二話
結局、大通りまで出てタクシーを捕まえた。
すっかり熟睡しているアサギを放り込んだ瞬間に顔を強張らせた運転手は、「男ですよ、こいつ」と言われて初めて喉仏に気付いたようだ。危うく準強制わいせつの疑いで通報されるところだった。
いや、何も男同士なら安心ってわけもないだろうが。
寝ながら気持ち悪い声を上げるアサギのせいであらぬ疑いをかけられた気がしないではないが、幸い、タクシーが止まったのは交番ではなく俺のアパートの前だった。
最悪アサギの財布を漁ろうかと考えていた運賃も、どうにか足りた。財布は自販機にすら門前払いされるほどに軽くなったが、明日にも飲み代を請求すればいい。
とにかくアサギを引きずり降ろして、部屋まで運んだ。
部屋に入って、敷きっぱなしだった布団にソッコーで落とす。
同じ男だから仕方ないことだとは知っているが、気持ち悪い声を上げながら膨張するそれを腰に感じ続けるのは拷問に等しい。しかも、どんなに謙虚さを持とうとも、寝言で呼んでいる相手が俺となれば現実逃避にも限界がある。
重さと酒臭さと他諸々から解放されて、ようやく疲れを意識できた。
「寝よう」
と呟いた直後、俺の寝床がアサギに占領されていることに気付いた。今からでもどかそうか。いや、でも流石に悪い。もっと言うと、仮にどかしたところでアサギの体温が残る布団では寝られないだろう。
諦めて頭をかく。
まぁ、七時間も寝た後だ。一晩くらいどうとでもなるだろう。
台所に行って、薬缶でお湯を沸かす。電気ケトルなんて気の利いたものはない。マグカップにいつもの倍は粉末を入れて、数分待つ。この時間帯だと近所迷惑じゃないかと不安になってくるピョーという間抜けな音が鳴ったら、沸騰したお湯をカップに注ぐ。
出来上がったインスタントコーヒーを一口飲んで、顔をしかめた。
「まっずい……」
不味いと知りながら、なんで淹れたんだろう。
いや、心のどこかでは分かっていた。
こうでもしないと、忘れられそうになかったのだ。歯を磨くのは、何故だか躊躇われた。
そして、こんな時に限って、時間は遅々として進まない。
スマホを充電ケーブルに繋いで、さっさと起動。一時間以上前のアサギからの着信履歴がずらりと並んでいる。他の着信はなかった。メールもメッセージもなし。
通知や宣伝のメールしか届かないことに、もう何も思わなくなった。
いつものスマホゲームを起動し、金曜日の曜日クエストを周回……しようとして、スタミナが全然溜まっていないことに気付く。そういえば消化したばかりだ。
早くもやることがなくなった。
適当なゲームを落として初回無料ガチャでも引くかとも考えたが、あれは虚しくなる。かといってまとめサイトを見ても、重課金勢の高レアガチャユニットを見せつけられるだけだ。
ため息を苦すぎるインスタントコーヒーで飲み下す。
胃が痛い。
無理やり飲んだ酒と、今のカフェインが原因だろう。
そういうことにして、適当にSNSを開く。フォローしてあるスマホゲームのアカウントの、いつもは見ないメンテナンス情報を眺めた。またガチャに新規ユニットが追加されるらしい。
ユニットの立ち絵も公開されていた。
まぁ可愛い系なのは認めるが、特別可愛くもなければ上手いわけでも綺麗なわけでもない。
返信は絶賛の嵐。露骨に崩壊した絵でも可愛いエロいと騒ぐネット民の意見は信用できない。
早くも興味がなくなった。
……が、何故か画像を閉じる気になれない。なんでだろう。惰性で眺めていて、気付いた。
絵に見覚えがあったのだ。
アニメのキャラクターに似ているとか、小説の挿絵や漫画のタッチに似ているとか、そういうことではない。
この絵を、俺はどこかで見たことがある。
どこだったか。SNSか、別の投稿サイトか。これで何かのパクリだったらネットは大騒ぎだろう。いっそ炎上でもしてサービス終了に追い込まれれば、課金勢の阿鼻叫喚が見られる。
そうでも思わなければ、やっていられなかったのだ。
調べなければいいのに、調べずにはいられなかった。この人じゃないか、と返信欄で挙げられていたイラストレーターの名前を見て、息が止まる。
「馬鹿じゃねえの?」
このネット時代に実名でエロ寄りの絵を書くとか、危機管理能力がないんじゃないか。
そう喚かなければ、心がどこかに行ってしまいそうだった。
これは俺と一緒にニートになると思っていた、あいつの絵だ。
椅子に座ったまま、気付いたら寝ていた。
正確に言うと、寝ていたかどうかは定かではない。ふと我に返った時、カーテンの向こうに黎明の薄明かりがあったというだけだ。四時間くらい放心していた可能性もある。
いや、ないな。
寝ていたんだ。うたた寝なのか、ふて寝なのか。前者であってくれと願い、腰を上げた。
冷たくなっていたコーヒーを流しに捨て、冷蔵庫からペットボトルの水を二本掴む。
「う……うぅ…………」
その片方を、布団で呻いていたアサギに投げる。
「……うぅ、すみません」
かなりの頭痛に襲われているに違いない。取り損ねたペットボトルを拾いながら、この世の終わりみたいな顔で半分も一気飲みする。むせこんで、なんなら少なくない量を吐き出した。
「馬鹿か、お前」
「冷えた水渡すセンパイが馬鹿じゃないですか?」
吐いた水の冷たさで目が覚めたらしい。これが怪我の巧妙というやつか。
「…………で、なんで僕、服着てるんですか?」
「どんな夢を見ていたのかは俺の精神衛生のために墓まで持っていけ」
「……チッ」
あぁ、夢の中でも本懐は遂げられなかったのか。
そりゃ何よりだ。
もしこれで布団の下が大惨事になっていたら、布団代まで請求する羽目になっていた。
互いに無言のまま、時間だけが過ぎていく。
カーテン越しでも分かるくらいに日が昇っていった。そろそろ朝飯でも作ろうか。でも何を作ればいい。普段は何を食べていたのかと考えて、何も食べていなかったことを思い出す。じゃあ何も食べなくていいか。……でもアサギがいる。さっさと飲み代だけ返してもらって、あとは自分でコンビニ弁当でも食ってもらうか。いや、しかし――
「センパイ」
現実逃避は、非情にもアサギの声によって断ち切られた。
「んだよ」
「……シャワー、貸してもらっていいですか?」
「あ? あぁ、お湯張っていいぞ。俺も昨日は入り損ねた」
アサギも一人暮らしだ。説明されなくても沸かし方くらい分かるだろう。
それでも何か言おうとしていたアサギに、視線で何かあるのかと訊ねる。相手は首を振って、そそくさと風呂場に逃げていった。
そして一時間も出てこなかったのだが、何をしていたのかは聞きたくないし、聞いてはいけないのだろう。
脱衣所から顔だけ出したアサギが着替えがないと言うので、もう着ていないTシャツを渡した。あと適当なスウェットに、サイズを間違えて買ったまま返品しないで放置していたパンツも。ちなみに俺はトランクス派だ。アサギがどうなのかは知らん。
しかし、脱衣所から出てきたアサギはスウェットを穿いていなかった。
元々のサイズ違いに加え若干伸びていたせいで股下丈になったシャツと、見えないが穿いてはいるはずのトランクスだけ。理由を訊ねれば、大きかったので、と当たり前のように答えた。
実際、アサギは俺より十センチほどは背が低い。アサギは華奢で腰回りも全然違うから、サイズが小さかったのは事実だろう。ただ、それが理由の全てということもあるまい。
とはいえ、理由の一端なのは揺るぎのない事実だ。
押し問答をしたいのでなければ、問い詰めたところで意味はない。
俺が黙ると、アサギも何も言わなかった。言い訳くらい考えていたのかもしれないが、それなら出鼻を挫けたわけだ。ただまぁ、満足していいものかは分からない。
なにせ、アサギは一分足らずで復活してみせたのだから。
「センパイ」
改まった調子で口を開くアサギに返す言葉は、なかった。
なんと言えばいいのか分からなかったし、正直に言えば、何も答えたくないという気持ちすらある。でも、それは許されない。少なくともアサギは、許してくれない。
「好きです。センパイのこと、ずっと恋愛対象として見てました。付き合ってください」
順番がおかしい。
いや、だが今になっては認めるしかないのだろう。
半年もニートをやっている奴にしつこく連絡してきたのは、気を遣っていたわけではない。
確信があったわけではないが、まぁ、何か妙な視線を向けられていることには気付いていた。気付いた上で、無視してきたのだ。気付いていないと俺自身に言い聞かせてもいた。
昨日だって、そうだ。偶然で足がもつれたわけじゃない。俺が気を抜いた瞬間にアサギが足を引っ掛け、押し倒したのだ。
だが、俺は無視した。気付かない振りをした。
そうしないと関係が……先輩と後輩、友人とは呼べないにせよ、友人とはまた違う貴重な繋がりが壊れてしまうと、知っていたからだ。
アサギが気付いていないはずがない。
なのに、わざわざ自分から壊そうとするのか。繋ぎ止めようと思えば繋ぎ止められた関係を。
「断る」
考えたが、他の言葉はついぞ浮かばなかった。
アサギは男だ。
世の中に同性愛というものが存在しているのは知っている。生き物ですらない人工物に恋をした人物の話も聞いたことがあったから、男が男を愛そうと別段おかしいとは思わない。
ただ、俺は違う。
徐々に世間が寛容になってきているのも知っているが、だからといって世の中の男全員が男を好きになるわけじゃない。
俺が初めて誰かを好きになったのは保育園の年中さんだった頃だが、相手は年長さんの女の子だった。小学生になっても、中学、高校に上がっても、好きになった相手は女だ。
「男に欲情する趣味はない。分かったら帰れ。服はくれてやる」
これで終わりだ。
アサギも黙り込んだ。明日から……いや今日から、俺のスマホはゲーム機になる。電話なんて、もう親でもかけてこない。
そういえば飲み代を請求し忘れた。
今更、帰る前に金だけ置いていけとは言えない。また今度会った時に、というのは事実上の手打ちだ。今月の食費はとことん切り詰めないと、本格的にパンの耳を売ってくれるパン屋探しを始めることになる。
嫌だな、それは。
パンの耳なんて大抵のところで売ってくれるはずだが、パンの耳を売ってくれと頼むのは惨めだ。自分が社会の底辺だと改めて思い知らされるだろう。
やっぱり朝飯は抜きだ。
まぁアサギが帰った後に二度寝でもすれば、ちょうど昼飯時になるだろう。風呂に入ってから寝れば夕食時になるかもしれない。節約、それがニート生活の基本だ。
「……で」
馬鹿馬鹿しい。
ため息が零れる。
「なんでお前はまだいるんだ?」
告白してきたその時のまま、アサギは未だに突っ立っていた。
まさかOKするまで帰らない、などと言うつもりでもないだろうに。
「話が終わってなかったので」
「は? どう考えても終わっただろ。付き合ってください、嫌です。これ以上にどう続く?」
これで終わらない話は恋愛ではない。犯罪の予備軍だ。
しかし、何をどう考えているのか、あるいは犯罪も辞さないつもりなのか、アサギは鼻で笑って返した。今までにないくらいムカつく態度だ。
「センパイ、まさか僕が無策で玉砕するとでも思ってたんですか?」
「無策じゃないのに玉砕する意味が分からないんだが……」
「……だから好きになったんですけど、センパイ、ちょっと優しすぎません?」
「は?」
唐突すぎて、話の流れが読めなかった。
文脈を読め、と国語のテストに出されたら、正答者は一人も出ないんじゃないだろうか。
「いいですか、センパイ」
「よくない」
「センパイは男に欲情する趣味はないって言いましたよね? つまり女の人が好きなんですよね。棒より穴が好きなんですよね。なのに、なんでまだ笑ってるんですか?」
色々と言いたいことはあったが、言ったら負けな気がする。
というか、俺は笑っていただろうか。
思わず伸ばしていた指が、苦笑気味に歪んでいる頬に触れる。
「これは笑ってるうちに入るのか?」
「少なくとも嘲笑ではないでしょう? 男の人を好きだと言っても、馬鹿にして笑わない。気持ち悪いと笑わない。怒るわけでも、気味悪がるわけでもない。汚いもの扱いしないし、同じ断るにしても、ちゃんと気遣ってくれる。その上で、いつも通り笑ってくれる」
アサギの瞳が俺を見据えていた。
昨日の道端でも見た、熱のある眼差し。
これを気持ち悪いと一蹴しないことが、まさか好きになる理由だとでも言うのか。
「馬鹿なのか、お前」
「僕はセンパイの顔とか性格とか仕草とかも好きですけど、一つ一つ挙げていきます?」
「やめてくれ」
やめてください。
思わず懇願してしまった。ニートとはいえ先輩の威厳を保つために、敬語は心の中だけに留めたが。……いや、しかし、アサギには見透かされているかもしれない。
「とにかく、俺は断った。これ以上にどう話が続く。お前に何ができる」
まぁ不意に薬を盛られたりしたら対処できないが、流石にそこまではしないだろう。それはただの犯罪だ。それが恋の手段として正当化されるなら、世界から性犯罪はなくなる。
「センパイ」
「なんだ?」
というわけで、遠からず話は終わる。
「センパイって、ニートですよね?」
「にっ、にに――」
「ごめんなさい、言い換えますね。ニートじゃないですか、センパイって」
「にに二度も言うなッ! 世の中には言っていいことと悪いことがある!」
「でも事実じゃないですか」
「お前はブスに直接ブスって言うのか? 違うだろ? そこは言わないのが大人だろ?」
いや、待て、冷静になろう。取り乱した。
一つ息を吐いて、吐いて、吐いて、吸い忘れていたことを息苦しさで思い出して一つ吸って、また吐いて、また吸う。ようやく落ち着いてきた。
「……事実は事実として認めるが、それとこれとは話が違う」
「で、ニートのセンパイ」
「お前もニートになるか? あぁ?」
「ごめんなさい、言い換えますね。センパイだったニートさん」
なんなんだ、これは。
曲がりなりにも愛の告白から始まった、見ようによっては青春の一ページに見えなくもない一幕じゃないのか? 昨日の熱烈な……あー、アレはどこにやった。愛が冷めるのが早すぎやしないか。
それとも何か? 同性愛の上に加虐嗜好とかいう希少種だったりするのか?
「半泣きのところ悪いんですけど、センパイ、話進めていいですか?」
「半泣きじゃないから全然進めてくれ」
鼻を啜る。
温くなったペットボトルの水を呷る。
天井を見た。これは水だ。ペットボトルの水が零れただけなんだ。
「で、センパイってニートじゃないですか」
「進めてくれ」
「あ、そうだ。昨日のお礼、お母さんとお父さんにしたいので、電話かけてもらえます?」
「昨日のお礼?」
「……? だって、昨日立て替えてくれたお金って、ご両親からの仕送りですよね?」
今、何時だろう。
ふと気になって、時計を探す。そういえば壁掛け時計なんてうちにはなかった。スマホを取って時間を確かめようとして、横から奪われる。アサギは何か操作してから放り投げた。布団に着地。俺とスマホの間に、アサギの顔が割って入る。
「人が大切な話をしてる時にスマホ触るって、どういう了見してるんですか?」
「頼むから親に連絡するのだけは勘弁してくれ」
「連絡したように見えました?」
「してないですね、そうですね」
この半年、俺は相当な忍耐力を手に入れたつもりだった。
それがどうだ、ほんの十分足らずの後輩の言葉で砕け散りそうになっている。
「ここからが真面目な話なんですけど、センパイってこの先どうするつもりなんですか?」
心がどこかに飛んでいったような気分だ。
心がフワフワしている。アサギの旋毛が見えた。やっぱり俺の心は飛んでいる。
……違った。
アサギが俺の前に座っただけだ。仕方なく普段は小物置きになっている椅子を引っ張ってきて、そこを勧める。
「就活に失敗するのは仕方ないです。センパイの場合は油断大敵って言葉が真っ先に浮かびましたけど、まぁ結果は同じですよね。就活に失敗して、新卒ニート。それが現実です」
「進めてくれ」
「でも、そこで止まってちゃダメですよね? センパイ、なんでニートやってるんですか? 別に人付き合いが苦手なわけでも、病気してるわけでもないですよね? バイトとか、しないんですか?」
「頑張れって言葉が毒になるの、知ってる?」
「病気してるわけでもないですよね? バイトとか、しないんですか?」
おっと、十秒戻し機能を誤爆したらしい。
……そんな現実逃避は一瞬で見透かされ、睨まれた。態度でだけ猛省する。
「大学出てフリーターとか、馬鹿だろ」
「馬鹿ですか?」
言われ、鼻を鳴らす。
人生の春休みたるモラトリアムを謳歌している大学生とて、人生設計という意味ではまだまだだ。自分で考えようとしない奴には、口で言って教えてやるしかない。
「そもそもフリーターってのが馬鹿だ。冷静に考えてみろ。二十代のうちは体力的にも求人的にも無理じゃない。正規雇用には劣るかもしれないが、時間が自由になるって利点もある」
夢を追いかけながら、生活のためにバイトする。十分アリだろう。お笑い芸人の苦労話では定番だ。
「だけど、三十代になったらどうだ? 一気に体力が落ちる。時間給じゃどうしても疲れが取れなくなる。四十代はどうだ? 求人が減る。足元を見られる。レジ打ちで女子高生にクスクス笑われる。五十代は? まぁ五十に限ったことじゃないが、怪我や病気の一つで生活がパーだ。医療費すら怪しい。年金も払えなくて、老後なんか真っ暗闇だ」
脱サラ動画投稿者とか、馬鹿でしかない。
三十、四十にバイト生活する体力なんてあるわけがないだろう。よしんば収入が得られるとしても、生活できるようになるまでの生活費はどうする。FXでの一攫千金は夢物語だ。
「ええと、センパイ?」
「なんだよ」
「ニートの医療費、どこから出でてくるんですか?」
「や、そこなんだよな」
思わず笑って返すと、大きすぎるため息が返ってきた。
「……分かっちゃいるさ。笑えよ。馬鹿は俺だ。知ってる。大卒だろうとなんだろうと、バイトでもしなきゃ生活できない。また就活するにしても、空白期間が痛すぎる」
分かってる。
分かってるのに、……また笑えてきた。
「小学校も中学も、当たり前に通ってた。不登校の奴とか、なんで学校くらい来ないのか意味が分からなかった。そんなことしても不利になるだけなのに、どうして分からないのかって」
口を衝いて出た言葉は、堰を切ったように止まらなくなる。
「高校もそうだ。今の世の中、中卒じゃ話にならない。高卒でも見下される。四年早く就職しても、その後の五年で追い越される。ちゃんと大学行って経歴作らなきゃ、スタートラインにも立てない。同級生が愚痴零してる時間で勉強して、大学まで見越して高校を選んだ」
何も間違っちゃいなかった。
成績の悪い奴らには良い子ぶってとかなんとか陰口を叩かれたが、今時、高校受験を真面目にやらない方が少数派だ。大抵は俺と同じ目をしていたし、その中でも俺は平均以上だった。
高校を大学受験の踏み台と思ったこともない。眼鏡をかけた優等生が机に齧りついていた放課後、一緒に馬鹿をする仲間とクラスの女子を誘ってカラオケに行った。勉強だけで高校三年間を終わらせるような間抜けも演じず、青春と勉強を両立させた。
勿論、大学も変わらない。
勉強しながら、横の繋がりを作った。頭でっかちにならないようにバイトもして、その金で酒を飲んだ。酒を飲めない新入社員は腫れ物扱いかもしれない。同期の奴らや、それこそアサギを誘って飲みに行って、四年間の学生生活を正しく謳歌した。
それを順風満帆と言えば、笑われるだろうか?
才能らしい才能もなく、夢らしい夢もなかった俺にとって、平凡を平凡のまま、けれども平均以上にやってきた過去が全てだ。出すぎて打たれぬよう気を遣ったことまである。
大きなミスもないまま、上手くやってきた。
友人、先輩、後輩、それと彼女。ネットで見かけるニートどもが妬むような大学生だった。
それが、どうだ。
受かって当然と思っていた企業に履歴書だけで落とされた。偉そうに豪語していた手前、同期の奴らとも顔を合わせづらくなった。コネを求めているように思われるのが嫌で先輩にも連絡しなくなった。彼女とも上手くいかなくなって、振られた。
「どうすりゃいいんだ? いや、働きゃいいんだよな。知ってるよ、知ってる。ニートなんかしてないで、せめてバイトでもすればいい。ていうか、しなきゃいけない」
お前の言う通りだ、と笑ってみせる。
笑えていたかどうか、分からない。少なくとも、頬に伝う何かはあった。
「けど、どうすりゃいいのか分かんねえよ。何が悪かったんだよ。何が……俺の何が悪かったんだよッ!」
怒鳴ってから、我に返った。
いくらなんでも、アサギに言うことじゃない。
なのにアサギは、からりと晴れ渡るような笑顔で俺を見ていた。
「運が悪かったんですよ」
「……は?」
「ていうか、今までが良すぎたんですよね。だからちょっと運が悪くなった時に、何が起きたのか分からなくなるんです。どうしていいのか分からなくなるんです」
意味が分からなかった。
運が悪い? だから、どうした。
今までが良すぎた? だったら、なんだ。
それとこれと、どう関係がある。運が良くても悪くても、今の状況は変わらない。
また怒鳴りかけたが、しかし怒鳴れなかった。
アサギの細く柔らかい人差し指が俺の口を押さえていたのだ。
美人にされれば心奪われるような仕草も、男のアサギ相手ではドキリともしない。ただ呆気に取られ、口にしかけていた言葉を見失った。
「僕は最初から運が悪かったですよ? だって、好きになったのが男の人でしたから。男の僕が男の人を好きになるのがおかしいことだって知るまでに散々泣いて、知ってからはもっと泣きました。見た目のせいでいじめられて、良くないことをされそうになったこともあります」
そして、アサギは笑った。
「僕は何も悪いことはしていません。ただ、運が悪かったんです。運が悪かったから他の人以上に苦労して、運が悪かったから他の人以上に頑張らないといけなかった。それだけです」
それだけ。
その言葉が、俺の心を優しく撫でながら手ひどく殴った。
「センパイは運が良かった。僕はセンパイのこと好きなので客観的には判断しかねますけど、それを差し引いても悪くない顔ですよね。体格も良いです。目立ちすぎず、でも小さくはなくて、ちょうどいい感じです。学力もそうでしたよね。あっ、声もそうでした」
ただ運が良かっただけだと言いたいのか?
いや、違うだろう。
そうじゃない、分かっている。分かっているのに、痛かった。胸が、心臓が痛い。
「でも、運が悪くなった。たまたまセンパイより良い大学を、良い成績で出た人が、何故か大企業じゃなくてセンパイと同じ企業を志望したのかもしれません。人事部好みの可愛い女の子がいたのかもしれません。うっかり見落とされたのかもしれません。とにかく、運が悪かったんです」
運が悪いだけ。
慰めに聞こえるなら、それは頭がお花畑な証拠だ。
運が悪いだけで努力が水の泡になるなんて、そんなの冗談じゃない。
だが一方で、確かに救いの言葉ではあるのだ。ただ運が悪かっただけで、俺は何も間違えちゃいないし、運以外には何も悪くもない。そう言われることが、どれほど救いか。
甘やかされているだけだと分かっていても甘えたくなるのだから、アサギが無策ではないと言うのも頷ける。
「……ったく、嫌になるな」
頭をかいて、アサギを見据え返す。
「なんだ、何が言いたい。まさか運が悪かったから仕方ない、諦めて次頑張りましょう、なんて言うつもりじゃないだろ? あんなことしておいて、親の代わりに説教ってわけもないし」
「あっ……、ごめんなさい。もしかして初めてでした?」
「いや? 去年の今頃……ちょうどお前の誕生日会やってた時にも彼女はいたが」
恨めしそうな視線は無視する。
そもそも大学生にもなって一度も経験がないわけが……と考えかけ、思考を急停止。アサギの眼差しに見てはならない感情が込められた気がした。いや、まさか。
その後もしばらく睨んできていたアサギだったが、一分も二分も無言が続けば流石に折れる。
ため息をつき、今度はじとっと冷たい目を向けてきた。
「センパイ、このままでいいと思ってるんですか?」
どうやら先ほどの話はなかったことにされたらしい。
「まだ半年だからいいですけど、一年経ったら悲惨ですよ? それに、ここ学生向けのアパートですし。ピカピカの大学生が入居して、あのおっさん誰だよって目で見てきて、ニートだってバレたら年中後ろ指さされるんです。ニートのくせに学生アパートにいるよ、とか」
「それがどうした」
「あと、ご両親からも早く働いてくれって連絡が来るようになりますね。仕送りやめれば働かざるを得なくなるのに、そうと知ってて仕送りだけはしながら働いてくれって手紙が一緒に来て。大家さんからも小言言われるんでしょうね。学生じゃないなら出ていってくれって」
アサギの言葉は、その一つ一つが鋭利な刃物だ。
分かっている。
そんなこと言われなくても分かっている。
「センパイ、これからどうするんですか?」
ニヤリと、いっそ嘲るような笑みを向けられても、腹は立たなかった。
いや、苛立ってはいる。全て分かった上で、何もしようとしてこなかった俺自身に。
それがニートの習性だろ、と笑ってみせようにも、笑い方が分からなかった。
「じゃあどうしろってんだよ、お前は。好き勝手言いやがって。てか、しやがって」
ただの八つ当たりだ。
昨日の件は擁護できないし、許容もするつもりはないが、だとしてもアサギの言葉は正しい。正しいからこそ、噛み付きたくなる。
言われなくても分かってるんだよ、そんなこと。
分かってるなら行動しろよ、と俺の中で理性が叫ぶのも無視して、そう喚きたくなる。
「じゃあ、お言葉に甘えて、単刀直入に言いますけど……」
しかし俺の苛立ちなどどこ吹く風と涼しげに、アサギは言うのだ。
「センパイ、僕と一緒に暮らしませんか?」