写真家と姫
その男は、ミューズを探していた。
男が初めて一眼レフを手に取ったのは、中学三年生の時である。親に内緒で購入したそれは、プロの写真家が使うカメラと比べれば随分とチープな代物だった。しかし、男はその一眼レフを、今でも捨てることなく棚の奥に仕舞っている。あれから、もう十年が経とうとしていた。
男は、ミューズを探していた。美しい景色を彩る最後のピースを、ずっと追い求めていた。
男の写真は、理路整然としたものである。確かな知識と技術に支えられた、美しい写真だ。簡単な加工を施せば、ネットを介してある程度の値で買い手が付くような、教科書通りの写真である。
貯金は無いが、写真で食べていくことはできる。もう少し実績を積んで、大企業に自身を売り込んで生活する。成功した写真家に分類されるのが、この男であった。
それでも男は、ミューズを探していた。
当時、中学生だった男は、実に傲慢だった。男はその中学校の写真部の中で、最も優れた写真家だった。男には景色から写真を切り取る才能があったし、勉強熱心でもあったから、中学一年生の時分で部長と並ぶほどの綺麗な写真を撮っていた。だから、この男は自分の才能に自信と誇りを持っていたし、それ相応に傲慢だった。
不真面目な部活仲間たちと共に赴いた写真展で、男は名立たる写真家たちの作品を熱心に眺めていた。男は主に景色の写真を撮り続けていたが、この時、男は、人を映した一枚の美しい写真に出会った。
雲ひとつ無い快晴、空に溶ける地平線と白い砂浜、ワンピースの女性――それは実にありきたりな構図だったが、男はそれに心を動かされた。
しかしその感動は、純粋な感心ではなかった。この写真の主役は、写真の中央に映る女性である。白いワンピースを着ているせいで彼女は砂浜に埋もれていたし、カメラの角度が悪かったのか、せっかくの快晴はレンズに反射した光のせいでくすんで見える。
――自分の方が、彼女をもっと美しく撮れる。
そうして、男はミューズを探し始めた。
あれから、もう十年が経とうとしている。
男はその日も、朝日を浴びるためにカーテンを開けた。あくびをひとつと背伸びをしてから、眠気覚ましのためのコーヒーを淹れる。男はコーヒーより紅茶が好きだったが、朝だけは渋い顔でコーヒーを飲んでいた。だから男は、その日もベッドに背中を向けていた。
――光が差していた。
男は、違和感を覚えて振り返った。人の気配がした、とでも言うべきだろうか。お世辞にも綺麗な一室とは言い難いそこに、なにか、とんでもなく美しい存在が降り立ったような気がした。
――光が、指していた。
「こんにちは、見知らぬ殿方」
艶やかな黄金の髪と白雪のごとき肌――宝石を埋め込んだような翡翠の双眸を、重く濡れた厚い睫毛が縁取っている。純白のシンプルなドレスが、彼女の美を、より一層、引き立てていた。
彼女は、寝台の上で穏やかに微笑んでいる。男は、彼女の薔薇色の唇が言葉を発するために小さく動くのを、吸い込まれるように眺めていた。
「――あなた様の願いを、叶えに来ました」
光が降り注いでいる。それはひどく幻想的な光景だった。
小鳥のさえずりと、規則的な秒針、コーヒーの香り――衣擦れの音が、男の日常に降って湧いた非日常を、いっそ悍ましいまでに一枚の絵として完成させた。
「……ミューズ」
男は、ミューズを探していた。
フローリングの隙間に染み込んでいくコーヒーに、男は気付かない。彼の小さな呟きに、彼女は相も変わらず穏やかな表情で、うっそりと微笑んだ。
男はまず、その場を動かないようにと彼女に指示を出した。彼女は頷く代わりに目を細めて、そこに静止したまま男を待つ。
男は、プロの写真家らしい道具一式を携えて、彼女の元に戻ってきた。角度を変えて、何度も彼女を写真に切り出す。彼女は、心得ているとばかりに、ただそこに佇んでいた。
「――違う」
「……違う、とは?」
彼女は微動だにせず、男に目線だけをやって問いかける。男は逡巡の後、もう一度だけカメラのシャッターを切った。
「何と言いますか……光の具合に、納得がいかなくて」
彼女はどこか分かっていないような顔で、はぁ、と頷いた。
日本の朝は、彼女に似合わない。彼女の美しさを際立たせるのは爽やかな朝の日差しではなく、例えば英国のくぐもった朝日や、雨が降りそうな暗い午後の日差しである。男は手元のカメラと美しい彼女を見比べて、小さく唸った。
やがて、重苦しい溜息と共に、男はカメラを下ろした。写真の出来栄えに満足したわけではないが、これ以上、良い写真が撮れるとも思えない。
一度カメラを置いてしまえば、男は一気に現実に引き戻された。彼女は何者なのか、どうやってこの場所に現れたのか。何をどう尋ねるべきか悩んで、じいと彼女を見つめる。彼女は相変わらず、穏やかに笑みをたたえていた。
「あなた様は、画家……なのかしら」
男が言葉を発するより先に、彼女は小首を傾げた。上品で、繊細で、浮世離れした仕草だ。
「いえ、画家では……一応、写真家です」
「……写真家、ですか?」
男の言葉に、彼女は大きな目をゆっくりと瞬かせた。幼気に男の言葉を反芻して、記憶を探るように目線を下げる。彼女の長い睫毛が、まろやかな頬に影を落とした。
「写真家さんは、何を望んでいらっしゃるのでしょう」
彼女は、翡翠色の瞳に物憂げな色彩を宿しながら、男に問いかけた。
「何を、と仰いますと……?」
「……あなた様は、わたくしに、何を望んでいらっしゃるのでしょう」
――あなた様の願いを、叶えに来ました。
男の中で、その問いの答えは既に出ているようなものだった。
男の眼裏に、一枚の写真が浮かび上がる。黒髪を揺らす白いワンピースの女性と、青く沈む地平線、光を反射する眩しい砂浜――。
「僕の……僕の、ミューズになっていただけませんか」
男の縋るような問いかけを聞いて、彼女は物語の中のお姫様のように、綺麗に笑って頷いた。
「はい。それが、わたくしの役目ですから」
「ところで……あの、あなたは……?」
すっかり乾いてしまったコーヒーをモップで拭き取りながら、男は彼女に問いかけた。純白のドレスを纏った彼女は、行儀良くリビングの椅子に腰かけている。彼女は用意されたダージリンをひとくち口に含んでから、わたくしに名前はありません、と言った。
「わたくしは、この世界の者ではありません。姫という役割を与えられた、名も無き脇役にございます」
男はどこか分かっていないような顔で、はぁ、と頷いた。
彼女がこの世界の者ではないと聞いて、男は妙に納得している。しかし、現状を正しく把握できているかと問われれば、答えは否だった。
「わたくしは――わたくしたちは、あなた様のような、何かしらの願いを持つヒトの元へ遣わされます。そうして、あなた様方の願いを叶え、元の世界へ帰るのです」
モップに移ったコーヒーの香りを鬱陶しく思いながら、男は話半分に頷いた。
「それで、あなたは……」
「あなた様の願いを、叶えるために来ました」
訊きたいことは多くあったが、男はひとまず頷いて、適当な壁にモップを立て掛けた。
「あなたは別の世界からやって来た異邦人で、僕の願いを叶えることで元の世界に帰ることができる。あなたは元の世界に帰るために、僕の願いを叶えたい、と?」
えぇ、と、名前の無い彼女は上品に頷いた。
「元の世界とは、いったい……」
まるでかぐや姫のようだと、男は思った。
「わたくしが居たのは、御伽噺の世界です」
「御伽噺? ……有名な話ですか?」
「有名ではありますが、無名でもあります。わたくしに、名前はありませんから」
どう返答するかを迷って、男は誤魔化すように、新しく注いだコーヒーをすすった。いつもより味が薄くて、苦いように感じる。
「帰らなければ、いけないんですか」
渋い顔をして、男は言った。どうしてこんなことを言ったのか、男自身にも、理由はよく分からない。
「はい。帰らなければなりません」
婚約者がいますから、と言った彼女は、真顔だった。
ひとりの写真家としての男は、もっぱら景色ばかりを撮影していた。だから、被写体と共に撮影場所を訪れるのは、今日が初めてのことである。
男が撮影場所に選んだのは、廃墟だった。森の中に佇む、寂れた洋館である。
森の木々に遮られて柔らかく差し込む陽の光は、彼女によく似合うするだろう。しかして、清らかで神秘的な彼女に、森が内包する清流や滝は映えないだろうとも感じたのだ。彼女の清廉さを際立たせるためには、薄汚れた廃墟こそが相応しいと、男は直感していた。
「……まぁ、なんてこと」
彼女は廃墟を視界に収めると、嫌悪の感情を隠しもせずに、驚いたような声を上げた。
「こんな場所で、いったい何をなさるのです?」
「撮影ですよ」
彼女はもう一度、まぁ、と言った。
「あなたに似合うと思って」
「……失礼な方ね」
整った眉を寄せながら顎を引いてみせた彼女に、男は楽しそうに笑った。
「そうかもしれません。お姫様を、こんな場所に連れてくるなんて」
蔦が絡み黒い汚れが目立つこの洋館は、夜になれば幽霊屋敷と騒がれそうな代物だ。しかし、構造それ自体は実に立派なもので、風情があるこの館を、男は大層気に入っている。
「それじゃあ、撮影に移りましょう」
彼女と共に洋館の周囲を歩き回る。それらしい場所を見つける度に、男は足を止めた。彼女に指示を出しながら、シャッターを切る。時に寝そべり、時に木に登り、時に石に躓きながら――男は夢中で、彼女と景色を撮り続けた。
「楽しそうですね」
ふわりと笑った彼女を見て、男は咄嗟にシャッターを押した。間延びしたシャッター音が木霊する。
「……え、あぁ、すみません。今、なんと?」
「楽しそうですね、と」
面食らった顔で、男はカメラを下ろした。楽しそうなのは、彼女のほうではないか。
「中には入らないのですか?」
「はい、入りません。……危ないんで」
彼女は、男が思っていたよりもずっと行動力に溢れていた。蔦の匂いを嗅いでみたり、錆びた鉄の門を綺麗な指先でなぞったり、彼女は好奇心の赴くままに歩みを進めた。男は、そんな彼女を少し遠くから眺めては、思い出したようにカメラを構えた。
「恋する顔とは、そのような顔のことを指すのでしょうね」
書物の中でしか知りませんけれど、と彼女は言った。
「恋? ……誰が、誰に?」
「あなた様が、お仕事に、です」
男は首を傾げた。しかし、クスリと笑った彼女は実に美しかったので、とにかくシャッターを押した。
「……書物の中でしか知らない、とは?」
「そのままの意味です。わたくしは、城の外の世界を知りませんから」
恋する乙女は美しい、と言ったのは誰だったか。恋をしていない彼女がここまで美しいのであれば、恋する彼女は、いったいどれほど美しいのだろう。
「城の中であっても、恋愛くらいはできるでしょう」
「……さぁ、どうでしょう。吟遊詩人は、やってきますが」
彼女は曖昧に笑っていた。
「――海は」
海を見たことはありますか。
問いかけた男に、彼女は寂しそうに首を振った。
「書物の中では、知っています」
男は、彼女の手を取って森を出た。
男は、車の助手席に座る彼女へ、思いつく限りの質問を繰り返した。趣味は、好きな食べ物は、誰と共に生活しているのか、城とはどのような場所なのか。一日をどのように過ごしているのか、楽しいことは、嫌いなことは。見てみたいもの、聞いてみたいもの、食べてみたいもの、触ってみたいもの、やってみたいこと、行きたい場所、見たい景色。
曖昧に笑うのかと思いきや、彼女は案外はっきりと自分の意見を述べた。趣味は読書、好きな食べ物は鳥肉、両親や使用人たちと生活しており、城は綺麗で華やかな場所ではあるがあまり好きではない。彼女の一日は可もなく不可もなく、侍女から城下町の話を聞くのが好きで、大臣が色目を使ってくるのが嫌い。鍛冶師の仕事に興味を持っていて、果樹園の様子が気になっていること、羊の毛を刈ってみたいこと、お祭りで食べ歩きとやらをしてみたいこと、砂漠や海を巡ってみたいこと、異民族の元を訪ねたいこと。
「わたくし、写真を撮ってみたいわ」
赤信号で、車が止まった。彼女はじっと男を見た。
「……なぜ?」
「だって、あなた、楽しそうだもの」
友人のおもちゃを欲しがる子供ように、彼女の声は弾んでいる。男は後部座席を一瞥して、良いですよ、と言った。
辿り着いた場所は、海だった。男は運転席から降りて、助手席の扉を開ける。彼女のシートベルトを外して、エスコートするように手を差し出した。
「結構よ」
彼女は力強く言ってから、自らの足で、おそるおそる砂浜へと足を下ろす。その場で軽く足踏みをする彼女を横目に、男は後部座席から、二台のカメラを取り出した。比較的軽いほうのカメラを彼女に差し出して、自身もカメラを構える。
「……これは、大切なものでしょう。こんなに簡単に、他人に仕事道具を預けてはいけないわ」
「良いんです。それはもう、使わないので」
彼女は、ムッとしたような、安堵したような、期待を隠しきれないような、複雑な顔をしていた。
彼と彼女は、並んで砂浜を歩いた。彼女はその好奇心をカメラという新しいおもちゃに傾けているようで、率先して海に近付こうとはしない。見様見真似でシャッターを押した彼女は、しばしその動きを止めてから、手元のカメラと男とを見比べた。
「撮れてますよ」
彼女は顔を輝かせた。男はシャッターを切った。
【略】