お父さんは神様の機長
「父は飛行機が大好きでパイロットになったそうなんです。休みもなかなかとれない国際線の機長になってから会うことは少なくなりましたが僕には自慢の父でした」
そう話す彼は手元でピンバッジをいじる。
私の視線に気づいたか彼は笑いながらそれを見せてくれた。
何やら不思議な形をしている。中央がいくらか膨らんだ楕円の形をしたものの上下に角の取れた三角が二対ついている。
材質はなにか金属だろうか、年代物のように見えるのに滑らかで輝きが褪せていない。
彼にそれを返すと彼の口が止まった。
「帰ってきたら目一杯僕と母に甘えてくる父が大好きでした…そんな父が飛行機事故で亡くなったのは僕が小学校三年生のときです」
その日の事は今でもはっきり思い出せます。小学校で授業を受けていた僕は教室に飛び込んできた教頭先生に荷物をまとめて帰るように言われました。
何が起きたのかわからない僕は手元の教科書をしまい家に戻ったんです。
家では母が泣いていました。その様子になにかよくないことがあったのだと、すぐにわかりました。
母の他に知らない大人がいる、でも僕はそんなことよりも母が泣いているのが気になって近寄りました。
「ヒーくん、お父さんが…死んじゃった」
泣きじゃくる母の言葉に僕は何を言われたのかそのときはさっぱりわかりませんでした。
ランドセルを落として母に抱きついていたと思います。
それからは慌ただしく時間が過ぎました。
父が操縦していた飛行機はエンジントラブルで事故を起こしました。
どうにか着陸させようとしたようなのですが、結局機体ごと海に墜落したそうです。最後の瞬間まで父と副機長、搭乗員のみなさんは生きることを諦めずにいたのだと、事故の調査をされた方からあとで聞きました。レコーダー解析で分かったそうですよ。
「ヒーくん、お父さんはもう戻ってこないの…寂しい?」
「寂しい…」
寂しいというと母は悲しそうに眉を下げるのです。
遺体のない葬儀でした。今でもお墓の中には何もありません。父だけでなく、あの事故で多くの家庭では遺体のない葬儀を行ったそうです。
僕の自慢で大好きだった父がいなくなり、母も僕も抜け殻のようでした。
幸いにも父の実家も母の実家もどちらも僕たちを見捨てることなく立ち直れるまで支えてくれました。だから今こうしていられるんです。
「当時僕は飛行機がトラウマとなりました。音を聞くのもダメでした。なので家を完全防音にしたんです。テレビにも気を使いましたね。いつ飛行機が映像で出てくるかわかったものじゃないから」
彼は今は笑っている。だが、そうして笑えるまでにいかほどの時間と、苦痛があったのだろうか。
彼も、彼の母親も。
「……父が死んで、半年すぎたあたりでした。当時僕は学校には行っていませんでした。学校側もわかってくれていたようで定期的に担当教員が家にやってきて勉強の話や学校の話をしてくれました。今思うと先生たちに負担かけていて申し訳ないですね」
そんなことはない、と首を振る。
大きな事故の当事者とは言えないまでも彼の話す事故は当時も、そして今も話題に上る。あの事故があったから、飛行機のエンジンのみならず、各部品、機体の定期的な検査の義務付けおよび報告と製品そのものの厳しい基準が新たに制定されたのだ。
「夜に寝ることもなかなかできない日のほうが多かったです。そんな日はベッドに座り、ひたすら空の星の数を数えていました」
時計の針は頂上をとっくに過ぎたのにそれでも眠れずにいました。夜も眠らないのに昼間だって寝れるはずもありませんでした。
だから、いつ夢を見たのだろう、と思うんです。
『ヒロ』
名前を呼ばれました。紛れもなく父の声でした。
振り向けばベッドのそばに父がいました。パイロットの制服を着て穏やかに笑っています。
父が死んだなんてうそじゃないか、だって今ここにいるのだから。
そう思いました。けれど、そこにたつ父の姿は透けていました。
『ヒロ』
父は再び僕の名前を呼びました。膝をつき、ベッドに座る僕と目線を合わせて笑ったのです。
僕はここにいる父は、父であり父ではないものだと思いました。
「パパ」
『あぁ。どうした、眠れないのか』
呼び掛けて応えが戻ると我慢なりませんでした。
父に抱きついて泣きじゃくったのです。抱きついた体は暖かくありませんでした。
そこにいたのは父の幽霊だったのかもしれません。向こう側も透けていて体温もないので間違いないとは思うのですが、なぜ抱きつけたのか今思うと不思議ですね。
「パパ…パパっ」
『あぁ。ごめんなぁ、ヒロ。ママにもお前にも寂しい思いをさせてしまったな』
「さび、しくなんて…パパは…みんなを、助けようてしてって」
『そうだなぁ、でも俺を含めて戻れなかった…たくさんの人を悲しませてしまったな』
頭を撫でる大きな手も広い肩も、最後に会った記憶の中そのものでした。
父は僕が落ち着くまで抱き締めてくれました。一緒にベッドに上がり父はこんな話をしてくれました。
『父さんは今空で飛行機に乗っているんだ』
「飛行機…」
『怖いか』
父や多くの人の命を奪うきっかけになった飛行機はまだ怖いものでした。
素直にうなずけば、そうか、と父は僕の頭を撫でてくれました。
『空の上にはいろんな人がいるんだ。知らない国や場所で死んでしまった人たちを、故郷に送るための飛行機のパイロットなんだぞ』
「パパ、パイロットやってるの」
『あぁ。死んでしまったとき、神様にまた新しく命をもらうか飛行機を操縦するか、どちらをしたいと聞かれてパパはパイロットがいいと答えたんだ。ヒロが、パパはかっこいい、と何度も話してれたからな』
父は嬉しそうでした。空の上にも飛行機があるなんて知りませんでした。慰めの話だったかもしれません。
でも、パイロットの制服の襟元に見慣れないピンバッジがあったんです。それがこれでした。
『神様の飛行機のパイロット、それが今のパパの仕事だ。ヒロ、パパはいつも空を飛んでいる』
父は襟元のピンバッジをはずして僕の手に乗せました。ずしりと重たいものでみたことのない形でした。
『パパの飛行機には神様も乗ってくるんだぞ』
「すごい…神様ってどんな格好なの?」
『うん?いろいろだな。どこかに遊びにいくのかTシャツ着ていたこともあるし民族衣装の神様もいた』
「飛行場は空にあるの?」
『雲の上にあるぞ。すごく高いところにあるから人間にはどうしても見えないんだけどな』
父の話す空の飛行場の話は突拍子もないものでしたが楽しいものでした。
気づけば飛行機への恐怖がほんの少し薄れていたように思えます。
僕にはやはり自慢の父でした。
『ヒロ、もしお前がパパに会いたくなったのなら空を見るといい。眩しくて見えないかもしれないがヒロが空をみたときパパは飛行機に乗って確かにそこにいるから』
「僕…僕もパイロットになる!そうしたらパパに会いに行けるよね」
我ながら単純でした。空にいるなら会いに行けばいい、子供だからそう考えたのです。
父は驚いていましたが嬉しそうに抱き締めてくれました。
パイロットになるのは簡単なことではないし、ましてその時の僕は飛行機への恐怖も少し薄れたとはいえど大きかったんです。
だけど父に会いたかったのは確かでした。
『ヒロ、お前ならできる。待ってる』
「うん!頑張る!絶対パイロットになってパパに会いに行く!」
手のなかのピンバッジを握りしめて父に約束しました。
泣きそうな笑顔で父は何度もうなずいてました。
この先こうして会うことも話すこともできないと思うとまた泣きそうでした。
でも、父と約束したんです。勉強も運動も何事にも一生懸命ぶつかること、母と仲良く暮らすこと、夢を諦めないこと、空への憧れを消さないこと。
『ヒロ、ママもお前も俺には大事な大事な家族だ。この先も二人で健やかに生きてくれ』
「うん…うんっ」
『大好きだぞ』
父はその言葉を最後にいなくなりました。
夢だったのか、でも僕の手には確かに父の襟元に輝いていたピンバッジがあったんです。
ベッドを飛び降りて母の寝室に行けば寝ている母に抱きつきました。驚いた母に先程のことを話せば信じていませんでしたがうなずいてくれました。
「それからこのピンバッジは僕にとっては約束の証であり父と会った証明でもありました」
史上最年少で国際線パイロットになった彼の目は誇らしげである。彼はその操縦技術をかわれ、各国要人の専用機も操縦しているらしい。
「…お父様の飛行機をみたことほ?」
「一度だけ。とはいっても、正確にはみてないし、影でしたからそれがそうとはいいきれません」
はじめて機長として乗った飛行機が雲海を飛んでいたとき、目の前に巨大な影が落ちたのだという。
ほかの飛行機のルートに入ってしまったかと思い管制室に連絡を取ればほかの飛行機は周囲にはいないという。
だが、彼も副機長も影が見えている。
影の位置からして真上にいるようだと判断できた。雲海にうつるその影はやがてスピードを早めて追い越していく。
不思議なことにその影は、楕円に翼のようなものが二対あった。飛行機の形では決してない。
「父の飛行機だとすぐにわかりました。きっと僕のはじめての操縦を見守りに来たのだろう、と。影が通りすぎたそこには機体なんてなかったんですから」
確かに父は空を飛んでいるのだとわかった。
いつまでいるのかもわからないし、また会うかもわからない。
それでも自分が空を飛ぶ限りまた会えるかもしれないという期待がある。
「父は僕の誇りであり目指すものに代わりはありません。父のようなパイロットにはまだまだなれませんが、追いかけ続けたいと思います」
話し終えた彼は空を見上げていた。雲ひとつなく、どこまでも青い空から飛行機のエンジン音が聞こえてくる気がした。
ふわ、と降りてきた二人のお話。
故郷以外で亡くなった人の魂は、こうして故郷に戻るといいな、なんて想像してました。