六話
それから二日も三日も、俺は家から出ないまま過ごした。
アサギは顔を見せず、それどころか電話もしてこなかった。
なんでこんな時に限って、と八つ当たりしかけたが、思い返してみると連絡なんて前からこんなもんだった。木曜からこっち一悶着あったが、それが元通りになったに過ぎない。
なのに、俺はこの体たらくだ。
わざと焦らしているのなら、流石としか言いようがない。
それで結局、四日目だ。
今は何をしているのかと言えば、スマホ片手にうだうだしている。
言いたくはないが、まるで好きな女子に電話しようとしている男子中学生だ。
ただ、これまた自分で言うことじゃないが、躊躇うのも仕方ない状況ではある。なにせ俺が電話しようとしている内容は、あまりに身勝手だ。厚顔無恥と言ってもいい。
そうと自覚した上で頼らざるを得なくちゃいけないくらいに追い込まれているとも言えるし、頼ってしまいたくなるほど誘導されたとも言える。
どうあれ、選択肢は他にない。
……いや、あるのか。あるんだろうな、多分。
それこそ今から親に電話して、頭を下げればいい。アパートを追い出されるから引っ越さなくちゃいけない、そのための金を工面してくれ。そう頼めば解決する。
そうでなくともバイトでもなんでもして引っ越しにかかる金を用意して、引っ越すことになったから家賃の振り込みはもう不要だと事後報告すれば済む話だ。
何故そうしない。
自問自答するまでもなく、分かっていた。
バイトの求人サイトを調べるより親に連絡する方がずっと楽で、親に連絡するよりアサギに連絡する方がまだしも楽だからだ。
情けなくて笑えてくる。
だが一方で、心の中には開き直る俺がいた。
情けない思いをするだけで食い繋げるなら、そんなに安いこともない。
スマホを手にしたまま何時間を過ごしただろう。
とっくに夕方だ。アサギは大学を出て、帰路に着いている頃か。
今を逃せば、またずるずると先送りにしてしまう。そうやって三日も無駄にした。
分かっているのに、躊躇っている。
この半年、そんなことばかりしてきた。随分と臆病になったものだと自嘲させられる。
昔から臆病だったのかもしれないが、だからこそ手遅れになる前に先手先手を打ってきた。
今はどうだ。
荒波に落ちるのが怖くて沈みゆく船にしがみつく臆病者が、今の俺だろう。
分かっているのにどうして動かないんだ、と笑われるかもしれない。実際、俺はそういう奴を笑ってきた。現実が見えてない、まともに考える脳すらない。そう笑ってきた。
今なら分かる。
分かっているからこそ、怖いんだ。
船と一緒に海の底に沈むのは怖いが、それと同じくらい海の上を漂いながら死んでいくのが怖い。
どっちも怖いから、自発的に行動しなくていい船の上にいたいのだ。
自覚はある。
あとは、だからほんの一瞬だけでも恐怖を振り切る、人並みの勇気だ。
「勇気、……勇気ねぇ」
笑ってしまった。
スマホの画面に指を走らせながら、臓腑が震えるのを感じる。
呼び出し音が意識の上を滑っていった。アサギにしては出るのが遅い。
そういえば、アサギは電話に出るのが異様に早かった。まめな性格だし、ついでに俺の名前を見てからの反射神経が凄まじかったのかもしれない。そう思うのは驕りだろうか?
しかし、アサギを今は信じるしかない。
最初からこうしていればよかったんだろう。
勇気なんて必要なかった。幼い頃は、誰しも勇気なんてものを持たずとも笑っていたはずだ。あれこれと考えていた学生時代の俺だって、ただ考えたつもりになっていただけで本当にはろくに考えてもいなかったんだろう。
何より恐ろしいものからは無意識のうちに目を逸らし、勇気なんてなくても生きられた。
今の俺は違う。
差し詰め、登山の途中に後ろを振り返ってしまったような感じだろうか。
見なくてもいいものを見て、心配しても仕方のないことを気にして不安に駆られる。
だから勇気なんてものが必要になるのだ。
竦み上がった足を前に踏み出すための、新しい第一歩が必要になるのだ。
「ごめんなさい!」
通話が繋がったと思った次の瞬間、アサギの謝る声が聞こえた。
背後がガヤガヤと騒がしい。電車の中だろうか。それにしてはアサギの声が大きい。電車の中なら、もっと声を潜めるだろう。
「あぁ、いや、こっちこそ悪い。大丈夫か?」
「大丈夫ですっ!」
まぁ、大丈夫じゃなくちゃ電話に出ないか。
急に喉が乾いてきた。それで自分が緊張していることに気付く。
「センパイから電話してきてくれるなんて驚きましたよ。それで、えっと……なんでしょう?」
だが電話越しに聞こえるアサギの声も、どこか緊張しているようだった。いや、緊張というより、慌てている感じだろうか。上手く聞き取れない背後の音が形を結んでいく。
「あ、悪い、バイト中だったか?」
慌てている理由が分かった気がした。
「いえ、全然! 大丈夫ですよ!」
言葉とは裏腹に、休憩中という感じはない。
アサギのバイト先がどこかは知らないが、この時間帯に繁盛している店なのは明白だろう。
迷惑だったか。
思ったままに口から出そうになって、すんでのところで堪える。問うまでもない。迷惑をかけていると思うのなら、分かりきったことを口にする時間で本題を切り出すべきだ。
しかし、急がなければと思えば思うほど、言葉が出てこなくなる。
電話越しにアサギが困惑しているのが伝わってきた。
まずい。迷惑がどうのと言う前に、何か間を埋めなければ。
「あー、いや、なんだ」
ようやく出てきたのは、けれどもあまりに無意味な言葉。
俺はこんなにも口下手だったのかと呻きたくなってくる。勿論、呻いている場合ではない。
「すまん、大した用事じゃなかったんだが……」
言いながら、心の中で想像上の頭を抱える。
実際にはかなり大事な話だったんだが、ここでもまたプライドが邪魔をした。
「その、なんだ、本を買いに行くことになってな、今度」
いったい何を言っているんだ、俺は。
本を買いに行くからなんなんだ。俺は小学生か。週末の予定まで一々親に伝えなくちゃいけない小学生か何かか。というか、その理屈だとアサギが親ってことになる。
俺ですら意味が分かっていない言葉をアサギが理解できるはずもなく、電話越しに「はぁ……?」と困惑の声が聞こえた。
思考が高速で駆け巡る。
何かないか。ニートになってからの半年で最も速く回転した思考を、ただただ体裁を整えるためだけに使った。無駄遣いも甚だしい。だが幸い、答えは見つかった。
「それで、もし暇だったら一緒にどうかと。いや、ほら、俺あんまり本屋とか行かな――」
言い終える前に、電話の向こうで奇声が上がる。
正解、だったんだろうか。今になって不安になってきたが、他に選択肢がなかった以上、仕方ない。……ということにしなければ、自責で自分自身を焼き殺してしまいそうだった。
「あ、あの! それはつまり、デートってことですか!?」
「違う!」
「でもっ!」
「断じて! 違うッ!」
一方的に叫んで、電話を切る。
……なんでこんなことになったんだ。
思わず天井を見上げてしまう。カーテン越しの夕日が、天井までも薄っすらとオレンジ色に染めていた。もう秋だというのに、汗ばむくらいの暑さだ。大声を出したのがいけなかったのかもしれない。
そのまましばらく放心していたかったが、スマホの着信音が俺を現実に引き戻す。
言うまでもなく、アサギからだ。ただし電話ではない。いつ行きますか、というメッセージだった。
俺にとってはその場凌ぎ、体裁を保つためだけの方便でも、アサギにとっては違うのだろう。
だろう、というか、違うのだ。
まぁ、そりゃそうか。曲がりなりにも好きな相手からの誘いだ。なんで俺なんか、と未だに思いはするが、他人の恋心まで疑いの目で見るほど落ちぶれたくはない。
「悪いことしたなぁ」
素直にそう思う。
同性愛なんて俺からすればどうでもいいというか、実力行使にさえ出なければ個々人の心中なんて自分の勝手でいいと思うのだが、生憎と世の中はそうじゃない。
そういう気にしないところが好きだとアサギは言ったが、だとしても打ち明けるのは勇気が要っただろう。それこそ溺れるほどの酒の力に頼らなくちゃ手にできないほどの勇気だ。
また勇気か。
笑えてきた。ニートになってからはよく笑うようになったが、最近は特に笑っている気がする。勿論、楽しいからじゃない。気持ちが悪いからだ。反吐が出る気持ちで、自嘲している。
俺の予定くらい知ってんだろ、とメッセージを送り、アサギの予定に合わせると伝えた。
腹は、まだ決まらない。
だが決まろうと決まるまいと、知ったことか。
いずれ勇気を振り絞らなくちゃいけないのなら、無様を承知でアサギの胸を借りよう。
せめてアサギにくらい――。
関係が壊れてしまうのを覚悟で思いを打ち明けた後輩にくらい、本音で当たらなければ申し訳が立たない。
「申し訳、ね」
こんな時にまでプライドが顔を覗かせていた。
また自嘲する。
だが、最悪それでいい。この際プライドだろうとなんだろうと、使えるものは使う。後輩相手に本音を隠すようなクソ野郎になるくらいなら、ヒモになった方が何億倍もマシだ。
まぁ、ならないけど。
ひとしきり笑ったら、不意に眠気が襲ってきた。
汗をかくくらいには暑いが、不思議と気分は良い。
今日はよく寝られそうだと、そんなことを考えているうちにも意識は薄れていった。
そして、土曜日。
まるで一年前に戻ったかのような『普段着』を着て、俺は駅前に突っ立っていた。
「……遅い」
この十五分で何度となく見てきた駅舎の時計を見上げ、何度目かの舌打ちをする。
アサギが伝えてきた日時に、アサギが伝えてきた待ち合わせ場所に着いて、早十五分。待ち合わせの二分前に着く電車でここまで来た俺が言うのもなんだが、あいつは待ち合わせという概念を理解しているんだろうか。いや、まさかとは思うが……。
「すみませんっ、センパイ!」
貧乏揺すりまで始めた辺りでアサギの声が聞こえ、そちらを睨む。
聞き間違いではなく、そこには確かにアサギがいた。小走りしてくる。……が、しかし。
「ごめんなさい、待たせちゃ――」
「待ってるに決まってんだろうが。お前はアホか。それはわざと遅刻してきた奴が言う台詞じゃねえんだよ!」
ここまで走ってきた割りには服装や息が整いすぎているアサギに吐き捨てる。
「……チッ」
「せめて時間ちょうどに来いよ」
「だって、それだとセンパイと同着じゃないですか」
「それは理想的な待ち合わせだと思うんだが、何が不満なのかな?」
呆れた。
まさかとは思っていたが、本当にやるとは……。
――待ちました?
――ううん待ってないよ、俺も今来たとこ。
そんなくそったれなくらいに甘ったれた茶番がしたいなら他の男を漁れ。
「うぅ……、他に言うことないんですかっ!?」
唸り、睨むように見上げてくるアサギを一瞥してやり、鼻を鳴らす。
「そうだな。お前に女装趣味があったのは初耳だな」
ボーイッシュという言葉は、俺の記憶違いでなければ女に対して使う言葉だったはずだ。勿論、そうした趣きの服は女物である。少年みたいな格好といっても、少年の格好そのものではない。
翻って、今のアサギはどうか。
「変態は帰れ。着替えてこい」
細かい名前までは分からないが、下は七分丈のタイトなパンツで、上は薄手のシャツに、やはり薄手の上着。こう言うとなんだか普通な感じだが、どれもサイズが男物ではない。
「こ、これは男女兼用なんです」
「いや、どこに騙される要素があるんだ?」
「いやいやいや、人聞きが悪いですよセンパイ。センパイがそういう目で見るからそういう風に見えるだけですって。ねぇ?」
いつになく饒舌。それだけで断定するに余りある。
とはいえ、アサギの言も分からないではない。
上着が胸回りのラインをぼかす一方で、腰回りは細身なのがよく分かる。それとパンツの裾から覗くスネは、剃っているのかと疑ってしまうくらいに毛がない。
だが、どれも単体で見れば、なるほど男の服装や身だしなみとして不思議なものではないだろう。
問題は全体として偏りすぎていることと、相手がアサギということだ。
「じゃあ一つ聞くが、お前、そんな服持ってたか?」
わざわざ遅刻してきたことまで加味すれば、疑いを挟む余地はない。
「いくらセンパイだからって、僕の持ってる服を全部知ってるわけじゃないですよね?」
「少なくとも俺が大学にいた頃には見なかったが」
「だったら、この半年で買っただけかもしれないじゃないですか」
「にしては馴染んでるというか、着崩された感があるが?」
「半年もあったんですから、そのくらい不思議でもなんでもないですよね?」
「お前、夏にそんな格好するのか?」
以下略。
アサギは、それでも頑張った。
努力の方向性が完全に間違っていた気がするが、ともあれ頑張りはしたのだ。
ただ悲しいかな、どれだけ努力しても、白を黒にすることはできない。嘘は嘘のまま、女物の服が弁舌だけで男物の服に早変わりすることもないのである。
しかし一方で、俺の努力もあまりに不毛だった。
はいそうです女物の服を着ています、とアサギが言ったとしよう。だが、それが何になる? たとえ女装だろうと、このまま解散するわけにはいかない。
これでスカートを穿いているなら話は別で、いくら後輩であっても隣を歩いてほしくないというのが正直な思いだが、男女兼用と言われればそう見えなくもない格好なのだ。
だがまぁ、アサギもこの言い争いの不毛さに気付いたのだろう。
「……帰れって言いませんか」
まるで子供のように口を尖らせ、不意に話の流れを断ち切った。
「電話では本屋と言ったが、俺は今日、腹を割って話すために来たんだ。初志貫徹のもと、心を鬼にして正直に言うとだな」
「長いです」
「たとえお前がスカートを穿いてきたとしても、不承不承認めざるを得ない状況ではある」
というか、帰れと言って、素直に帰られては困る。
時々小学校とかで問題になるというが、言葉の綾というものだ。
「本当ですか」
「いや、今からスカートに着替えるのはなしだぞ?」
「僕もそこまでの勇気はないですよ……?」
むしろ勇気があったらスカートを穿いて街を歩くのか。
背筋が凍る。
まずいなぁ、これは。
何がまずいって、アサギがどっちなのか、ほぼほぼ確定したことがまずい。
一瞬、安堵しかけてしまった。「あ、そっちね、そっちなら」まで心の声が再生されかけた。あの電話から……いや、あのホテルからこっち、心の防衛ラインが脆くなっている気がする。
「まぁ、とにかく、帰れとは言わない。今後に関しても、ちゃんと事前申告してくれれば認める。俺はお前の趣味にまで口出しする気はない。つうか、その権利は誰にもない」
改めて心を引き締める。
若干うるっとした瞳で上目遣いされても、これっぽっちも心は揺るがない。
……いや待て、揺らげ。そこは揺らいで、ある程度以上の吐き気を催してくれ。
そんな俺の攻防戦を知らないアサギが、ようやく意を決したように口を開く。
「ごめんなさい!」
「やっぱり女物か」
「……というか、その、センパイとデートするって言って、バイト先の先輩から借りてきました」
センパイとか先輩とかややこしいが、それ以上に聞き捨てならないことがあった気がする。
「デートじゃない」
「えっ、そこですか?」
何を驚くことがあるのか。
そこ以外のどこを訂正しろと? まさか、気付かれてはいないつもりだったのか。
「お前が俺のことを言ってるらしいことは、バイト中に電話出た時点で薄々察してはいた。バイト先の人間にまで伝える必要があるのかは知らんが」
業種までは分からないが、あの時の電話の音から察するに、どこかの店で店員として働いていたはずだ。休憩時間でもないのに持ち場を離れるバイトなんて問題児もいいところだが、それを許容してくれるくらいには寛容な職場なんだろう。
いいことだ。
……いいことなのか?
まぁ、何はともあれ、そういうことだ。多分、俺のことは伝わっている。デートだと言われて女物の服を貸す『先輩』には文句というか、色々と言いたいことがあるが。
「すみません。白状しますと、センパイのこと大体喋りました。……その、年中人手が足りてないようなところなので」
「時間を持て余したニートが知り合いにいると?」
「はい。調子乗って就活に失敗したけど能力だけはそこそこ信用できる知り合いがいると」
なんだか悪意のある訂正をされた気がするが、気にしたら負けだ。そもそも訂正し直すだけの材料がないとも言う。
「それについてはまたの機会に言うとして、とにかく今は本屋だ、本屋」
またも本屋を言い訳にして、話を終わらせる。
ただの言い訳に過ぎないと知りながら、それでもアサギは楽しそうに頷いた。
「そういえば、聞いてなかったですね。なんの本を買うんです?」
「人間失格」
「……え?」
間抜け顔のアサギは置き去りにする。
といっても、本当の意味での間抜けは俺の方だろう。
本屋があるのは、駅前から大通りを挟んで反対側にそびえる商業ビルだ。待ち合わせてから電車に乗るならまだしも、電車を降り、駅前に出てから待ち合わせるような場所ではない。
だからまぁ、最初からアサギの茶番に付き合う予定だったというわけだ。
本屋の用事は数分で済んでしまった。
というのも、純文学の売り場は見つけやすいところにあったし、ヨシノに勧められた人間失格は予想の半分の厚さと値段だったからだ。小難しい小説は読み慣れていないが、二百ページくらいなら無理なく読める。出費も自販機のジュース二本分と考えれば痛くはない。
アサギが一緒だったというのも大きいだろう。
本屋に行くと言って誘いはしたが、それでも用事のない相手を延々付き合わせるのも悪い。
それで結局、アサギが行きたいと口にしたファミレスに行くことにした。
当のアサギは何故か恐縮していたが、ファミレスに寄るのは俺にとっても都合の良い話だ。本屋は咄嗟に口から出た方便で、本題は他にある。だがアサギは気付いていないようだった。
いつもは、というかここ最近はもっと勘の良い奴だったんだが、まさか本当にデートだと思い込んで舞い上がっているのだろうか。だとすれば底抜けの幸せ者だ。
ともあれ、今更躊躇っていても仕方がない。
「なぁ、アサギ」
「あの、センパイ!」
しかし、こんな時に限って間が悪い。
いや、間が悪いというか、息が合わない。ぴったり合っても、それはそれで気持ち悪いが。
「なんだ?」
このまま譲り合いになっても面倒臭い。
今度は先手を打って、アサギが何か言う前にコーヒーを啜る。インスタントに比べれば格段に美味い。美味いが、やはり高い。
「その、すごく今更なんですけど、そっち側行ってもいいですか?」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。
とはいえ、あくまで一瞬だ。すぐに状況を思い出して、苦笑する。
「いいわけないだろ」
ファミレスで横に並んで座る二人組の男とか、気持ち悪いを通り越して気味が悪い。
「でも、折角のデートなのに並んで座らないのは勿体ないと言いますか」
「デートじゃないし、仮にデート中のカップルでもファミレスでは向かい側に座るだろ」
敢えて『向かい合って』とは言わなかったのだが、どうやらそれが余計に機嫌を逆撫でしたらしい。アサギは露骨に嫌そうな顔をして、そっぽを向いた。
「そんなこと言ったら奢りませんよ!」
挙げ句、こんなことを言い出す始末だ。
「や、ここは最初から俺が奢るつもりだったんだが……?」
まぁ、なんだ。
全面的に俺が悪いのだが、後輩が奢る気満々でいるというのもどうなんだろう。俺が女ならまだしも、この通り、どこをどう見ても男だ。いや、だからこそなのか?
兎にも角にも、最初から奢られるつもりなどないのだから、アサギの言葉は脅しにもならない。
「ていうか、隣に座りたいんだったらもっと別の、それこそカウンターとかあるような店にすりゃよかっただろ」
バーとかに連れていかれた日には苦渋の決断で割り勘を申し出る羽目になっていたが。
「……だって」
「だって?」
「大学生のデートって言ったら、ファミレスじゃないですか!」
「中学生の間違いだろ、それは」
身長と一緒に恋愛観まで中学で止まってるんじゃないだろうか。
いやまぁ、アサギの中学時代の身長とか知らないけど。知りたいとも思わないし。
ただ、それでもアサギの言い分には、ほんの少しだけだが頷くべき部分があった。
しばらく考えて、他の選択肢がないことを悟る。同じ妥協なら、少しでも相手に歩み寄った方がいい。勿論、自分の守るべき部分は守った上でだ。
「いっそラーメン屋でも行くか?」
笑いながら言って、スマホに手を伸ばす。
「そろそろ昼だ。ここで済ませてもいいが、ラーメン屋ならカウンターもあるだろ」
本屋を出た時はファミレスで話すつもりだったが、一度気にしてしだすと、どうにも周りの目が気になって仕方ない。まぁ正確には目ではなく耳だが、同じことだ。
「話がある。理由に目を瞑れば、横に並んでた方が都合が良いってのは俺も同じだ」
「話、ですか」
「そう、話だ」
アサギの声と眼差しには若干の警戒が見え隠れしていた。
何を警戒することがあるんだろう。少なくとも俺はアサギの言動に沿った形で話そうとしているつもりなんだが。
……と、そこで気が付いた。
告白して振られはしたが、まだ諦めていない相手から、改まって話を切り出されているのだ。そりゃ警戒もするだろう。そもそも俺がどう思っていようと、言葉にしなければ伝わらない。
「あー、いや、なんだ」
また間抜けな声が出る。
「ラーメンって気分じゃないなら、別のところでもいいんだが。っていうか、ここで済ませて部屋なり何なりで話すんでもいいんだが」
頭をかきながら言えば、ようやく伝わっただろうか。
アサギは何事か考える素振りを見せてから、おずおずと口を開いた。
「回転寿司でいいですか」
「えー、回らない方がいいなー」
「今の流れでそうなりますっ!?」
悲痛な叫びは、しかし心の底から湧き出たものではないと分かる。
「まぁ真面目な話、回らない寿司だと俺の財布が死ぬ」
「えっと……、回る方のお寿司なら、全然奢りますよ?」
「どう見ても夕飯って時間じゃないが、そこはどう考えてるんだ?」
そう何度も後輩に奢られてたまるか。
財布的には有り難いが、プライドというか自尊心的にはズタボロもいいところだ。
じっくり味わいたかったコーヒーを一息に飲み干し、アサギが紅茶を飲み終えるのを待ってから腰を上げる。
その後、レジに行って伝票を出す辺りまではアサギも自分の財布を握っていたのだが、いざ支払いの段になったらそそくさと仕舞っていた。女にやられたら一瞬イラッとする仕草も、アサギが相手となると違う感想を持ってしまう。
「なんのつもりだ?」
払う素振りは見せるが実際に払う気がない、というのが一般論だ。
しかし俺の知る限り、アサギはおよそ一般的ではない。俺が奢ると言っているにもかかわらず払う気満々だったアサギが、どうして急に考えを変えたのか。それが気になった。
「……その、なんと言いますか」
ひょこひょこと俺の横に並んでから、どこか躊躇いがちに呟く。
「彼氏が会計してるのを後ろで待つって、あんな気分なのかなと」
「俺がいつお前の彼氏になったよ……」
まぁ、そんな感じだろうとは思っていたが。
だとしても、わざわざ確かめたことを後悔させられる答えだ。
「ただ想像しただけじゃないですか!」
「ただ想像しただけねぇ」
「ま、まぁ時にはただ想像するだけじゃな――」
「やめてくれ頼む、やめてくれ」
そして少し茶化してみれば、倍返しどころかクロスカウンターが飛んでくる。
ここ何日かで何度も経験させられたはずなのに、どうしてこう繰り返すんだろう。
考えてみて、我ながら笑ってしまった。
「え、突然どうしたんですか」
アサギにまで怪訝そうに言われるとなると、これはもう末期だ。やはり笑うしかない。
「いやなに、楽しいなって思っただけだよ」
真面目腐って言おうとすれば苦労するのに、笑いながら言うだけでこうもすんなりと言葉が出てくる。
「へぇ、楽しいですか。僕と話してるのがですか?」
「そうだよ。つうか、他にどう取れた?」
引っ込むタイミングを失ったらしい笑い声を上げたまま横を見て、直後に笑いが引っ込む。
今の今まで冗談を投げ合っていたアサギが、なんと顔を真っ赤に染めていた。
どこに怒らせる要素があったと考えかけ、思い留まる。逆か。
「……なんでそうなる」
割と笑えない下ネタまで平気で言い放つくせに、なんで今になって恥ずかしがる。
「だって、センパイがそういうこと言ってくれるとは、思わなくて」
「どんなひどい奴だと思われてたんだ、俺は」
呆れ、ため息をつく。
俺は正直だったつもりだ。
本音を隠すことがあったのは認める。特にここ数日、それがひどくなった。
だが元々は、そうではないと思っている。相手を傷付ける嘘は、避けてきたつもりだ。
だからこそ、今この瞬間気付いたことには、我ながら呆れ返ってしまう。
正直さは、免罪符にはならない。
他でもない俺がアサギ相手に言ったことを思い出す。
ブスにブスと言うのか、と勢いのまま怒鳴ったが、まさにその通りだ。正直な思いであればどんなことを言ってもいいだなんて、そんな道理はこの世に存在しない。
仮に口では許してくれても、内心でまで嘘はつけないだろう。
「嫌な思いさせてたなら謝るよ」
一言零し、辺りを見回す。
確かここらにあったはずなんだが。
「それは僕の台詞じゃないですかね?」
控えめに笑うアサギの言葉は聞こえなかったことにして、ようやく見つけた回転寿司屋を遠目に覗く。昼時とあってか、大繁盛だ。入り口付近に行列が見える。
「あれは無理そうだな」
「じゃあ、どうします?」
悩んだのは、ほんの一瞬だった。
「うち、来るか?」
言ってから、回転寿司の代替として自分の部屋はどうなんだと頭をかく。けれども、喧嘩に向かない以外は、自宅というのが何かと都合が良かった。
アサギが変な意味で捉えないかも心配だったが、それは気にするだけ無駄か。
「分かりました! そういうことですね!」
「絶対に分かってない奴の言い方だが、まぁわざとだろうから気にしないでおくわ」
予想できていたのに反応してしまった時点で、俺の完敗だ。
負け惜しみに鼻を鳴らし、行くぞと声に出しては言わないが態度で示す。
そして実際に歩き出してから、我に返った。一年前、ただの先輩後輩だった頃の方が、もっとちゃんと言葉にしていた気がする。言葉にしなければ伝わらないと思っていたはずだ。
何が楽しいのか、ニヤニヤしながら斜め後ろをついてくるアサギをちらと見やり、心中でため息を零す。
言葉にしなくても伝わると思うようになった俺と、言葉にして伝えてもいいと思ったアサギ。
そういうことか。
ようやく腑に落ちた。
これじゃあ、ことごとく後手に回るのも無理はない。