第1話 旅立ちの日
「旅の支度は整いましたか、殿下」
扉が静かに開き、屈強な体躯の青年が姿を現した。
茶髪を短く刈り込み、キリっとした精悍な顔立ちは絵に描いたような軍人そのものだ。
父上が事前に語っていた言葉が、脳裏に蘇る。
『二十六歳の若さにして、攻撃軍第二師団の副指令長まで登り詰めた逸材だ。義理堅く、忠誠心も厚い。旅の相棒としては申し分ないだろう』
人の好き嫌いが激しい父上の口から「申し分ない」とは、滅多に聞ける評価じゃない。
よほど信頼されている人物なのだろう。
「支度ができましたら、シュティルナー師匠の部屋へ向かうようにとのことです。私は部屋の外で待機せよとの命を受けていますので」
「あ、はい……あの」
「何でしょう」
「いえ……なんでもありません」
青年はわずかに首を傾げただけで、「では、外でお待ちしています」と短く告げ、すぐに扉を閉めた。
動作の一つひとつに無駄がなく、洗練されている。
埃ひとつでも服についた瞬間、目にも止まらぬ速さで払い落としそうだ。
マントの皺を直し、深く息を吐く。
金のボタンに刻まれたエルディア帝国の紋章が、部屋の灯りを受けて誇らしげに輝いていた。
――その輝きと裏腹に、胸の奥はずしりと重い。
廊下へ出ると、先ほどの軍人が壁に背を付けた姿勢で静かに佇んでいた。
精巧な蝋人形、と形容したくなるほど表情に乱れがない。
僕たちは、城の奥へと続く呆れるほどに長い廊下を進んだ。
シュティルナー師匠の部屋は、城の最も奥まった空間に設えられている。
昼間でも真夜中のように薄暗く、陰気さすら感じる場所だ。
魔術訓練のたびに訪れたこの部屋とも、今日を境にしばらくお別れだと思うと、わずかに気が楽になる。
重々しい扉の前で、軍人が立ち止まった。
ドラゴンの彫刻が施されたリング状のドアノブを、規則正しいリズムで三回叩く。
「シュティルナー師匠。ニコライ皇太子殿下がお見えになりました」
返事の代わりに、錠が外れる微かな音。
軍人の青年はスッと横へ下がり、代わりに僕が重厚な扉の前に立つ。
「失礼します」
腹から声を出し、扉をゆっくりと押し開けた。
早朝にもかかわらず、部屋の中は夜みたいに真っ暗だった。
扉を閉めれば、外界の光は断たれ完全な闇が辺りを覆い尽くす。
「いよいよ、出立の時じゃな」
闇の中から、しゃがれた声がした。
次の瞬間、青白い光が部屋の中央にふっと灯る。
ぼろきれのようなマントを纏った老人が、暗がりの中からぬっと顔を突き出す。
ボサボサの白髪に縮れた長い白髭は、エルディア帝国が誇る名高き魔術師とは到底思えない見てくれだ。
老人の左手には、その辺の樹木から折ってきたような、手のひら二つ分ほどの長さの木の棒が握られている。
もちろん、ただの棒きれではない。
強い魔力を宿した魔道具そのものだ。
「お主には、昨日までに必要な魔術の知恵はすべて授けておる。もはや教えることなど何もない」
「ありがとうございます、メルキオル・シュティルナー師匠」
「うむ……さて、名付けの儀を行う前に、まずはその見た目をなんとかせねばな。お主の金髪碧眼は、旅の間にはちと目立ちすぎる」
光を受けて眩く輝く金色の髪に、海を思わせる碧い瞳。
オスカイネン一族が代々受け継ぐ身体的な特徴だ。
ちなみに、他国から嫁いだ母上は栗毛にエメラルドグリーンの瞳という見た目だが、その特徴は僕には一切受け継がれていない。
遺伝とは不思議なものである。
「まあ、人目を忍ぶなら黒髪黒目が無難じゃろう。ほれっ」
師匠が杖をひと振りした。
鱗粉のような光が身体を包み――たったそれだけで、彼の魔術は完了していた。
「これでよい……顔立ちも、少しばかり大人にしとるからな。まあ、さほど変わりはしないが。あとで鏡でも窓ガラスでも見てたしかめればよい」
物体や人族の見た目を変える「変化魔術」。
シュティルナー師匠が最も得意とする術の一つだ。
魔術訓練をさぼったときは、罰として気味の悪い魔法生物に変えられたこともあったっけ。
「さて。最後に、私がお主に授けるのは一つ。旅の間、お主が名乗る“第二の名前”じゃ」
シュティルナー師匠は、僕に向かって手招きをする。
青白い空間の中を進むと、丸テーブルの上に銀色の盃が置かれていた。
中には透明の水が並々と注がれている。
ただの水でないことは、盃の前に立った瞬間すぐにわかった。
「これは……」
「特別な魔力を宿した盃じゃ。利き手をかざしなさい」
言われるまま、右手を盃の上に差し出す。
そのままじっと待つと、不意に水面がゆらりと動いた。
触れてもいないのに、盃の底から一枚の葉が水魔のように浮かび上がってくる。
「ふむ……よし。お主の第二の名が今ここに授けられた」
手のひらの半分ほどの大きさの葉を顔の前に持ち上げ、師匠は目を細める。
木枯らしのような、それでいてどこか力強さのある声が厳かに告げた。
「今日より、お主の名をニコライ・デュラン・オスカイネン改め――ネイサン・レウシュキンとする」




