第一話〜前日譚〜 ごく普通の家庭を築き、穏やかに、幸せに暮らすこと
※用語解説
・地の悪霊:“地属性”の悪霊。
その魂の起源は、土砂崩れや岩盤の崩落、流砂による圧死、または窒息死・溺死など、“大地に起因する死”によって命を終えた者に由来するとされている。
【八年前 青森県青森市】
わたしの名前は、菊地榮吉郎。36歳。
青森県青森市で生まれ育ち、今もこの町で暮らしている。
職業は会社員。
小中学校は地元の市立に通い、高校も通いやすさを優先して、家から近い地元の県立高校に進学した。
高校卒業後は、地元にある自動車部品の製造会社に就職。
今もそこで働き続けている。
本当は、都会の大学に進んで“キャンパスライフ”というものを体験してみたかったけれど……
うちは貧乏だったから、それは叶わなかった。
この会社のいいところは、夜勤がないこと。
そして、何より──スーツを着なくて済むことだ。
工場の現場で作業着を着て働くスタイルが、自分には合っている。
どうにもスーツというものは、首元の締めつけが気になってしょうがない。
あの圧迫感が、どうにも苦手。
だから、毎朝スーツをビシッと着て、満員電車に揺られながら通勤する人たちを、わたしは心の底から尊敬している。
わたしのこれまでの人生は──
「普通」というのか、「平均的」というのか、あるいは「一般的」と言うべきなのか。
いずれにしても、いわゆる“その他大勢”の一人に分類されるような、そんな人生だったと思う。
地元の小中学校を卒業し、そのまま地元の高校へ進学。
高校を出てからは、やはり地元の企業に就職した。
都会に憧れたことがなかったわけではないが、結局、生活のすべてをこの町で完結させてきた。
──よくある人生。
きっと、ほとんどの人の記憶にすら残らない──そんな人生。
それでも、わたしは今、心から幸せだと思っている。
なぜなら──
「あなた、おかわりいる?」
優しい声でそう問いかけてくれたのは、わたしの妻、未映子だ。
彼女とは六年前、職場の同僚に紹介されて知り合った。
出会ったその日から、わたしは一目惚れだった。
何度も食事に誘い、五度目のデートでようやく思いを伝えた。
そして去年──
わずかな給料の中から、必死に貯めたお金で指輪を買い、今住んでいるこのボロアパートでプロポーズをした。
彼女は泣きながら笑って「はい」と言ってくれた、あの瞬間の幸福感は、今でも鮮明に覚えている。
いや──きっと、一生忘れることはない。
「大丈夫、自分でよそうよ!」
そう言って立ち上がり、炊飯器のあるキッチンへと向かう。
今、未映子には無理をさせたくなかった。
なぜなら、彼女のお腹の中には──
わたしたちの大切な“宝物”がいるからだ。
出産予定日は、再来月。
医者の話では、男の子が産まれるそうだ。
ただ、肝心なことがまだ決まっていない。
それは──生まれてくる子の名前だ。
「今日は帰り、遅いの?」
「うん、華金だからね……
会社の人と飲みに行く約束があるんだ……ごめん!」
「ううん、気にしないで!
それだって、立派なお仕事だもの!
それで……この子の名前、いつ決めようか?」
「土日は空いてるから、明日、ゆっくり話そう!」
「わかった!」
「それじゃあ、行ってきます!」
「うん、行ってらっしゃい!」
互いに微笑み合い、軽くくちづけを交わす。
そしてわたしは、ボロアパートの扉を開けて外へ出た。
その夜──
わたしは、すっかり酔っ払って帰宅した。
「あなた、大丈夫?」
「うぅ……気持ち悪い……トイレ……」
千鳥足でトイレへ向かい、便器に顔を突っ込んで盛大に嘔吐する。
胃の中身がすべて出ていくような、ひどい有様だった。
「まったくもう……
もうすぐ子どもが生まれるんだから、しっかりしてよね──
お・と・う・さ・ん♪」
未映子はそう言って笑いながら、わたしの背中をさすってくれた。
翌朝──
「体調、大丈夫?」
布団から起き上がれないわたしの枕元に、未映子が心配そうな顔で立っていた。
手には、水の入ったコップ。
「……ダメだ、気持ち悪いし……頭も痛い……
完全に二日酔いだ……」
「そう……じゃあ、落ち着くまでゆっくり休んでて
何か食べたいもの、ある?」
「んー……味噌汁……飲みたい……」
「わかった、すぐ作るね!」
未映子はそう言って、キッチンへ向かった。
「はああ……何やってるんだよ、お父さん……」
妻に余計な負担をかけてしまった自分が情けなくて、ふと天井を見上げる。
──そのときだった。
ゴゴゴゴゴゴッ──!
突然、地鳴りのような轟音が響き、床が大きく揺れた。
「え!? なになに!? 何の音!? 地震!?」
キッチンから未映子の叫び声。
彼女は慌てて、ガスの火を止める。
「地震か!?」
わたしも咄嗟に体を起こそうとした。
だが、酔いの残る身体はうまく反応せず、バランスを崩してそのまま布団の上に倒れ込んだ。
そして、そのまま──わたしが再び起き上がることはなかった。
なぜなら──
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【翌日 東京都新宿区 某家電量販店】
「昨日朝、青森県青森市で発生した土砂崩れにより、木造二階建てのアパートが巻き込まれ、住民全員が生き埋めとなりました
本日も救助活動が行われ、全員が発見されましたが、いずれも死亡が確認されています
県は、崖の斜面が崩れた原因や周辺地域への影響を調べるため、明日、専門家を現地に派遣し、詳しい調査を行う方針です」
東京都・新宿。
家電量販店のテレビ売り場。
壁一面に並ぶ大型画面に、淡々としたニュース映像が静かに流れている。
映し出されているのは──瓦礫と化したアパート。
濁った土砂に埋もれた斜面。無言で作業を続ける救助隊の姿。
よくある災害の報道。
テレビの前を通り過ぎる人々は、それに特別な注意を払うこともなく、音も、映像も、やがて風景の中へと溶けていく。
けれど、その中に──確かに映っていた。
わたしたちが暮らしていた、あの──ボロアパートが。
──ああ……
もう少しで……
あとほんのもう少しで、わたしの夢──
「ごく普通の家庭を築き、穏やかに、幸せに暮らすこと」
──それが、叶いそうだったのに。