さよなら人類。
ピピピ、と控えめな電子音で目が覚めた。お風呂にも入らずにそのまま一晩が経ってしまっていたようだった。最悪だ。締め切ったカーテンの隙間から、僅かな光が伸びている。
のそりと布団から出て、ひどい顔をしたまま、自室から這いずるように出る。気分はほんとに最悪だ。
「お母さん、なんで起こしてくれなかったの?」
なんて、完全に八つ当たりだと思いながらも、ぼそぼそ言いながら、お風呂場に向かう。いつものように蛇口をひねった。
「わ!」
赤錆が混じった水が出てくる。まるで何年も使っていなかったように。不審に思いながらも、しばらく流して、赤錆が出てこなくなるまで出す。
そうして、ようやく出なくなったところで、温かいお湯でシャワーをした。メイクした顔をまず洗い流して、シャンプーで頭を洗い、リンスをつけて。ボディソープで体を洗って、すべての泡を洗い流した。やっぱり汚れを落とすと気分も多少よくなる。
ドライヤーで髪を乾かして、櫛でとかして整えた。鏡に映るわたしの表情は、おそらく昨日よりかはマシなはずだ。お腹も空いたし、そろそろリビングに行こう。
「お母さん、ごめん」
先程の八つ当たりを謝りながら、リビングへと入った。返事は返ってこない。
なんだか不気味なほど、しんとしていた。テレビもついていなければ、誰もいない。炊飯器の中身は空っぽで、冷蔵庫の中にだって、食べ物はひとつも入ってなかった。電気もつかない冷蔵庫からはひんやりとした空気だけが流れて、わたしを冷やす。
音がないのが怖くて、机の上にあるリモコンでテレビの電源をつけた。かち、かち、かちかち、かちかちかち。無意味な音。テレビから音がすることはなくて、代わりにただただ真っ暗な画面がわたしを見つめている。じぃっと。
「なんで……」
締め切ったリビングのカーテンを開け放つ。眩しすぎる光が目に入る。目を細めながら、ゆっくりと目を開けた。景色を見て、声の出し方を一瞬だけ忘れてしまう。
「……どうして」
なんとか絞り出せた言葉。手は震えている。
目の前の光景をすんなりと受け入れることはできない。だって、こんなの、あり得ないじゃん。だって、家の中は昨日と変わりなくて。それなのに外は。
昨日はきちっと形を保って塀の役割を持っていたのに、今日はこんなぐずぐずになって原型を保ってないなんて。庭だって、お母さんがいつも手入れをしていたから草なんて生えていなかったのに、わたしの背丈ぐらいある草が生えてる。遠くに見える景色では、異様な大きさの木がたくさん生えてて。まるで急に世界が終わったような。
「お母さん!お父さん!」
叫びながら、部屋を見て回る。どの部屋にだって、二人はいない。なんで、と思っても答えてくれる人間は今のところいない。外にいるかもしれないと思って、靴を履いて、外に出た。
外に出た景色はいつもの風景ではなかった。
たった一晩で、ここまで変わってしまうのだろうか。これが夢ならどんなにいいだろう。それぐらい目の前の光景は、わたしの知っているものではなくなっている。
すべてのものが朽ち果てていた。
「小夜子……」
気づいたら足は動いていて、小夜子の家へと走った。
「はぁ……っ」
息を切らして、たどり着いた先は、わたしの知っている小夜子の家とは全く異なるものだった。小夜子が丹精こめて育てていた植物は、好き勝手に伸びている草に浸食されて、影もないし。きれいな洋館だったはずの家は朽ち果てて、しばらく人が住んでいないような廃墟のような雰囲気を醸し出していた。そんなはずはないのに。たった一晩でこうなるはずがない。
どこから生えてきたのかわからない大きな木が、洋館を喰らうように巻き付いて、息づいている。
好き勝手に伸び放題な草をかき分けて、洋館へと進む。窓ガラスは朽ちて割れていて、辺りに飛び散っている。そうっと入って、「おじゃまします……」と意味のないような言葉を吐く。足を踏み入れると、パリン、とガラスが割れた。
木の板の上を歩くたびに、ぎぃと軋む床。埃がきらきらと漂っている。ここに人はいないのだと言われているような気分で、最悪だ。それでもずんずんと進んでいくと、二階へと続く階段が現れた。確か小夜子は二階に部屋があると言っていた。だからもし小夜子が生きているのなら、二階にいるのだろう。
ただ、二階へと続く階段は所々崩れていて、通るのは危なそう。それでも行かなくては。小夜子に会いたい、その気持ちだけで進む。ああ、ぎぃぎぃと軋む音がする。なんだか平均台を歩いているかのような感覚を覚えるな。踏み外してしまいそうな、踏み外さずにいけるような、不安なあの気持ち。
「小夜子……」
小夜子もわたしと同じようにここにいるのだろうか。いるのなら、謝りたい。そしてこの退廃した世界で一緒に――。
ぎっ、ぎっ、ばきゃん。
考え事をしていたせいで、床の弱いところを踏み抜いてしまった。幸いにも、すぐに意識がいったおかげでこけずにすんだ。足をするりと抜いて、再び歩く。部屋も見て回った。見てないのは、後は小夜子の部屋だけ。ここにいたら、小夜子がいれば。
コンコン、と控えめにノックをする。中から音は返ってこない。
誰もいないかもしれない、誰かいるかもしれない。不安と期待が入り交じりながらも、ドアを開けた。本棚も机も、ベッドも、そのままに時が止まっているかのようだ。窓もカーテンも開け放たれていて、外からの空気と光が入り込んでいる。
ベッドには、シーツがかかっており、それは人の形に膨らんでいた。
最悪な想像と、最高な想像と、頭の中で入り交じる。心臓がうるさくなっていくのがわかる。耳の横で、心臓が高鳴っているようで、とてもうるさい。手のひらに、体全体に汗がにじんでいくのがわかった。
――――早く確かめなくては。
わたしの不安をかき消してくれ、小夜子は、彼女だけは、ここにいると示してくれ。
祈りながら、私はシーツに手をかける。