第27話 山頂にて
――ふわふわする。
身体が浮いているみたいだ。
まるで空を飛んでいるような、心許ない浮遊感。
飛行魔術の訓練?
いや、僕は今、旅に出ているはずだ。
そう……影武者殺しの、旅。
それで……山に、入った。
世にも恐ろしい魔獣が潜むという、恐怖の山に。
そして……仲間が魔獣に襲われそうになって――
◇◇◇
「――オーガ!」
反射的に顔を上げる。
途端、目前から「動くな!」と鋭い声が飛んだ。
鼻先が触れそうな距離で茶髪が揺れる。
見慣れた後ろ姿――じゃない、後頭部。
僕は担がれ、運ばれているらしい。
「ア、アドルフさん……? 僕、どうして――」
「急に倒れたんですよ。オーガが去って、アドルフさんと合流した直後に」
背後から聞こえる、植物学者ベンジャミンの声。
記憶がうすぼんやりと蘇る。
アドルフとオーガの足跡を追い、霧の中で彼らを見つけたこと。
オーガがなぜか、アドルフを襲わずに森への中へ消えたこと。
結局、あの奇妙な出来事は一体何だったのか。
アドルフ自身も、その理由は掴めていないらしい。
「あれ……そういえば、アドルフさんの剣は」
「俺の剣なら、ここにあるぞ」
アドルフの腰に、鞘に収まる長剣が見えた。
後方でベンジャミンが話を続ける。
「ネイサンを担いで一本道に戻ってきたときには、術は解けていました。理由は分かりませんが、術者が意識を失うと魔力が消えるのかもしれません」
「ああ……そうだったんですか」
「アドルフさんとも話したのですが、魔力の使いすぎが原因なんじゃないかと」
僕を担ぐアドルフの隣に、植物学者が並ぶ。
その背中で、アドルフの大きく膨らんだ荷物が揺れていた。
「オルガノ山に入ってから、魔法を多用しましたよね。それで、魔力と体力を一気に消耗したんじゃないでしょうか……なので、早めに山を越えようと話していたところです」
息を切らせながらも、彼はアドルフの歩幅に追いついている。
僕は前に向き直り、揺れる茶髪に問いかけた。
「今、山のどのあたりですか?」
「もうじき山頂に着く。そこから一気に下るぞ」
ざっくりとした返答だが、少なくとも視界が開けた山頂で魔獣に遭遇するとは考えにくい。
そこで一度休むつもりらしい。
「あ、アドルフさん……僕、もう自分の足で歩けますから」
「いや。お前を背負って行くほうが早い」
……僕が歩くと遅いということか。
横を見ると、植物学者は気まずそうな苦笑い。
ジタバタもがけば、「じゃあ一人で帰れ」と本当に置いていきかねない。
僕は反論を飲み込み、悔しさを彼の大きな背中に埋めた。
◇◇◇
山頂は霧が晴れたぶん、鋭い風が吹き抜けていた。
標高が高いため空気も薄い。休むとはいえ長居はできなかった。
「お世辞にも、景色がいいとは言えませんね」
乾燥パンを口に運びながら、ベンジャミンが呟く。
彼の視線につられ下を向くと、灰色の霧が山全体をすっぽり包み込んでいた。
まるで、霧が山の命を吸い取っているかのよう。
植物学者の言う通り、絶景というよりも不気味さが勝っている。
オルガノ山は、インプやオーガといった魔物たちの棲家だ。
彼らが求める餌は、山へ挑んだ人族たちの屍。
魔物の臓物――オルガノ山がそう呼ばれる由縁だ。
「下山するまで、新たな魔獣に遭遇しなければいいですけど」
風に髪を煽られながら、植物学者が不安をこぼす。
アドルフは水袋を仰ぎ、喉を鳴らしてから言った。
「日暮れまでには山を下りる。でないと遭難のリスクがあるからな」
普通の山でさえ、日が落ちてからの遭難は危険だ。
それが魔獣の巣窟であるオルガノ山となれば――結末は、目に見えている。
「あ、そうだ。二人にこれを」
ベンジャミンが荷物の中から、木製の小樽を取り出した。
蓋を開けた瞬間、懐かしい匂いがふわりと広がる。
「あれ、この匂い」
「麓の宿で出された、グリ草のスープです。ご主人から少しだけ分けてもらったんですよ」
「お前、いつの間にそんなことを」
呆れた表情のアドルフと、唾をのみ込んだ僕。
ベンジャミンは木製の小ぶりな器を荷物から出すと、スープを注いで僕のほうへ差し出した。
「下山までの体力を残すためにも、どうぞ。アドルフさんも」
グリ草の微かな苦味とクリーミーな滋味が舌を撫で、内側から温かさが満ちる。
朝焼けの中で「達者でな」と手を振った旅籠の老人が、一瞬だけ霧の奥に見えた気がした。




