスペースが現れた。
男三人が座り込めば、肩が触れ合うほどの狭さだ。
「今のところ、魔獣の気配は特に感じないですけど」
辺りを見回していると、植物学者が小声で返した。
「ですが、嫌な雰囲気はありますね……山頂を離れた途端、また霧も濃くなりましたし」
「こんな深い霧じゃ、誰かとすれ違っても気づかないですね」
「人がいるわけないですよ、こんなところ……に……」
ベンジャミンの言葉が途中で止まる。
彼の視線が、僕を素通りして森の奥へ注がれた。
引き寄せられるようにそちらへ目を向けるが――白い霧ばかりで、何もない。
嫌な沈黙。
「……どうかしましたか、ベンジャミンさん」
「いえ……きっと、気のせいでしょう」
植物学者は首を振る。
嫌な想像を自分の中から追い払うように。
二人のやり取りを黙って聞いていたアドルフが、出し抜けに口を開いた。
「俺も見たぞ」
「え?」
軍人の鋭利な眼差しが、ベンジャミンが見ていた森の先を射抜いている。
「たしかに、いたな」
「や、やっぱりアドルフさんも……じゃあ、あれも……」
会話に一人取り残された僕は、地面から立ち上がって二人を見下ろした。
「あの、一体何の話ですか。僕には何も――」
言いかけて、はっとする。
頭によぎったのは、植物学者の言葉。
『オルガノ山に入ってから、魔法を多用しましたよね……それで、魔力と体力を一気に消耗したんじゃないでしょうか』
魔力を感じ取る力も、弱まっているのか。
人族のアドルフやベンジャミンさえ捉えている気配に、気づきもしないほど。
足元がふらつく。
膝に力を込めるが、霧が重く絡みつくようだ。
「ネイサン、どうかしましたか。顔色が悪いですが」
地べたに座るベンジャミンの声が遠い。
彼の隣で片膝をついているアドルフが、おもむろに立ち上がった。
「休憩は終わりだ。先を急ごう」
◇◇◇
下山を始めて、どれだけ歩いたか分からない。
中腹あたりはとうに過ぎたのか、あるいは半ばも行っていないのか。
山を覆う霧が、距離感や時間の感覚までもを奪う。
頭上に広がるはずの空も霞み、白い箱庭に閉じ込められたかのようだ。
ふと、先頭を行くアドルフが歩を止める。
僕とベンジャミンも、距離を詰めながら慌てて立ち止まった。
先に問いかけたのは植物学者だ。
「どうかしましたか、アドルフさん」
「――誰か、来る」
低い呟きに、首筋を冷たいものが走る。
何か、ではなく、誰か。
「旅人……ですかね。まさか、魔獣じゃ――」
「分からん」
短く返すと同時に、鋼が擦れる音。
だが、アドルフは剣を抜ききらない。霧の前方を凝視している。
「……人か?」
意外な一声に、思わず最後尾から前へ飛び出した。
つま先立ちをし、軍人の肩越しに前方を見る。
白い膜に包まれた空間から、一つの影がゆっくりとこちらへ近づいてくる。
全体が細長く、人族を思わせる手足の輪郭。
隣に立つ植物学者が、小さく息を呑む。
「……あの、もしや旅のお方ではございませんか」
霧の中から姿を現したのは――透けるほどに白い肌を持つ、見知らぬ若い女性だった。




