第四話〜前日譚〜 今でも大好きな彼と、幸せな家庭を築きたい
※用語解説
・樹の悪霊:“樹属性”の悪霊。
その魂の起源は、山中の遭難による餓死、倒木による圧死、絡みついた蔦による窒息死など、“樹木や森林に起因する死”によって命を終えた者に由来するとされている。
【二年前 兵庫県尼崎市】
私の名前は、水野百恵。28歳。
専業主婦。
今は夕食の買い出しに、自宅近くのスーパーへ向かっている。
歩道を歩くと、すれ違う男性たちの視線が私に吸い寄せられるのがわかる。
小声で囁き合う声も耳に入った。
「おい、見ろよ、あの女……」
「すっげぇきれいじゃん!」
彼らの目は、まるでガラス越しの宝石を見るように、私から離れない。
その熱っぽい視線が私に突き刺さる感覚は、もう慣れきってしまった。
くっきりとした二重瞼、ぷっくりとした涙袋。
整った鼻筋に、ほんのり厚みのある唇。
バランスの取れた黄金比の顔立ちに加え、大きな胸、引き締まったウエスト、そして安産型の腰回り。
私は──世間の多くの女性よりもずっと美しく、そしてかわいい。
男性たちが見惚れるのも当然だ。
だって、この外見になるまでに──大金を費やしてきたのだから。
そう、私は──外見至上主義者。
立派な整形依存症でもある。
何度もメスを入れ、骨を削り、皮膚を整え……ようやく今の美貌にたどり着いた。
それも全部、あの男──”茂“のために。
私の夢はただ一つ。
「世界一の美貌を手にいれ、茂を後悔させること」
その目標のために、私は毎日、外見を磨く努力を欠かさない。
大学2年のある日、中学3年からずっと付き合っていた茂に、突然振られた。
彼のために必死に勉強し、同じ高校、同じ大学に進んだ。
就職して落ち着いたら結婚、そして子ども──そんな未来を当然のように思い描いていた。
だからこそ、「他に好きな人ができた」という一言が信じられなかった。
一週間後、キャンパスで彼が美人女性と手を繋いでいるのを見かけた。
その女性は、先日の大学のミスコンで優勝した人だった。
「見て見て、あの二人!美男美女カップルでお似合いだよね〜
なんか、住む世界が違うって感じ?」
「ちょ、ちょっと!」
近くで話していた女子大生二人が私に気づくと、気まずそうな顔をして走り去った。
私はその時、はっきりと気づいた。いや、気づかされたのだ。
“女は、外見がすべて” ──だと。
そこから私は変わった。
整形について、ネットで調べまくり、整形には多額の費用が必要なことを知った私はバイト──
夜職に明け暮れ、頑張ってお金を稼ぎ、整形に整形を重ねた。
それも全て、世界一の美貌を手に入れるため!
そして、私を振ったあの男を後悔させるため!
その野心だけで、夜職で嫌なおじさんからのセクハラをたくさん受けようが、整形を重ねる度に私の人気が出て、それに嫉妬する先輩たちからの嫌がらせが起きようが、全て我慢できた。
──今の私は、10年後の自分を見据えている。
私の夢「世界一の美貌を手にいれ、茂を後悔させる!」 は、10年後に必ず叶える。
なぜ、そこに目標を定めたのか?
先日行われた成人式を終え、その時地元・淡路市で行われた中学の同窓会の時に、幹事がこう言っていたのだ。
「みんな〜!
10年後……おれらが30歳の時にも同窓会を開くから、絶対に来てくれよな〜」
それを聞いた私は即座にそこに目標を据え、それまでに究極の……世界一の美貌を手に入れる。
そして、あの男を後悔させて、こう言わせてやるのだ。
「やっぱり君を振らなければよかった、もう一度やり直すことはできないか!?」
そう言わせたら──私はあいつを冷たく振ってやる。
あの男が悔しがり、泣き叫ぶ姿を見るのが、私の夢の果て──
私を失意のどん底に突き落とした──あいつへの復讐なのだ!
整形で外見が徐々に良くなると、人生は意外と楽だった。
きれいな見た目を手に入れると、デメリットなんてほとんどないのだ。
就職活動もそうだ。
表向きは「能力本位」や「公平な採用」を謳う会社ばかりだが、実際には顔で判断するところが多い。
私はこの顔のおかげで、大学卒業後に大手企業の事務職へすんなり就職できた。
仕事でミスしても男性上司は笑って許し、ランチやディナーは男性社員が奢ってくれる。
浮いた食費は、もちろん整形費用へ回した。
男性にとって、私のような美人と食事に行けることは、男のステータスアップ。
周囲の羨望と優越感を味わえるのだ。
私にとっても単純にお金を節約できて、その分さらに美貌を磨ける。
そう、私と彼らは常に“WIN-WIN”の関係だった。
「ただいま」
──買い物を終えて、帰宅した。
ここは尼崎市でも屈指の高層タワーマンション、しかも最上階だ。
「おかえり、百恵」
迎えたのは、夫の寛安。三歳年上で、一昨年結婚した相手だ。
IT企業の社長で、年収は億単位。
結婚してすぐ、私は寿退社した。
夫がこんなに稼いでいるのだから、私が働く必要なんてないでしょう?
子どもはまだいない。
結婚直後、彼は「子どもがほしい」と言ったが、私は「30歳まで待ってほしい」と頼んだ。
やりたいことがあるから、と。
彼は首をかしげながらも、渋々了承してくれた。
──30歳まで……同窓会まで、あと二年。
まだダメ……まだ、この外見では……!
「遅くなってごめんね、すぐに夕飯の支度するから」
「ありがとう!
僕は本当に、最高の妻を持って幸せだよ!」
「・・・」
──ちっ!よく言うわ。
会社で秘書と浮気しているくせに。
なにが“最高の妻”だ。
外見が良くなければ、内面も見ようとしないクズが。
心の中で呟く。
そう、夫は二ヶ月前から、私より若い女性秘書と浮気している。
「社長室、一度でいいから見てみたい!」
寛安に懇願して、社長室に入れてもらい、その時仕掛けた監視カメラと盗聴器で、浮気の証拠はしっかり押さえている。
それを叩きつけて慰謝料をぶん取ろうと思ったこともあったが……それだけでこの先の人生を賄うのは難しい。
整形費だってまだまだかかるのに。
正直、浮気自体はあまり気にしていない。
だって、お金持ちの男は大抵そんなものだと思っているから。
それは、夜職時代に学んだ現実だ。
だから、別に私を見捨てて、他の女と遊ぼうが別にいい。
重要なのは……離婚しないこと。最終的に彼を私のもとへ戻すこと。
そのための手段はただ一つ。
“夫にとって都合のいい妻を演じる”こと。
そう、私は夫にとって扱いやすいおもちゃであり、操り人形なのだ。
“男は結局、ものわかりのいい女の元に落ち着く”と、ある恋愛本に書いてあった。
私にはもう、それしか選択肢はなかった。
それは辛い選択だったけど……働くのは好きじゃない。
それに、たったそれだけのことでお金に困らず、整形も続けられるなら頑張れると思った。
「どう?おいしい?」
今日の夕食は、夫の好物のひとつ、ビーフシチュー。
「うーん……もう少しトロッとしてて、味ももう少し薄い方が僕の好みかな」
「ごめんなさい……次はもっと上手に作るね!」
私はにこやかに返す。
唇の端だけをきゅっと持ち上げ、目元には柔らかな光を宿して。
──ちっ!文句があるなら自分で作れよ、クソが!……ってだめよ、落ち着いて私。
いつものように……冷静に……
私は“女優”──それも、夫・寛安にとって最も都合のいい、物わかりのいい女を演じる女優だ。
本心はどうあれ、口から出るのは柔らかな言葉だけ。
笑顔で相手を包み込み、機嫌を損ねない。
そうやって私は、この豪奢な暮らしと整形費用を守ってきた。
大丈夫……これまでも、上手に演じてきたじゃない。
これからだってできる。
30歳になるまで──同窓会まで──あと二年。
それまで、私は完璧な妻役を演じ続ける。
そう自分に言い聞かせながら、私はスプーンを口に運んだ。
テーブルの向こうで、夫は満足そうに笑っている。
私も笑う──まるで、幸せな妻のように。
「確か、来週は友だちと沖縄旅行に行くんだったよね?」
「そうよ」
「どのくらい?」
「六泊七日」
「一週間かぁ……うらやましいなぁ、僕も仕事がなければついていきたかったのに……」
「今度、予定が合えば二人で行きましょ」
「そうだね!」
私は、残念そうな顔を作った。
まるで、本当に寂しいと思っている妻のように。
──先週、秘書と二人で北海道旅行に行ってたくせに。
テーブルの下で握った拳が、ぎゅっと爪を食い込ませる。
けれどすぐに、そっと力を抜いた。
……だって、嘘をつくのはお互い様だから。
そう、友だちとの沖縄旅行はまったくの嘘。
本当はもらったお金で、小顔効果を狙った施術──“ボトックス注射”を打つ予定だった。
なぜ一週間も旅行に行くと嘘をつき、夫の前から姿を消す必要があるのか。
それは、整形には“ダウンタイム”があるから。
ダウンタイムとは、整形後の痛みや腫れ、内出血が落ち着くまでの期間のこと。
ボトックスのダウンタイムは大体三日ほどだが、余裕を持って一週間にした。
もちろん、夫に整形していることは隠している。
今まで様々な理由でお金をもらっては、実は整形費に使っていることを夫が知ったら、当然怒り、離婚届を突きつけられるかもしれない。
旅行の証拠隠滅は今の時代、とても簡単だ。
適当な沖縄の観光地の写真に自分の写真を合成すれば、まるで観光したかのような写真を作れるし、ネットで沖縄のお菓子を買えばお土産の代わりになる。
ダウンタイム中は、夫にバレないよう、県外の漫画喫茶に籠もってやり過ごす予定だ。
「さてと……」
食器を洗い終え、ソファに腰を下ろし、スマホを手に取る。
開くのは──茂のSNS。
いつも通り、彼の動きを把握するためだ。
茂は未だ独身。
それは女っ気のない写真から伝わってくる。
ラーメンや、洒落っ気ゼロの居酒屋ばかりの写真。
今は明石市に住んでいて、趣味は昔から変わらず野球。
先週の土日は、職場の人たちと一緒に草野球。
今週は大会があり、それに出場する予定。
来週は、茂の大好きな野球チーム“兵庫アストラ”を応援するため野球観戦。
まさに野球バカ……尽くしである。
「待ってろよ、茂
必ず、私を振ったこと、後悔させてやるから!」
夢のタイムリミットは、あと二年。
二年後の同窓会で──私は、完璧な姿であなたの前に現れる。
そして必ず、必ずあなたを……
──翌日。
その日は、まるで世界が怒り狂っているかのような台風だった。
叩きつける雨は窓を激しく打ち、ガラス越しでも皮膚を刺すような冷たさを感じる。
風は唸り声をあげながら街を引き裂き、街灯が悲鳴をあげるように揺れている。
看板は今にも吹き飛び、木々は根元から折れそうにしなっていた。
私は夕食の準備をしていた。
今日は夫の好きな料理のひとつ、肉じゃがだ。
「うーん……
もう少し薄い味つけにした方がいいのかな?」
そんなことを考えていると──
「 ♪ 〜〜」
スマートフォンの着信音が鳴り響く。
夫からの電話だった。
「もしもし?」
「ごめん!会社まで迎えに来てくれない!?
台風がすっごくてさ!
今日に限って、専属の運転手が体調不良で休みみたいなんだよ!
だから、お願い!!」
「わかった、すぐ行くね!」
私はガスを止め、車の鍵を持って玄関を出る。
エレベーターで地下の駐車場へ向かい、高級車に乗り込んで夫の会社へ向かった。
「ダウンタイムが終わったら、今度はどこを整形しようかな?
鼻をもう少し高くする……?それとも、唇をもう少し厚く……?
いや、顔よりも体の方……?
世界一の美貌を手に入れるために、私にまだ足りないものは……なんだろう……」
そんなことをぼんやり考えながら、夫の会社近くの交差点で信号待ちをしていた。
外は、台風の風と雨が容赦なく車体を叩きつけ、ワイパーを最速にしても視界は白くかすむ。
ふと、スマホを手に取りSNSを開く。
そこには──茂の新しい投稿。
「茂……今日も“三郎ラーメン”食べに行ってる……!」
思わず口元がゆるむ。
「ふふっ♪本当に大好きよね、“三郎ラーメン”!」
そして、記憶の蓋がゆっくりと……開いていった。
「……ねえ、茂……覚えてる?
──中学三年の時、あなたが私を最初にデートに連れ出した場所が三郎ラーメンだったこと……
お互い中学生で、お金なんかたいして持ってないのに『俺が奢るよ!』なんて、かっこつけていたこと……
そこであなた、何も気にせずにんにくを山盛りに入れて、私が『臭い!無理!もう帰る!』って冗談交じりに叱ったら、本気で落ち込んでいたこと……
──高校の時、毎年あなたの誕生日に私が三郎ラーメンに連れて行ったら、子どもみたいに喜んだこと……
──大学の時、あなたのために初めて私が三郎ラーメンを家で作ったら、泣きながら食べてくれたこと……」
気づけば、頬をつたう涙がぽたりと落ち、ハンドルを握る手の甲を濡らしていた。
「……ほんと、思い出の味よね……
三郎ラーメン……もう何年も行ってないなあ……
今度、久しぶりに作ってみようかしら……
でも、あの人は『なんて頭の悪い食べ物だ!栄養なんかまるでないじゃないかっ!』って怒りそうね……」
胸の奥がきゅっと痛む。
「ねえ、茂……なんで私を振ったの……?
私のなにがだめだった……?やっぱり、外見……?
私、あの時より数倍……ううん、何十倍もかわいく、きれいになったよ……!
これなら、もう大丈夫……?それとも、まだ足りない……?
ねえ、教えてよ……!!茂……!!」
ハンドルを握る手に、また涙が落ちた。
フロントガラス越しの景色が、じんわり滲む。
信号が青に変わり、私はアクセルを踏み込む。
──その瞬間だった。
──ガッチャーンッ!!!
耳をつんざく衝撃音と、白く弾ける視界。
何かが砕け散る音がしたかと思うと、世界がぐらりと傾いた。
台風の風にあおられ、街路樹が根元から倒れ込み──そのまま、私の車の屋根を押し潰した。
鈍い痛みが一瞬、頭を走り──すぐに、何も感じなくなった。
私は意識を失い、近くの病院に運ばれたが──医師によって、死亡が確認された。
──そんな……嫌よ……
こんなに、こんなに一生懸命頑張ってきたのに……!
まだ……まだ、私の……“本当の夢”。
「今でも大好きな彼と、幸せな家庭を築きたい」
──それをまだ、叶えていないのに……