第2話 壮途の式
「名付けの儀は終わりましたか」
扉を閉めた直後、背後から落ち着いた声がかけられる。
ぱっと振り返ると、軍人の青年が数歩ほどの距離を空けて佇んでいた。
――廊下へ出た瞬間は、視界のどこにもいなかったのに。
「あ、はい……おかげ様で」
軍人は、背中に見えない剣でも差し込んだかのように直立不動の姿勢を保ちながら、
「それは何よりです。これで旅支度は万全ですね。その自然な見た目も、さすがシュティルナー師匠の魔術、と言うべきでしょうか……ところで」
頭を微かに動かし、軍人の彼と視線が交錯する。
「これから、殿下のことを何とお呼びすればよろしいでしょうか」
僕に与えられた第二の名――ネイサン・レウシュキン。
その名を告げると、相手は無表情のままこくりと頷いた。
「では……ネイサン。いや、ネイサン殿とお呼びすれば?」
「あの、そんな堅い呼び方は止めましょう。僕らは身分を隠して旅をしなければなりません。僕のほうが年下ですし、敬語もよしてください」
「では、ネイサンと呼ばせていただき――失礼。つい、平時の癖が」
今すぐ話し方を変えろというのも無理だろう。
旅の間で、自然と慣れてくれればいい。
まだ始まってすらいない、長い長い旅路の中で。
「ところで、僕はあなたのことを何とお呼びすればよいでしょう。まだ名前を伺ってませんでした」
「私は、アドルフ・ウィルヴィンと申します。隊の仲間からは、アドルフとかウィルとか呼ばれています。どうぞお好きなほうで」
お好きにどうぞ、と言うにはそっけない口調だった。
親しみを込めて「ウィル」と呼びたいところだが、頭の中で呟いた瞬間に背筋がむず痒くなる。
「それじゃ……アドルフさん。よろしくお願いします」
「こちらこそ。では参りましょう。両陛下が外でお待ちです」
規則正しい歩幅のアドルフに合わせて歩き、城門へ向かう。
木造の重厚な扉を押し開いた瞬間、雲ひとつない青空が頭上一面にぱっと広がった。
――まさに、旅立ちの日にふさわしい空だ。
皇族の間では、一族の者が旅に出るときに執り行う式を「壮途の式」と呼ぶ。
母上によれば、式の日取りを決めたのは先代より一族に仕える占術師だという。
占術学では、マウルス月の象徴神であるマウルスは「火神」の異名をもつ。
そして、僕の属性魔法は四元素魔法の「火」。
火の属性を持つ術者にとって、この月は旅立に最良のタイミングらしい。
安直な理由だ、と言ってしまえばそれまでだ。
とはいえ、火の神が味方してくれたのなら文句は言えない。
春の到来にはまだ早い、少し肌寒い風が吹く。
背中を覆うマントが、主の歩を急かすようにくぐもった音を立てながらはためいた。
◇◇◇
壮途の式は、父上の言葉を借りれば「つつがなく」終わった。
優に百は超える数の軍人、顔すら覚えきれていないオスカイネン族の使用人たち。
そして、エルディア帝国の最高位に座する父上と、その正妻である母上。
大勢に見送られながら、アドルフとともに城を後にした。
――もう、後戻りはできない。
どれほど辛くても、どんなに弱音を吐いても。
旅の目的を果たすまでは、城の領域に一歩たりとも踏み入ることはできない。
それが、父上との間に交わした「契約」なのだから。




