旅に出たので御座います。
その夜。
シエルは侍女のアンナを呼び出した。
アンナはシエル付きの侍女である。同じくらいの年頃なら話し相手にもなるだろうと言って新婚で来た時にステファンが付けてくれたのだ。
シエルとアンナは気が合った。
シエルはどこに行くにもアンナを伴って行った。
「シエル様。もうあの看護師など追い出しておやりなさい」
アンナはそう言って怒っていた。
「ずうずうしいったらありゃしない!」
「アレン様もどうかしています!召使達は皆怒っていますよ」
「怪我も良くなったのだから、北の修道院へ帰すべきです!」
シエルはそれには答えず「アンナ、暫く旅に出ましょう」と言った。
「旅? 旅ですか?」
アンナは驚いた。
「旅と言うか……屋敷を離れたいの。だからあのレナル川のロサ村、あそこに暫く留まりましょう。レナル川の堤防の為と言えばアレン様も納得するでしょう?」
シエルは寂しそうに微笑んだ。
「本当だったらこのままどこかへ行ってしまいたいの。けれど、領地を見捨てて行く訳には行かないし……。ステファンには話をして行くから。……もう何か、疲れちゃったの」
「そんな事をしたらアレン様とあの女が益々近くなって。どうするのですか? あの女を愛人にするとか言い出したら。いいえ、それよりも結婚するとか言い出したら」
「大丈夫。愛人は分からないけれど、結婚はしないって言っていたから。怒りながらそう言っていたわ。……でも、もう何が正しいのか分からなくなってしまって……。暫くここを離れたいのよ。あの二人を毎日見ている事に疲れたの」
「シエル様……」
何てお可哀想に。
アンナはそう思った。
当主が不在中、シエルは右往左往しながらも必死で領地経営をして来た。その努力が実って領地は少しずつ豊かになり、村々の衛生環境も改善されて来ていた。
経営が上手く回り出した頃の大打撃だった。
あの大水害は。
主要な産物は小麦であるが、前回の大雨では河岸の小麦がほぼ壊滅状態になってしまった。水浸しになった村は再建が大変でシエルは領地全体に声を掛けて復興して来たのだ。
あの年は本当に大変な年だった。
当主のアレンは蛮族の討伐に出ていたから、ロイド伯の城はシエルを中心に一致団結して働いたのだ。
ステファン様はその時の事をちゃんとご主人様に話してくれたのだろうか?
全く、役に立たない家令だわ。
腹立たしい事この上ない。ムカつくわ!
あんな平民の看護師にいい様にされて!
きぃー!!!
「分かりました。荷物を詰めます。シエル様。どこまでもご一緒致しますからね」
アンナはそう言うと鼻息荒く腕まくりをした。
◇◇◇◇
次の朝。
アレンとアルルは早くから馬車に乗って修道院と教会に向かった。
アルルは新しいドレスを身に纏っている。
「アレン様。どうですか? このドレス。アレン様に買って頂いた布で仕立てましたの」
「ああ、良く似合っている」
そんな事を言いながら馬車に乗り込む。
「行ってらっしゃいませ。旦那様。お気を付けて」
シエルは微笑んだ。
二人を見送り、シエルとアンナは用意していた馬車に乗り込んだ。
ステファンを始め、家人達が集まって来た。
「ステファン。昨夜話をした様に旦那様にはお伝えくださいね」
シエルは言った。
「分かりましたが……。奥様はちゃんとお戻りになられるんですよね?」
ステファンは何度も念押しした事をまた繰り返した。
「戻るわよ。だって、私には他に行く所がないのだから。暫くはロサ村に滞在して、国土農政部の方々と治水事業に専念するわ。それで、それ以外の仕事に関しては私の机の上に分かる様にして置いたから。旦那様にはそう言ってください。修道院と孤児院には毎月人をやって様子を見る様にしてね。
あ、それから明日から始まる聖女セリーナの生誕祭ですが、教会の方へは私の欠席を謝って置いてください。旦那様は必ず行く様に伝えてね。お布施を忘れないで持たせて頂戴」
「承知致しました。領主が帰られたので、お二人揃って礼拝に行くべき所ですが、仕方がありません」
ステファンは答えた。
「教会のバザーも見て来る様に言ってください。大切なイベントだから」
「分かりました」
「それから、私と旦那様の部屋にアルルさんを入れない事。仕事に関わらせては駄目よ。どうも領地の財政に興味がある様子だから。旦那様を怒らせない様にしてうまくやって頂戴。……大丈夫だと思うけれど、心配だわ」
「だから早くにお帰りください。私共で邪魔者を掃除して置きますからね」
ステファンは穏やかな笑みを浮かべた。
「有難う。ステファン。でも、無理はしないでね」
「奥様。行ってらっしゃいませ。お気を付けてくださいまし。お帰りをお待ち申し上げております」
家人は一斉に頭を下げた。




