尻尾を振る子犬の様な妻で御座います。
シエルは自分の部屋で書類を見ていた。
夫が兵を引き連れ討伐に出ている間、領地経営はシエルの仕事だった。
「君の顔を見るのが辛い。……か」
シエルはそう呟くと空を見上げた。
「それ位、子供に期待を掛けていたと言う事だわ。ちゃんと知らせなかったから仕方ないわ……。知らなかったとは言え、お怪我をして苦しんでいた旦那様のお傍にも行けなかったし……」
書類を読んでいた筈なのに、いつの間にか頭の中は別の事を考えていた。
あれから一週間を過ぎたが、アレンとまともに話をしてはいなかった。
シエルの部屋と夫婦の寝室、アレンの部屋はコネクティングルームで繋がっている。アレンが帰って来る前、シエルは夫婦の寝室で眠り、夫の部屋で執務を行っていた。領地経営の資料は全て夫の部屋にあったからだ。
眠るのは夫婦の寝室のベッドだった。
自分の部屋にも寝台はあったが、少しでも夫の温もりを感じていたかった。
1年間、留守であったとしても。
怪我をした夫が帰って来て夫婦の寝室で眠り、尚且つ自分の顔を見たくないと言ったら、夫の部屋で仕事をする事が出来なくなってしまう。だから資料を運び出して自分の部屋で執務を行う事にしたのだ。
足りない資料はコネクティングルームを通らず、廊下から夫の部屋に行って探して来る。
時々、寝室から二人の話し声が聞こえて来る。何を話ししているのかは分からない。
たまにアルルの明るい笑い声も聞こえた。
夫の部屋の前で立ち止まって耳を澄ませていたら、ドアが急に空いてアルルが出て来た。シエルは慌ててその場を離れる。
アルルはタオルと小さな桶を持っていた。
「あら? シエル様? 何かアレン様にご用ですか?」
きょとんとして声を掛けた。
「ああ、あの、ちょっと領地の事でお話をしようかと思って……」
シエルは答えた。
「では、ちょっとお待ちください。今、体を拭いている所です。お湯を替えてもう一度拭きますから」
「あの、だったら私が」
シエルが言うとアルルはちょっと微笑んだ。
「いえ。傷がありますから私がやります。肩も動かせませんし。シエル様はお部屋でお待ちください」
アルルはそう言うとドアを閉めて行ってしまった。
シエルはため息を吐いて部屋に戻った。
ぼんやりとしているとコンコンとノックの音がした。
「はい」と返事をするとアルルが顔を出した。
「どうぞ。シエル様。まだ手当ての途中ですが」
アルルがそう言ってシエルは立ち上がった。
ベッドの上に座ったアレンは上半身が裸で脇腹に傷があった。その傷にアルルが薬を塗り込む。逞しい夫の体に思わず顔を赤らめて目を逸らせた。
そして妻である私が何で恥ずかしがっているのだろうと自分に突っ込む。
結婚して半年しか一緒にいなかった。
それから夫は討伐に行ってしまった。1年間が過ぎて夫は帰って来たが、また半年で二度目の討伐に出てしまったのだ。二度目の討伐も1年間。
その時身籠った子供が流れてしまったのだ。
「シエル、どうした?」
アレンは優しい声を掛けてくれた。
少しは落ち着いたらしい。
「はい。お怪我の方はどうかと思いまして……」
「怪我はこの通りだ。片腕は動かせないがな。だが、もう少し休めば良くなる。来週からは散歩でも始めるよ。ところで領地の事とは?」
シエルは黙ってアルルを見る。アルルは処置を終えてアレンにシャツを着せている所だった。
「あのう、アルルさん。席を外して頂けますか?」
シエルがそう言うとアルルは「あら、私がいてはお邪魔ですか?」と返した。
「財政の事なので……」
シエルが言うとアレンは顔を曇らせて「財政? 何か不都合な事があったのか?」と言った。
シエルは黙っている。
アレンはアルルに「済まない。アルル。少しの間、部屋を出てくれ」と言った。
アルルは明らかに不機嫌な顔をしていたが、乱暴に「分かりました」と言って部屋を出て行く。
シエルはその態度に唖然とした。
アレンは苦笑する。
「少し我儘な所もあるんだよ。大目に見てやってくれ」と言った。
「はあ……」
「領地の財政については大体の所ステファンから聞いている。君は私が留守をしている間、とても良くやってくれていたとステファンは言っていた。有難う。シエル」
アレンは嬉しそうに言った。
シエルは嬉しくなった。思わず満面の笑顔になる。
「慣れない領地経営を頑張り村々も見回り、教会と修道院への寄付も欠かさずやってくれている」
「はい!」
「教会に孤児院も作ったと」
「はい!」
「修道院の病室を整備したと」
「はい!」
「しかし、小麦は昨年収穫量が半減してしまったと聞いた。水害の所為だったって?」
「はい。レナル川が氾濫して付近の小麦が全滅してしまったのです。村も水浸しで大変でした」
「それは復旧が大変だっただろう。……世話になったな」
「はい」
「それで問題とは?」
「ええっと……。雨に備えて土手の改修工事が始まっております。その費用の不足分を捻出をするのに城にある調度品を売りたいのですが……」
「調度品を?……うーん。待ってくれ。じゃあ、もう少し良くなったら領地の収支報告書を見せて貰おう。そこで考えよう。レナル川も視察に行かないとな」
「はい」
「じゃあ、今日はここまでだ。私は少し休むからそうアルルに伝えてくれ。自分の部屋にいるはずだ」
「はい……。あの、旦那様。」
「何だ?」
「お早うございますとお休みなさいの挨拶をしに来てもいいですか?」
その言葉にアレンは虚を突かれた。
「……何だ。そんな事か。勿論いいとも。……。悪かった。シエル。子供みたいな態度を取ってしまって。子を失って悲しいのは君も同じなのに。……。ただ、我が子に会えると、そればかりを楽しみにしていたから、とてもショックだったんだ。……シエル。傷が治ったらまた一緒に眠ろう」
アレンがそう言ってシエルはぱあっと顔を明るくさせた。
そしてコクコクと頷いた。