旅立ち前の記録
机上の隅に置いたランプへ、右手を伸ばす。
暗闇の中に、小さく柔らかな橙色がぱっと灯った。
埃ひとつない整然とした机の上に、革張りの手帳と一本の羽ペンをそっと置く。
手帳のページを開くと、羊皮紙の独特な匂いが微かに鼻孔をついた。
傍らの羽ペンを手に取り、黄ばんだ空白のページにペン先をそっと押し当てる。
途端――インクもつけていないのに、紙の上にするすると文字が浮かび上がる。
はっとするほど深く鮮やかな蒼の光が、夜闇の旅人を導く星のように瞬いた。
◇◇◇
『この日記帳と羽ペンには、特別な魔力を宿らせている。魔力のない者にとっては、ただの古びた手帳とインクのない羽ペンだ』
父上はそう言って、革製の日記帳と羽ペンを僕へ手渡した。
手のひらに乗せた瞬間は綿毛みたいに軽かったのに、次第に不思議な重みが伝わってくる。
『旅の間、必ずこの日記帳に記録を残しなさい。これはいわば、お前が生きた“証”になる』
『アカシ、ですか』
父上の言い回しは、いつも難解でやたら格式ばっている。
そばに控えていた老執事が、遠慮がちに苦言を呈した。
『陛下。もう少し、お易しい表現でもよろしいのでは』
『む……言葉とは難しいものだな。まあ、アレだ。とにかくその日記を毎日ちゃんと書いておけ。それでいい』
最後のほうは、完全に投げやりだ。それでも僕は素直に「わかりました」と頷く。
十四年間、一度だって父上の命に「いいえ」と返したことはない。ただの一度も、だ。
『日記帳と羽ペンは、肌身離さず持ち歩きなさい。主の手から離れると、宿った魔力は弱まりいずれ消える。魔力とは……無限ではないのだ』
『承知しています、父上』
父上は満足げに頷くと、窓の方へ向き直った。
城の外では、夜番の兵士たちの持つ松明が、闇の中で小さな星みたいに並んでいる。
『さっそく今夜から書いてみなさい。旅立ちの朝は何かと慌ただしいだろう。今宵のうちに、旅の心構えでも記しておくとよい』
暗い影が落ちる父上の背中に向かって、再び「はい」と返事をした。
◇◇◇
「……旅の心構えって言ってもなあ。一体、何を書けばいいんだろう」
机の上で頬杖をつき、独り言をもらす。
とりあえず、父上に日記帳を譲渡(父上いわく「譲渡」らしい)されたときの会話を書き起こした。
けれど、そこから先が続かない。右手はぴたりと止まってしまった。
誓いの文句でも、書き記せばいいのだろうか。
立派な言葉は何ひとつ頭に湧いてこない。
かといって、嘘の気持ちを並べ立てるのも違う気がする。
「そういえば、母上は日記のことを“忘れないために書くもの”だと言ってたな」
一人前の魔術師になるため、修行の旅に出る――そう伝えたときの、母上の顔が浮かぶ。
静かに微笑みながら、「気を付けるのよ」とたった一言だけ告げた。
その一言と微笑みに、言語化できないあらゆる感情が秘められている気がした。
母上は、気付いていたのかもしれない。
あのときの僕の宣誓が、半分真実で半分偽りであることを。
「忘れないため、か」
気付けば、羽ペンの先端が紙の上から離れていた。
指先に少しだけ力を込め、黄ばんだページに光の文字を走らせる。
『僕は明朝、旅に出る。旅の目的は――僕の“影武者”たちを殺すこと』
異世界ファンタジー、初執筆です。
もともと、ゴリゴリの推理小説書きから執筆活動をスタートしました。
未熟な部分も多い作品ですが、自分なりに気持ちやこだわりを込めて書いています。
どうぞ、ごゆるりとお付き合いください。




