新春
祖父がお屠蘇を飲む手を止めて、不意ににっこりした。
「ああ、きたか」
座敷机に戻された盃を見ると、透明な日本酒の上に、鮮やかな黃色をした菊の花の一筋が、ゆらりと浮いている。
正月の座敷は華やかだ。おせちやご馳走を所狭しと並べた机、鏡餅や掛け軸など正月飾りを施した床の間、同じく正月飾りと客用食器を詰めこんだ飾り棚など、たくさんの物に溢れている。
けれど、菊の花はどこにもない。
「これは十和子さんが入れてくれるんだよ」
「十和子って、おばあちゃん?」
「ああ、そうだよ」
祖父は機嫌良くうなずく。
だが、祖母はもうずっと以前に亡くなっている。
「十和子さんはね、毎年こうやって、私のお屠蘇に菊の花を浮かべてくれたんだ」
祖父はニコニコしながら、また杯を傾ける。
「健康で長生きしてくださいねって」
垂れた目の奥に優しい光が満ちている。
「それから、いつまでも二人でいましょうねって。だから、今でも正月には、私の盃に菊を入れてくれるんだよ」
当然のように祖父は笑う。疑問など微塵も感じていない顔で。
死んだ祖母が、今、目の前にある盃に菊の花を入れる。それがおかしなことだと認識できていないらしい。無邪気に笑って杯を重ねている……。
不意に、すうっと祖父の脇から白い手がのびてきて、祖父の腕にかかった。女の手だ。
はっと見ると、祖父の隣に若い女性が座っている。女性は全体的に朧げで、体が透けて後ろの襖が見えている。
その面影に見覚えがある。
おばあちゃん――?
女性はにこにこ笑いながら祖父に寄り添っている。
二人の隣り合う姿はあまりにも自然だ。まるで遥か昔から今までずっとそうしていたような、違和感の差し込む隙のない、完全に調和のとれた光景。
ああ、そうか。おばあちゃんはずっといるんだ。生きていても、いなくても、関係ないんだ。きっと、それが自然なんだ。
祖父はにこにこと杯を進める。その隣で透けた祖母がにこにこ微笑む。
どこからともなく微風が吹いた。新春の風は、仄かな菊の香を含んで、柔らかく座敷を包んだ。