第八十話 サンドイッチ戦法
【青森県八戸市 短根スケート場】
「ふぅ……、ふぅ……。」
吐き出した息が白く揺らめき、瞬く間に凍りつくように消えていく。
冷えきった空気が肺を刺し、胸の奥がきゅっと痛んだ。
八戸校から北へ歩いて五分。
楕円形の屋外スケート場──「短根スケート場」に、わたしたちは到着した。
「行くよ、藩児くん。」
「お、おう……!」
張られた精霊壁の内側へと、わたしたちは足を踏み入れる。
──観客席はしんと静まり返り、風の音さえ凍てつくような沈黙。
そして、リンクの中央には、あの異形がいた。
──闘牛型・風属性上級悪霊。
その身体は渦巻く風で形づくられ、輪郭さえ定まらない。
だが、ひときわ鋭く光を放つ角だけは、鋼のように確かな存在感を放っていた。
ひと突きであらゆるものを貫きそうな刃先。
氷を踏み砕くように地を鳴らす四肢。
まるで「狙った獲物は逃さない」と言い聞かせるように、静かに力を溜めている。
その姿を目にした瞬間、背筋が凍りついた。
まとわりつく霊気。体の芯まで貫く霊圧。そして──圧倒的な霊力。
この一年間、何度も上級悪霊と対峙してきた。
それでもこの感覚だけは、どうしても慣れない。
「くそっ……!止まれよ、震え!!」
藩児くんが、ガンガンと自分の膝を叩く。
その音に合わせるように、わたしの手足も小刻みに震えていた。
そして、すぐに悟る。
──無理だ。あれと戦えば、間違いなく死ぬ。
中級悪霊でさえ、命を削ってようやく拮抗できるというのが現状なのに。
あの上級相手に、勝ち目なんてあるはずがない。
──ジリッ。
逃げようと一歩、後ろに下がったその瞬間だった──。
『ぐすっ……!ぐすっ……!』
銀河くんの泣き顔が、脳裏に鮮やかに蘇った。
あの墓地で流していた涙が、今も焼きついて離れない。
──そうだ。何のためにここへ来たの、樹々吏。
銀河くんのために戦うって、誓ったばかりでしょ!
この上級悪霊を祓うことができれば、銀河くんは戦わずに済む。
だから──わたしがやらなきゃ!
「ど、どうする、樹々吏!?」
藩児くんの手の中で、「スリングショット型増霊器」がカタカタと震えている。
わたしも思わず、自分の手元を見つめた。
握りしめた「杖型増霊器」が、同じように細かく震えていた。
「わたしがメインで、藩児くんはサポートお願い。
まずは、あいつの気を引いてくれる?
十分に距離が取れたら、わたしはすぐ上級霊法の詠唱に入る。
精霊の霊気に気づかれて、すぐこっちに向かってくると思うけど、距離を保てば発動は間に合うはず。
わたしが攻撃を始めたら、すぐに藩児くんも詠唱して、二人で一気に畳みかけよう!」
「サンドイッチ戦法ってわけだな……。わかった!」
藩児くんは短くうなずくと、わたしのいる位置から反対側の観客席へ駆け出した。
「おーい!悪霊!こっちだーー!!」
その叫び声に、悪霊が反応する。
巨体を揺らし、雄叫びを上げながら藩児くんの方へ突進し始めた。
──おびき寄せ成功。
距離がどんどん離れていく。
リンクの中央部から端へ。もう少し、あと少し……!
あと10メートル離れてくれれば、詠唱が間に合う──!
──その瞬間だった。
悪霊が、無詠唱で霊法を発動。
四肢に風の円形霊法陣が展開され、轟音とともに突風が吹き荒れる。
次の刹那──突風が巨体を押し出した。
空気が裂け、信じられない速度で、悪霊は藩児くんのいる観客席へ突進する。
「そ、そんな……!?あんな巨体で、なんて速さっ!?
危ない、藩児くん!!避けて!!」
「ぐわぁぁぁぁっ!!」
「藩児くん!!」
鈍い衝撃音が響く。
悪霊の突進が藩児くんを正面から捕らえ、鋭い角がその身体を貫く。
次の瞬間、悪霊はその角を勢いよく後方へ突き上げた。
藩児くんの身体が宙に舞う。
観客席から弧を描くように、氷のリンクへと投げ出され──
無惨な音を立てて、氷上に叩きつけられた。
「そ、そんな……!?藩児くん!!」
藩児くんの身体を中心に──赤い血が静かに氷上へ広がっていく。
氷の上で反射した血が、冷たい光を帯びて煌めいた。
藩児くんは、陸に打ち上げられた金魚のように、ビクッ、ビクッと痙攣している。
もう、息も絶え絶えの様子だ。
悪霊はその様子を観客席から見下ろしながら、再び角を下げた。
容赦なく、もう一度、突進の構えを取る──。
──だめだ!
この距離じゃ、上級霊法は間に合わない!
どうする……!?中級に切り替えるか……?
……いや、ダメ。
あの悪霊に中級なんて通用しない。
やはりここは──。
もう、やるしかない!
このままだと藩児くんが死んじゃうっ!
わたしは息を呑み、杖型増霊器を構えた。
一か八かの覚悟で、上級霊法の詠唱を始める。
「精霊よ 我が霊力を糧とし 今ここに大いなる力 火の力を与え賜え──!」
「──ッ!?」
詠唱を終え、多数の火の精霊を召喚した瞬間──やはり悪霊が反応した。精霊の霊気を感知したのだ。
巨体をねじるように方向転換し、轟音を巻き上げながらこちらへ突進してくる。
わたしの周囲に浮かんでいた無数の火の精霊たちが、赤く帯びた光となってわたしの体内へと流れ込んだ。
──その時、すでに悪霊はリンク中央まで到達していた。
──ほどなくして、わたしの足元に赤い火の円形霊法陣が展開される。
霊法発動可能の合図。
わたしは即座に、霊法を杖型増霊器に込めた。
悪霊は、もう目の前まで迫っていた──。
その瞬間、杖型増霊器が赤く輝く。
──間に合った!
わたしは即座に杖の先端を悪霊へと向け──叫ぶ!
「くらえっ──ファイア・キャノン!!」
轟々と燃え盛る、巨大な火の大砲を放つ!
──ドッカアアアアンッ!!
直撃。
爆炎が弾け、烈風が吹き荒れる。
悪霊の巨体が、灼熱の衝撃に包まれながらリンクまで吹き飛んだ。
「やった……!」
立ちのぼる黒煙をかき分け、わたしは駆け出した。
倒れた藩児くんのもとへ一直線に──。
「藩児くんっ!藩児くんっ!」
膝をつき、震える手で触診する。
冷たい。けれど──。
──脈がある!よかった……!
死んではいない。けれど、重傷だ。
早く治療しないと──。
「き、樹々吏……。」
「やったよ!上級悪霊を倒したんだ!
もう大丈夫!今すぐに治療を──。」
「う……後ろ……。」
「え……?」
その言葉と同時に、背後の空気が裂けた。
──悪霊が、立ち上がっていた。
「そ、そんな……!」
黒煙の中に浮かぶ巨体。
体の一部は焼け爛れ、中心の悪霊玉が露出している。
だが、その表面には──細いひびが一本、走っているだけだった。
「上級霊法を、まともに食らったはずなのに……!?」
悪霊が低く唸り、黒煙を吹き飛ばす。
鋭く光る角を前へ突き出し、再び突進してきた。
「きゃああああああっ!!」
衝撃。
世界が一瞬、真っ赤に染まる。
──悪霊の角が、わたしの腹に突き刺さっていた。
「がっ……!はっ……!」
焼けるような熱が腹の奥を貫き、視界がぐにゃりと歪む。
息が詰まり、喉から掠れた音しか出ない。
「樹々吏……!」
悪霊はその角を勢いよく振り上げた。
わたしの身体は宙を舞い、藩児くんと同じように弧を描くように投げ出され──
無惨な音を立てて、氷上に叩きつけられた。
「ぐはっ……!」
──血が。
自分の血が、氷の上を滑って広がっていく。
赤が白を侵食し、リンクスケート場を赤く染めていった。
体が動かない。
指一本、動かすことすらできない。
その間にも、悪霊は再び体勢を低くし──とどめを刺そうとしていた。
──やっぱり、わたしじゃ無理だったか……。
「はぁ……はぁ……。
ごめんね、藩児くん。わたしのわがままに付き合わせちゃって……。」
「いいよ、別に……。はぁ……はぁ……。
仲間のために死ねるなら、それで……。」
「……ありがとう。」
──わたしの人生も、ここまでか。
本音を言えば、まだ死にたくない。
小説家になる夢だって、叶えていない。書きたい物語が、山ほどあった。
これからだったのに──。
でも……かわいい弟のために死ねるなら──ま、いっか。
──ごめんね、銀河くん。
君はいつも一人だったね。
そんな君を見ているだけで、胸が苦しかった。
だから、君が孤独を感じないように、これもずっとそばにいて、君の成長を見守りたかった。
だけど、もう──。
「ほんとに……ごめんね……。」
死ぬ覚悟を決めて、静かに目を閉じた──その時だった。
「うわぁぁぁぁぁっ!!」
──ガンッ!
──ドカァアアアアンッ!!
鈍い衝撃音が響き、何かが砕け散るような音が続いた。
氷のリンク全体が震え、粉雪のような氷片が宙に舞う。
重い瞼を、どうにかこじ開ける。
そこには──リンク端まで吹き飛ばされ、氷上に崩れ落ちる悪霊の巨体。
そして、わたしたちの目の前に立っていたのは──小さな背中の少年だった。
少年は、わたしたちにその小さな背を向けたまま、黙って悪霊を見据えている。
すると、月光が差し込み、氷の上にその輪郭を静かに浮かび上がらせる。
その少年の正体は──銀河くんだった。
プロフィール追加
名前:杉本 樹々吏
武器:杖型増霊器
名前:久保田 藩児
武器:スリングショット型増霊器




