プロローグ
大切な人の事を、忘れてしまった。
ずっと昔から、自分の心を支えてくれたあの子。
名前も、顔も、たくさんの思い出も…何もかも忘れてしまったけど。
唯一、あの子と一緒だったあの夏の日の事だけは、今でも覚えてる。
それは、僕がまだ少年だった頃。
◆
あの日、僕らは夜空を見上げていた。
夏草の匂いが漂うこの屋上のテラスは、心地よい僕らだけの場所だった。
真夏なのにここの空気は涼しく、静かだった。
ジャガジャン〜
「まったく、弾けもしないギターなんて、何で持ってきたんですか?」
「なんとなく、そんな気分でね」
「今日は星がよく見えますね」
「久しぶりに晴れた夜よ」
「この星の光は、何百年前のものだって言いましたね?」
「今はとうに存在しない星の光かもしれない」
「不思議な話ですね」
「目に見えるからって、今も実在するとは言えないという事ね。思えば、すべてがそうだ」
「ああっ、また憂鬱な事を語り始める気ですね」
「そう、世界はとっくの昔に滅んでいて、僕はその残像を見せられているかも知れない」
「この世界が仮想世界とでもいいたいですか?」
「そう、とあるマッドサイエンティストが、僕の脳を水槽の中に入れて、感覚情報を電気信号で送ってるだけかも知れない」
「そんな暇な科学者さんはいませんよ」
「ならいっそ、僕の存在さえも架空ならいいのに」
「ええ、自分さえも夢の一部だとすると、寂しくないんですね」
「でもそこにある僕の脳だけは実在するんだ。悲しい事だ」
「それは”かも知れない”とは言わないですね」
「”コギト、エルゴ、スム”で、それは証明できてるから」
「”我思う、ゆえに我あり”ですか」
「ああ。現実ではもちろん、水槽の中の脳だとしても、僕の存在だけは真実だ」
「いくら憂鬱でも、自我だけはちゃんとあるんですね」
「でも他の全ては証明できない。僕は世界で一人だけの人間で、僕以外にはすべて偽物かも知れない」
「まったくあなたは、流石に中学生ですね」
「他人が、他人の存在が真実だとは、どうやって証明したらいいんだ?」
「なんでそんな事いちいち証明したがるんですか?」
「安心して信じたいからね。人の存在が、絶対真実だと」
「疑わなく、ただ信じたらいいじゃないですか?」
「それは無理だ。一度だけでも嘘や偽りを経験したら、それが出来なくなるんだ。臆病者になるんだよ」
「あ……」
「僕は彼女を、彼女の心を、その存在を信じてたのに……」
気晴らしのつもりで始まった話だったのに、僕はまたあの事を思い出す。
「そうですね。あなたはまだ幼いのに、とてつもない偽りを、経験してしまったのですね」
「そうだよ。世界の全てを疑うべきだった。心を許しちゃいけない。証明出来ないものを信じるのは馬鹿なんだよ!」
悔しさで涙目の僕は、そのまま横になった。
部屋に戻る気力がない。
「寂しいのですね」
そっと、あの子は僕に近づいた。
「寂しくない。自分だけが真実なんだから。他人に何かを求めてはいけない」
「だとしても、どんな理屈があるとしても」
そして僕を抱きしめながらこう言った。
「私は、私なら紛れもなく真実じゃないですか」
「……そう、だった」
「絶対に信じていいですよ。私だけはずっとあなたのそばにいるって」
すべては疑うべき、と言ってたけど。
何故かその言葉だけは真実だと、心の底からわかった。知っていた。
そして先まで感じてた憂鬱な気分は、晴れになった。
◆
それから、いや、実はもっと前から。
悲しい時は慰めを、寂しい時は励ましに。
あの子はいつも僕の側にいて、ずっと心の支えになってくれた。
あの子は…誰だ。
世界で唯一、俺が絶対真実だと思っていたあの子。
大切な人だったはずなのに、よく思い出せない。
ずっと昔の話だから?
いや、違う。
そんなに昔の話だけではない。
つい先まで、あの子は僕のそばにいた。
それなのに、なんで思い出せないんだ?
歳をとり僕はとても忘れぽくなった。
最近もっとひどくなった。
しかし、それにしてもだ。
大事な事も忘れるってのは、何かの病気じゃないかと思う時もある。
な、お前はどう思う?
店が安定したら、一度病院に行くのも悪くないかも知れない。
店?
ああ、
喫茶店だ。
そう、僕は…店で…
僕はずっと誰かと話をしてる思ってたけど、これは夢だったね。
まったく夢に中では、今が夢だとわからないって。
支離滅裂な夢が終わり、僕は現実にもどる。